第34話

ねぇ、こうちゃん。


十二月に入ったよ。


もうすぐ、こうちゃんの誕生日だね。


あの頃も、そう話していたよね。


「もうすぐ誕生日だね」って。


その言葉を交わした日々の先に、最後が待っているなんて。


私は、少しも思っていなかった。


あの日も、いつもと何も変わらなかった。


変わらない部屋。


変わらない景色。


変わらない一日。


だから私は、何も疑わなかった。


こうちゃんは、最後まで私に優しかった。


最後になることなんて、少しも感じさせないまま。


まるで、また明日も会えるみたいに。


私の隣にいてくれた。


    *


晃哉が、唯と少し距離を置いていた時期があった。


会うことを減らしたり、連絡を控えたり。


唯には、その理由がよくわからなかった。


それでも、時間が経つにつれて、二人が会う頻度は少しずつ戻っていった。


気づけばまた、以前と同じように会っていた。


だから唯は、信じていた。


「もう少し居られるかもしれない」


晃哉がそう言った、その言葉を。


きっと、まだ大丈夫なのだと思っていた。


晃哉の部屋を訪れるたび、そこにはいつもの景色があった。


引っ越しの準備をしている様子もない。


荷物がまとめられているわけでもない。


テレビの横には、ずっとそこにある観葉植物。


何も変わっていない。


だから唯は、安心していた。


ここはまだ、なくならない。


晃哉もまだ、いなくならない。


そんなふうに、勝手に思っていた。


その日も、二人でお酒を飲んだ。


いつものようにソファーに座り、晃哉がDJをする音を聴いていた。


部屋の中に流れる音楽。


グラスの中で揺れる氷。


隣にいる晃哉の体温。


何も特別じゃない。


それなのに、唯にとっては、その全部が幸せだった。


「この曲いいよね?」


晃哉が言う。


「うん。好き」


音楽に耳を傾けながら、唯はふと思い出したように笑った。


「こうちゃん、私も曲つないでみたい!」


出会った頃から、晃哉には何度かDJを教えてもらっていた。


けれど唯には、なかなか難しかった。


スクラッチをすると、レコードに傷がつきそうで怖い。


恐る恐る触る唯を見て、晃哉はいつも笑っていた。


「唯、大丈夫だよ。やってみな」


その声は、いつだって優しかった。


失敗してもいい。


ゆっくりでいい。


そんなふうに言われている気がした。


唯がソファーにもたれると、晃哉はいつものように隣へ座った。


少し酔いが回った唯の顔を覗き込む。


「唯、酔った? 眠たい?」


「んー……大丈夫。ちょっと酔った笑」


「そっか」


晃哉は、唯の頬に触れることもなく、ただ自然に顔を近づけた。


そして、優しくキスをした。


「え? 急になしたの? こうちゃん笑」


唯は、少し驚いたように笑う。


晃哉は何でもない顔をした。


「ん? なんもだよ」


「明日休み?」


「うん、休みだよぉ」


「そっか」


晃哉は、少しだけ安心したように笑った。


「じゃあ、もう少し話そ」


それから二人は、くだらない話をした。


何を話したのか、あとになってしまえば思い出せないくらいの、他愛もない話。


笑って。


飲んで。


音楽を聴いて。


いつものように、隣にいる。


それだけだった。


けれど、その夜の晃哉は、いつもより唯の側を離れなかった。


「こうちゃん、なに飲んでるの?」


唯が晃哉のグラスを覗き込む。


「これ? ウィスキーだよ」


「私も飲みたい!」


「だーめ」


晃哉は笑った。


「唯にはまだ早い。もう、ちょっと酔ってるしょ?」


「こうちゃんと一緒のが飲みたいのに……」


唯は少しだけ頬を膨らませる。


そんな唯を見て、晃哉は困ったように笑った。


「……ちょっと待ってな?」


晃哉は立ち上がり、台所へ向かった。


やがて、二つ目のグラスを持って戻ってくる。


