第12話


『ごめん、今日会えそうにない。熱出た。』


朝届いた晃哉からの短いメールに、唯は思わず飛び起きた。


熱?


珍しい。


晃哉は多少具合が悪くても、「大丈夫」で済ませてしまう人だった。


慌てて電話をかける。


「こうちゃん! 大丈夫!?」


『んー……大丈夫じゃないかも。』


掠れた声が返ってくる。


その瞬間、唯は財布を掴んで家を飛び出していた。


スポーツドリンク。


ゼリー。


りんご。


うどん。


アイス。


冷却シート。


風邪に良さそうなものを見つけるたび、次々とかごへ放り込む。


「買いすぎかな……」


そう呟きながらも足は止まらなかった。


晃哉が心配だった。


ただ、それだけだった。


*


社宅のドアを開けると、晃哉はソファにもたれたままぼんやりしていた。


顔は熱で赤く染まり、少し潤んだ目が唯を見上げる。


「こうちゃん!」


「……唯。」


いつもの笑顔がない。


それだけで胸が痛くなった。


「熱測った?」


「さっき。三十八度ちょい。」


「高いじゃん!」


唯は慌てて荷物をテーブルに並べ始める。


「スポドリ買ったよ。あとゼリーとりんごと……食欲戻ったら、うどん食べよ――」


「唯。」


「なに?」


「買いすぎ。」


「だって心配だったんだもん。」


「一週間寝込める量あるかも…笑」


晃哉は声を出して笑った。


だけど笑ったあと、小さく咳き込む。


唯は慌てて背中をさする。


「ほらー!」


「ごめんごめん。」


熱のせいだろうか。


いつもより少し素直だった。


それだけで可愛いと思ってしまう自分がいる。


「座って。」


「はい。」


「薬は?」


「飲んだ。」


「ご飯は?」


「食べてない。」


「もう。」


唯とのやりとりをを晃哉は不思議そうに。


少しだけ幸せそうに。眺めていた。


「なぁに?」


唯が振り返る。


「いや。」


晃哉は目を細めた。


「こういうの初めてだから。」


「なにが?」


「誰かが看病してくれるの。」


唯の手が止まる。


その言葉が妙に寂しく聞こえた。


「じゃあ今日が初体験だね。」


「うん。」


晃哉は少しだけ笑った。


その笑顔を見て、唯もようやくほっと息を吐く。


「だって大親友が熱出したんだよ? 心配で、気づいたらいろいろ買っちゃってたんだもん。」


そう言うと、晃哉はしばらく黙った。


熱のせいか。


それとも別の理由か。


いつもよりずっと静かだった。


唯は冷たいタオルを額へ乗せる。


「ちゃんと寝なきゃダメだよ?」


「うん。」


「薬飲んだ?」


「飲んだって笑」


「えらい。」


子供みたいに褒めると、晃哉は苦笑した。


「俺、大人なんだけど。」


「病人はみんな子供です。」


「なにその理論。」


二人で少し笑う。


だけど笑い声が消えると、晃哉はふいに静かになった。


そして。


唯の服の裾をそっと掴む。


「……こうちゃん?」


「帰る?」


熱に浮かされたような声だった。


唯は目を瞬かせる。


「え?」


「もう少しいて。」


その言葉に胸が跳ねた。


いつもなら。


晃哉はこんなこと言わない。


「大丈夫だから帰りな。」


「遅いから気をつけてね。」


そういう人だった。


なのに今は違う。


まるで縋るみたいに。


「いるよ。」


唯がそう答えると、晃哉は安心したように目を閉じた。


「よかった……」


小さな声。


その弱々しさが愛しくてたまらない。


唯はそっと前髪を撫でた。


「ちゃんと治してね。」


「うん。」


「元気になったら、また遊ぼう。」


「うん。」


晃哉はゆっくり目を開けた。


熱で少し潤んだ瞳が、まっすぐ唯を見つめる。


そして、不意に手を伸ばした。


唯の頬に触れる。


「こうちゃん?」


