第12話


『ごめん、今日会えそうにない。熱出た。』


朝届いた晃哉からの短いメールに、唯は思わず飛び起きた。


熱?


珍しい。


晃哉は多少具合が悪くても、「大丈夫」で済ませてしまう人だった。


慌てて電話をかける。


「こうちゃん! 大丈夫!?」


『んー……大丈夫じゃないかも。』


掠れた声が返ってくる。


その瞬間、唯は財布を掴んで家を飛び出していた。


スポーツドリンク。


ゼリー。


りんご。


うどん。


アイス。


冷却シート。


風邪に良さそうなものを見つけるたび、次々とかごへ放り込む。


「買いすぎかな……」


そう呟きながらも足は止まらなかった。


晃哉が心配だった。


ただ、それだけだった。



社宅のドアを開けると、晃哉はソファにもたれたままぼんやりしていた。


顔は熱で赤く染まり、少し潤んだ目が唯を見上げる。


「こうちゃん!」


「……唯。」


いつもの笑顔がない。


それだけで胸が痛くなった。


「熱測った?」


「さっき。三十八度ちょい。」


「高いじゃん!」


唯は慌てて荷物をテーブルに並べ始める。


「スポドリ買ったよ。あとゼリーとりんごと……食欲戻ったら、うどん食べよ――」


「唯。」


「なに?」


「買いすぎ。」


「だって心配だったんだもん。」


「一週間寝込める量あるかも…笑」


晃哉は声を出して笑った。


だけど笑ったあと、小さく咳き込む。


唯は慌てて背中をさする。


「ほらー!」


「ごめんごめん。」


熱のせいだろうか。


いつもより少し素直だった。


それだけで可愛いと思ってしまう自分がいる。


「座って。」


「はい。」


「薬は?」


「飲んだ。」


「ご飯は?」


「食べてない。」


「もう。」


唯とのやりとりをを晃哉は不思議そうに。


少しだけ幸せそうに。眺めていた。


「なぁに?」


唯が振り返る。


「いや。」


晃哉は目を細めた。


「こういうの初めてだから。」


「なにが?」


「誰かが看病してくれるの。」


唯の手が止まる。


その言葉が妙に寂しく聞こえた。


「じゃあ今日が初体験だね。」


「うん。」


晃哉は少しだけ笑った。


その笑顔を見て、唯もようやくほっと息を吐く。


「だって大親友が熱出したんだよ? 心配で、気づいたらいろいろ買っちゃってたんだもん。」


そう言うと、晃哉はしばらく黙った。


熱のせいか。


それとも別の理由か。


いつもよりずっと静かだった。


唯は冷たいタオルを額へ乗せる。


「ちゃんと寝なきゃダメだよ?」


「うん。」


「薬飲んだ?」


「飲んだって笑」


「えらい。」


子供みたいに褒めると、晃哉は苦笑した。


「俺、大人なんだけど。」


「病人はみんな子供です。」


「なにその理論。」


二人で少し笑う。


だけど笑い声が消えると、晃哉はふいに静かになった。


そして。


唯の服の裾をそっと掴む。


「……こうちゃん?」


「帰る?」


熱に浮かされたような声だった。


唯は目を瞬かせる。


「え?」


「もう少しいて。」


その言葉に胸が跳ねた。


いつもなら。


晃哉はこんなこと言わない。


「大丈夫だから帰りな。」


「遅いから気をつけてね。」


そういう人だった。


なのに今は違う。


まるで縋るみたいに。


「いるよ。」


唯がそう答えると、晃哉は安心したように目を閉じた。


「よかった……」


小さな声。


その弱々しさが愛しくてたまらない。


唯はそっと前髪を撫でた。


「ちゃんと治してね。」


「うん。」


「元気になったら、また遊ぼう。」


「うん。」


晃哉はゆっくり目を開けた。


熱で少し潤んだ瞳が、まっすぐ唯を見つめる。


そして、不意に手を伸ばした。


唯の頬に触れる。


「こうちゃん?」


呼んだ瞬間だった。


晃哉は引き寄せるように顔を寄せる。


そっと。


