第35話

あれから、一週間近くが経っていた。


唯は澄香と一緒に、いつものように「sugar」にいた。


店内には音楽が流れ、色とりどりの照明が静かに揺れている。


グラスの中の氷が、カラン、と小さな音を立てた。


お酒を飲みながら、DJの選曲に合わせて身体を揺らす。


笑って。


話して。


いつもと変わらない夜。


少なくとも、唯はそう思っていた。


そこへ大輔が近づいてきた。


「お、飲んでる?」


そう言ってグラスを掲げる。


「飲んでるよ」


唯も笑ってグラスを合わせた。


カチン、と軽い音が響く。


他愛のない話をしながら、三人で笑い合う。


そんな時間の途中だった。


大輔が、ふと思い出したように口を開いた。


「あ、そういえば。今日、晃哉さんにDJお願いしたんだけどさ」


その名前を聞いた瞬間だった。


唯の表情が、ぱっと明るくなる。


「こうちゃん来るの?」


声まで弾んだ。


けれど、大輔は少しだけ言葉を濁した。


「いや……来れないって」


「あ、そっかぁ……」


唯は少しだけ残念そうに唇を尖らせた。


けれど、すぐにいつもの笑顔に戻る。


「仕事忙しいのかな」


何も知らない。


何も疑っていない。


ただ、今日ここに来られない理由を、仕事が忙しいのだと思っている。


その無邪気な顔を見て、大輔の表情がわずかに曇った。


そして、一瞬だけ澄香を見る。


その視線に、澄香は気づいた。


「……なに?」


大輔は黙ったままだった。


「言いなよ。どうしたの?」


澄香が促す。


大輔は小さく息を吐いた。


そして、言った。


「……晃哉さん、転勤終わるから……来週、地元に帰るって」


その瞬間。


音楽が、遠くなった。


唯の耳には、周りの声も、グラスの音も、何も入ってこなかった。


ただ、その言葉だけが頭の中に残った。


――来週、地元に帰る。


「……え?」


唯は、ゆっくりと澄香を見る。


そして、もう一度、大輔を見る。


けれど、誰も何も言わない。


唯の顔から、少しずつ血の気が引いていった。


「……うそ……」


声が震える。


「うそだよね?」


誰に向けた言葉なのか、自分でもわからなかった。


答えを聞くのが怖かった。


けれど、確かめずにはいられなかった。


唯は椅子から立ち上がった。


「唯……」


澄香が呼び止める。


けれど、もう聞こえていなかった。


そのまま店を飛び出した。


外の冷たい空気が頬を刺した。


唯は急いで車に乗り込む。


エンジンをかける手が震えていた。


ハンドルを握る。


そして、晃哉の家へ向かった。


車窓を流れていく見慣れた景色。


何度も通った道。


見慣れた交差点。


いつもなら何も感じない信号さえ、今夜はひどく長く感じた。


――お願い。


――まだ、いて。


――嘘であって。


胸の奥で、何度も繰り返す。


やがて、見慣れた建物が見えてきた。


晃哉の部屋には、明かりがついていた。


その光を見た瞬間、唯はほんの少しだけ息を吐いた。


ほら。


何も変わっていない。


いつも通りだ。


きっと大輔の聞き間違いだ。


そう思いたかった。


車を降りる。


唯は走った。


階段を駆け上がる。


二階まで一気に上がり、息を切らしながらインターホンを押した。


ピンポーン。


少しして。


鉄の扉が開いた。


そこに晃哉が立っていた。


「……唯?」


突然現れた唯を見て、晃哉の目がわずかに見開かれる。


唯は息を整えることもできないまま、口を開いた。


「こうちゃん、あのね……!」


言いたいことがたくさんあった。


どうして。


転勤って。


来週って。


なんで何も言ってくれなかったの。


けれど――


言葉が止まった。


玄関から、隣の部屋が見えた。


そこにあったのは。


いくつもの段ボールだった。


積み重ねられた箱。


片付けられた部屋。


いつもの晃哉の部屋とは、明らかに違っていた。


唯の顔から、すっと表情が消える。


「……なんで……」


小さな声だった。


晃哉は、その視線を追わなかった。


ただ、唯を見つめた。


「ごめん、唯」


静かな声だった。


「俺、今から仕事なんだ」


唯の胸が、ぎゅっと締めつけられる。


「……それも、うそ?」


晃哉は一瞬だけ目を伏せた。


「ごめん。本当に行かなきゃない」


その言葉を最後に、晃哉は玄関の扉を閉めた。


鍵がかかる音がした。


唯は、何も言えないまま、その後を追った。


階段を降りていく晃哉。


その背中を、唯は必死についていく。


「こうちゃん……」


返事はない。


「ねぇ、どうして?」


それでも、晃哉は歩き続けた。


外へ出る。


冷たい空気が二人の間を通り抜ける。


そして――


唯は、とうとう耐えられなくなった。


後ろから晃哉に抱きついた。


「こうちゃん……?」


背中に頬を押しつける。


「ねぇ、どうして?」


腕に力を込める。


離したくなかった。


このまま離してしまったら、本当に何もかも終わってしまう気がした。


けれど。


晃哉は振り返らなかった。


「ごめん」


ただ、それだけだった。


「仕事行くから」


唯の腕を、ゆっくりとほどく。


そして、振りほどくようにして離れた。


晃哉は、そのまま歩き出した。


「こうちゃん……!」


呼び止める声が、夜の街に響く。


けれど、晃哉は振り返らない。


その背中が、少しずつ遠ざかっていく。


外は、いつの間にか雪になっていた。


白い雪が、静かに降り始めている。


唯は、その場に立ち尽くした。


いつもなら。


いつもなら、晃哉は最後に一度、振り返ってくれる。


どんなに離れていても。


どんなに喧嘩をしていても。


帰っていく唯を、最後まで見送ってくれた。


なのに――


今日は、一度も振り返らなかった。


「……どうして……」


涙が頬を伝う。


「こうちゃん……」


視界が滲む。


晃哉の背中が、涙の向こうでぼやけていく。


それでも唯は、動けなかった。


「どうして……」


もう一度、呟く。


「……どうして何も言ってくれなかったの……」


答えは返ってこない。


ただ、雪だけが降っていた。


やがて雪は強くなり、唯の髪や肩を白く染めていく。


冷たい。


手が、どんどん冷たくなっていく。


けれど、それすらどうでもよかった。


唯は自分の手を見つめた。


さっきまで晃哉を抱きしめていた手。


その手から――


晃哉が離れていった。


唯はその場に座り込んだ。


雪の上に膝をつく。


涙が止まらない。


声を上げることさえできなかった。


ただ、遠ざかっていく晃哉の背中を見つめていた。


やがて、その姿さえ見えなくなった。


それから、どうやって家に帰ったのか。


唯には、もう覚えていなかった。


家に着いても、濡れた髪を乾かす気力すらなかった。


そのままベッドに潜り込む。


布団の中で身体を丸める。


そして、声を殺して泣いた。


泣いても。


泣いても。


胸の奥に空いた穴は、少しも埋まらなかった。


ねぇ、こうちゃん……


どうして何も言ってくれないの……。


どうして、この手を離したの……。


あんなに近くにいたのに。


あんなに当たり前に隣にいたのに。


どうして私は、最後の最後まで何も知らなかったの……。


あの日。


唯の中にあった何かが、音もなく崩れ落ちた。


大切に抱えていたものが、粉々になってしまったようだった。


もう二度と、元には戻らない。


そんな気がした。


私の心は――


この日、完全に壊れてしまったのかもしれない。

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