唯の前に差し出されたグラスには、晃哉のものよりずっと薄い茶色の液体が入っていた。


「はい。唯はまず水割りからね」


「わぁい!」


唯の顔がぱっと明るくなる。


「こうちゃんと一緒だ! 嬉しい。ありがとう!」


「すごい薄くしたから笑」


「子供じゃないもん!」


「はいはい。心配だから」


晃哉は笑いながらグラスを掲げた。


「ほら、乾杯」


「乾杯!」


グラスが小さく触れ合う。


カラン、と氷が鳴った。


それだけの音が、静かな部屋の中に響いた。


唯は嬉しそうに笑っている。


晃哉と同じものを飲める。


ただ、それだけのことが嬉しい。


そんな唯を、晃哉は黙って見つめていた。


その目には、いつもの優しさがあった。


そして――


どこか、名残惜しむような色が混じっていた。


けれど唯は、それに気づかなかった。


    *


深夜二時。


時計の針が、静かに進んでいた。


「こうちゃーん」


すっかり酔いの回った唯が、晃哉に身体を預ける。


「気持ちいいね? ふわふわする~」


「唯、完全に酔ってるしょ?」


「酔ってないもん……」


そう言いながら、唯は晃哉に抱きついた。


そのまま顔を上げると、テレビの横にある観葉植物が目に入った。


「こうちゃん」


「ん?」


「あれ、ずっと元気だね」


唯は植物を眺めながら笑った。


「枯れないし。結構強いのかな?」


晃哉も、植物へ視線を向ける。


「……んー。ちゃんとお世話してるからね」


「え? そうなの?」


「って言っても、水やって、たまに日光あてて……ってくらいだけどさ」


「へぇ……」


唯は、植物を見つめた。


それから、また晃哉を見る。


「唯より手がかかるんだね、この子笑」


「唯ほどじゃないよ?笑」


「え! なにそれ~! ひどい、こうちゃん」


唯は笑いながら、晃哉の肩にもたれた。


晃哉も笑った。


けれど、その目は植物ではなく、唯を見ていた。


「でも……」


唯が、ふっと優しい顔をする。


「大切に育ててくれてありがとう」


晃哉は何も言わずに、唯を見つめた。


「きっと、幸せを枯らしてないから幸せになるよ!」


無邪気な言葉だった。


晃哉は、ほんの少しだけ目を伏せた。


「……うん」


短い返事。


「唯? 大丈夫か? 眠い?」


「目が開けれないだけだよぉ」


「それを眠いって言うんだよ笑」


晃哉は笑いながら、唯の手を取った。


「ほら、寝るよ?」


二人で並んで歯を磨いた。


鏡の中に映る二人。


いつもと同じ夜。


いつもと同じ二人。


歯磨きを終えると、二人でベッドへ入った。


晃哉は自然に唯へ腕を回した。


唯は、その腕の中で小さく笑った。


「気持ちく酔ったぁぁ」


「そうだな……」


しばらく、静かな時間が流れた。


唯はふと思い出したように顔を上げる。


「あ、こうちゃん」


「ん?」


「ねぇねぇ、こうちゃん」


「ん?」


「おやすみのちゅーして」


晃哉は、唯を見つめた。


その目を見た瞬間、唯はほんの少しだけ不思議に思った。


いつもと違う。


何が違うのかはわからない。


ただ――


いつもより、晃哉の目が真剣だった。


晃哉は唯に顔を近づける。


そして、深く、長いキスをした。


「ちょっ……こうちゃん」


唯が笑う。


「おやすみのちゅーにしては激しくない?笑」


晃哉は、唯を見つめた。


その表情には、いつもの余裕がなかった。


唯は少しだけ首を傾げる。


晃哉が、静かに尋ねた。


「……やだ?」


「嫌じゃないよ」


唯は笑った。


そして、晃哉の背中へ腕を回す。


「こうちゃん、だーいすき!」


その瞬間、晃哉は唯を強く抱き寄せた。


何度も。


何度も。


唯を求めるように、キスをした。


「唯……」


名前を呼ぶ。


何度も。


まるで、その名前を自分の中に刻みつけるように。


唯はただ、晃哉の腕の中で笑っていた。