呼んだ瞬間だった。


晃哉は引き寄せるように顔を寄せる。


そっと。


本当にそっと。


唇が重なった。


一瞬だった。


だけど、そこには抑えきれない愛しさがあった。


離れたあとも、晃哉は額を寄せたまま動かない。


「……会いたかった。」


熱で掠れた声。


普段なら絶対に言わない言葉。


唯の胸がぎゅっと締め付けられる。


晃哉は目を閉じた。


「唯がいると安心する。」


その一言で。


唯は泣きそうになった。


強くて。


頼もしくて。


何でもできると思っていた人が。


今だけは。


自分を求めてくれている。


唯はそっと晃哉の髪を撫でた。


「大丈夫。」


まるで自分に言い聞かせるみたいに。


優しく囁く。


「私いるから。」


晃哉はその言葉を聞くと、安心したように唯の肩へ額を預けた。


外では雨が降っていた。


けれど、あの日の雨とは違う。


不安を隠す雨じゃない。


二人の距離を静かに近づける、やわらかな雨だった。


*


晃哉の呼吸は、少しずつ穏やかになっていった。


熱のせいで頬はまだ赤い。


唯はソファの横に座ったまま、その寝顔を見つめていた。


普段は余裕ばかり見せる人。


何を考えているのかわからなくて。


大事なことほど話してくれなくて。


いつも唯ばかりが追いかけていた気がする。


だけど今は違う。


眠る晃哉は無防備だった。


弱くて。


少しだけ寂しそうで。


まるで置いていかれることを怖がる子供みたいだった。


「こうちゃん?」


返事はない。


眠っている。


そう思った時だった。


「……帰らないで。」


かすれた声が聞こえた。


唯は息を止める。


晃哉の目は閉じたまま。


夢と現実の境目みたいな声だった。


「……唯。」


胸が痛くなる。


呼ばれただけなのに。


どうしてこんなにも。


「いるよ。」


唯はそっと手を握った。


すると晃哉は安心したように指を絡める。


まるで確かめるように。


離さないように。


「大丈夫。」


唯は静かに微笑んだ。


「どこにも行かないから。」


その言葉に答えるみたいに、晃哉の力が少し抜ける。


そして再び深い眠りへ落ちていった。


唯はそっと額にかかった前髪を整える。


こんな顔、初めて見た。


強い人だと思っていた。


何でも一人で抱えられる人だと思っていた。


だけど違った。


こうちゃんも、人なんだ。


寂しい時があって。


苦しい時があって。


誰かにいてほしい夜がある。


窓の外では雨が静かに降っていた。


あの日みたいな激しい雨じゃない。


世界を優しく包み込むような雨だった。


唯は眠る晃哉の肩にそっと頭を預ける。


そして小さく目を閉じた。


――ねぇ、こうちゃん。


あの時の私は、


あなたがこんなふうに弱い顔をするなんて知らなかった。


いつも私を支えてくれていたから。


いつも大丈夫そうに笑っていたから。


でも、本当は違ったんだね。


誰にも見せなかっただけで、


こうちゃんも寂しかったんだ。


不安だったんだ。


あの日、


「帰らないで」


って呟いたこと。


きっと覚えてないよね。


でも私は今でも覚えてる。


あの言葉が嬉しかった。


必要とされている気がした。


特別なんだって思えた。


だから、信じてしまったんだ。


この先もずっと。


私たちは一緒にいるんだって。


あの頃の私は、


まだ知らなかった。


人は嘘をつく。


優しい嘘も。


残酷な嘘も。


そして、


愛していても離れてしまうことがあるって。


だからこそ――


あの日の雨の音も。


熱に浮かされた声も。


私の名前を呼んだその声も。


全部、


今でも大切なままなんだよ。

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