本当にそっと。


唇が重なった。


一瞬だった。


だけど、そこには抑えきれない愛しさがあった。


離れたあとも、晃哉は額を寄せたまま動かない。


「……会いたかった。」


熱で掠れた声。


普段なら絶対に言わない言葉。


唯の胸がぎゅっと締め付けられる。


晃哉は目を閉じた。


「唯がいると安心する。」


その一言で。


唯は泣きそうになった。


強くて。


頼もしくて。


何でもできると思っていた人が。


今だけは。


自分を求めてくれている。


唯はそっと晃哉の髪を撫でた。


「大丈夫。」


まるで自分に言い聞かせるみたいに。


優しく囁く。


「私いるから。」


晃哉はその言葉を聞くと、安心したように唯の肩へ額を預けた。


外では雨が降っていた。


けれど、あの日の雨とは違う。


不安を隠す雨じゃない。


二人の距離を静かに近づける、やわらかな雨だった。



晃哉の呼吸は、少しずつ穏やかになっていった。


熱のせいで頬はまだ赤い。


唯はソファの横に座ったまま、その寝顔を見つめていた。


普段は余裕ばかり見せる人。


何を考えているのかわからなくて。


大事なことほど話してくれなくて。


いつも唯ばかりが追いかけていた気がする。


だけど今は違う。


眠る晃哉は無防備だった。


弱くて。


少しだけ寂しそうで。


まるで置いていかれることを怖がる子供みたいだった。


「こうちゃん?」


返事はない。


眠っている。


そう思った時だった。


「……帰らないで。」


かすれた声が聞こえた。


唯は息を止める。


晃哉の目は閉じたまま。


夢と現実の境目みたいな声だった。


「……唯。」


胸が痛くなる。


呼ばれただけなのに。


どうしてこんなにも。


「いるよ。」


唯はそっと手を握った。


すると晃哉は安心したように指を絡める。


まるで確かめるように。


離さないように。


「大丈夫。」


唯は静かに微笑んだ。


「どこにも行かないから。」


その言葉に答えるみたいに、晃哉の力が少し抜ける。


そして再び深い眠りへ落ちていった。


唯はそっと額にかかった前髪を整える。


こんな顔、初めて見た。


強い人だと思っていた。


何でも一人で抱えられる人だと思っていた。


だけど違った。


こうちゃんも、人なんだ。


寂しい時があって。


苦しい時があって。


誰かにいてほしい夜がある。


窓の外では雨が静かに降っていた。


あの日みたいな激しい雨じゃない。


世界を優しく包み込むような雨だった。


唯は眠る晃哉の肩にそっと頭を預ける。


そして小さく目を閉じた。


――ねぇ、こうちゃん。


あの時の私は、


あなたがこんなふうに弱い顔をするなんて知らなかった。


いつも私を支えてくれていたから。


いつも大丈夫そうに笑っていたから。


でも、本当は違ったんだね。


誰にも見せなかっただけで、


こうちゃんも寂しかったんだ。


不安だったんだ。


あの日、


「帰らないで」


って呟いたこと。


きっと覚えてないよね。


でも私は今でも覚えてる。


あの言葉が嬉しかった。


必要とされている気がした。


特別なんだって思えた。


だから、信じてしまったんだ。


この先もずっと。


私たちは一緒にいるんだって。


あの頃の私は、


まだ知らなかった。


人は嘘をつく。


優しい嘘も。


残酷な嘘も。


そして、


愛していても離れてしまうことがあるって。


だからこそ――


あの日の雨の音も。


熱に浮かされた声も。


私の名前を呼んだその声も。


全部、


今でも大切なままなんだよ。

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残響 いろは @pappi5021

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