その夜が、最後になるなんて知らない。


これが――


晃哉と過ごす、最後の夜になるなんて。


唯は、夢にも思っていなかった。


    *


翌日。


二人は昼まで眠った。


カーテンの隙間から差し込む光が、部屋の中を少しずつ明るくしていく。


いつもの朝。


いつもの部屋。


いつもの時間。


晃哉は十四時から仕事だった。


時間が近づくと、身支度を始める。


唯も帰る準備をする。


二人で玄関へ向かった。


靴を履き、ドアの前に立つ。


その瞬間だった。


晃哉が、唯を抱きしめた。


突然のことに、唯は笑った。


「なしたの?こうちゃん?」


そして、いつものように冗談を言う。


「あ、さてはまた仕事行きたくない病だなぁ?」


晃哉の腕が、少しだけ強くなる。


「……うん」


小さな声。


「行きたくないな……」


唯は笑った。


「頑張ってね?」


そして、晃哉の胸に顔を埋める。


「私も帰りたくないよぉ」


「……うん」


短い返事だった。


玄関の静けさの中で、二人はしばらく抱き合っていた。


やがて唯が顔を上げる。


「こうちゃん、またね」


いつもの言葉。


いつもの別れ。


「仕事落ち着いたら、また会おうね」


晃哉は唯を見つめた。


「……うん」


そして、静かに言った。


「また連絡するから……」


唯は、その言葉を疑わなかった。


「うん」


笑って、手を振った。


そして――


二人は別れた。


それが最後になるなんて、知らないまま。


    *


ねぇ、こうちゃん。


どうして――


何も言わずにいなくなったの?


「またね」って言ったのに…


私は、また会えると思ってた。


仕事が落ち着いたら。


また連絡が来ると思ってた。


だから、待っていた。


けれど――


こうちゃんから連絡はこなかった。


私は、こうちゃんのことがわからなかった。


どうして?


何があったの?


あんなに優しかったのに。


あんなに私を抱きしめていたのに。


あんなに何度も名前を呼んでいたのに。


それなのに、どうして何も言わずに消えたの?


私は、苦しくて。


悲しくて。


どうしていいのかわからなくて。


だから、自分に言い聞かせた。


きっと、遊びだったんだ。


私は捨てられたんだ。


こうちゃんにとって、私はその程度だったんだ。


そう思わなければ――


おかしくなってしまいそうだった。


そうでもしなければ、この現実を受け止められなかった。


でも。


どうしても、そうは思えなかった。


今までのこと全部、ただの遊びだったなんて。


どうしても、思えなかった。


だから余計に苦しかった。


何を信じればいいのかわからなかった。


夢を見ているみたいだった。


昨日まで確かに隣にいた人が、


まるで最初から存在しなかったみたいに、


私の前からいなくなった。


自分の身体の一部を、突然失ってしまったようだった。


息を吸っても、胸の奥まで空気が入ってこない。


何をしていても、どこかが空っぽだった。


笑おうとしても、笑えない。


眠っても、目が覚める。


目が覚めれば、また思い知らされる。


こうちゃんがいない。


こうちゃんは、もういない。


私は――


壊れた。


    *


ねぇ、こうちゃん。


どこにいるの?


どこにも行かないで。


私を置いていかないで。


お願いだから。


また、いつものように笑ってよ。


「唯、酔った?」


って。


「もう寝るよ?」


って。


私の手を引いてよ。


また、腕枕してよ。


また、隣に座ってよ。


また、くだらない話をしようよ。


ねぇ、こうちゃん。


こうちゃんがいないと……


私、


うまく息ができないよ。

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