第36話
昨日から、何度も着信が入っていた。
けれど、唯は携帯を手に取ることさえできなかった。
画面に並ぶ、澄香の名前。
何度目かの着信で、ようやく震える指が通話ボタンに触れた。
「もしもし?! 唯?!」
耳元から飛び込んできた澄香の声に、唯はしばらく何も言えなかった。
「……ごめん、澄香……」
「大丈夫? 仕事は?!」
「……休んじゃった……」
声が、自分のものではないように聞こえた。
「今から行くから!」
それだけ言って、澄香は電話を切った。
しばらくして、家の前に車が止まった。
唯は重たい身体を引きずるようにして外へ出る。
助手席のドアが開く。
「乗って」
澄香はそれ以上、何も聞かなかった。
唯が助手席に乗り込むと、シートベルトを締める音だけが車内に響いた。
車が走り出す。
窓の外を流れていく景色を、唯はぼんやり眺めていた。
昨日のことを、少しずつ澄香に話した。
晃哉が何も言わずに帰ること。
いつもの部屋。
いつもの場所。
そして――そこから突然、いなくなるという現実。
話しているうちに、澄香の表情も変わっていった。
「……こうちゃん家、見に行こう!」
「え……?」
「私の車だし、バレないって!」
澄香はそう言って、ハンドルを握り直した。
唯は何も答えなかった。
ただ、窓の外を見つめていた。
車は、晃哉の暮らしていた社宅へ向かっていった。
やがて、見慣れた建物が見えてくる。
その前に――
大きな引っ越しトラックが止まっていた。
作業員が荷物を運び出している。
段ボール。
家具。
見慣れた場所から、誰かの生活が少しずつ消えていく。
唯は、息をすることさえ忘れたように、その光景を見つめた。
「……マジなんだ……」
澄香が小さく呟いた。
思わず、ため息が漏れる。
唯は何も言わなかった。
ただ、窓越しにその光景を見ていた。
本当に、帰ってしまう。
昨日までそこにあったはずの晃哉の生活が、今、トラックの中へ運ばれていく。
現実なのだと、目の前に突きつけられていた。
澄香はそれ以上、社宅の前に車を停めていることができなかった。
そのまま車を走らせる。
そして二人が向かったのは、唯が何かあるたびに訪れていた海だった。
海沿いに車を停める。
窓の外には、静かな海が広がっていた。
いつもなら、ここへ来れば少しだけ気持ちが落ち着いた。
けれど今日は、何も感じなかった。
「……こうちゃん、なんで……」
澄香の声が震えた。
唯はしばらく黙っていた。
そして、小さな声で答えた。
「……しょうがないよ……」
その言葉を口にした瞬間だった。
晃哉の顔が浮かんだ。
笑っていた顔。
自分を見つめる目。
くだらない話をして笑った時間。
何気なく触れた手。
大切にしてくれた記憶。
胸の奥に押し込めていたものが、一気に込み上げてくる。
「……しょうがない……」
唯は呟いた。
けれど、次の瞬間。
「しょうがないって……なに……」
声が震えた。
「……あの日が最後だったなんて……」
唇を噛む。
「なんで何も言ってくれなかったの……」
目の前の海が滲んだ。
「私……そんなにどうでもいい?」
澄香は何も言わず、唯を見つめていた。
しばらくして、ゆっくり口を開く。
「……言えなかったんじゃないかなって、私は思う」
唯は黙ったままだった。
「だってさ、どうでもよかったら……」
澄香は少し考えてから続けた。
「『地元帰るね。またタイミング合ったら会おうね』くらいで、普通に言えるじゃん」
唯の指が、膝の上でぎゅっと握られる。
「でも……大事な人ほど、言えないことってあると思うんだよね」
澄香は海の方へ視線を向けた。
「『さよなら』とか、『今日で帰るから』とか……」
少しだけ間を置く。
「私だったら、たぶん言えない」
唯がゆっくり顔を上げる。
「だって……さよならしたくないもん」
その言葉が、唯の胸に刺さった。
「だから、こうちゃんも……『またね』って言うしかなかったんじゃないかなって、私は思う」
「……」
「別に、こうちゃんのこと庇ってるわけじゃないよ?」
澄香は唯を見る。
「不器用すぎるし。もっとちゃんと話せばいいのにって、私も思うよ」
唯は何も答えなかった。
ただ、バッグから煙草を取り出した。
一本を唇に咥え、火をつける。
煙が、ゆっくりと車内に広がった。
そして、唯は呟いた。
「……遊び」
「えっ?」
「最初から遊びだったんだよ」
声には、感情がなかった。
「だって、地元に奥さんいるんでしょ」
煙を吐く。
「こっちにいる間の遊び」
その言葉は、まるで自分自身に言い聞かせているようだった。
そう思わなければ、耐えられなかった。
「唯、それは違うって」
澄香がすぐに否定する。
「確かに、結婚してるのに唯と一緒にいたのは間違ってると思うよ。でもさ……」
澄香は唯を見つめた。
「唯のこと、本当に好きだったと思う。失いたくなかったんじゃないかな」
唯は海を見たまま答えた。
「……でも、いなくなった」
その一言だけだった。
澄香は言葉を失った。
何を言えばいいのかわからなかった。
今の唯に届く言葉が、どこにも見つからない。
唯は煙草を指に挟んだまま、淡々と続けた。
「ヤレればよかったんじゃない?」
「……唯」
「都合がよかったんだよ」
自分を傷つけるために、一つずつ言葉を並べる。
「全部演技だったんだよ」
そして、乾いた笑いを浮かべた。
「俳優なれるんじゃない?」
「それだけは絶対違うから!」
澄香の声が強くなる。
「慰めとかじゃなくて、本当にそう思う」
唯は黙った。
「唯はさ、こうちゃんと一番一緒にいたじゃん」
澄香は、唯の目をまっすぐ見た。
「本当に……ただの遊びだったと思う?」
その瞬間だった。
唯の瞳から、一粒の涙が落ちた。
頬を伝い、膝へ落ちる。
止めようとしても、次から次へと溢れてくる。
「……最初から、いなくなるってわかってたのに……」
声が震えた。
「どうして出会っちゃったのかな……」
涙を拭うこともできない。
「なんでこんなに好きになっちゃったのかな……」
胸の奥にあった疑問が、次々に溢れ出す。
「全部嘘だったのかな……」
そして――
「もう……こうちゃんは唯いらないのかな……」
澄香は何も言わず、唯を抱きしめた。
小さな身体を、両腕で包み込む。
「唯……」
唯の肩が震える。
「こうちゃんに手紙書いたんでしょ?」
唯が顔を上げる。
「ポストに入れに行こう」
澄香は涙で濡れた唯の髪を撫でた。
「まだ部屋にいるうちに」
そして、思い出したように付け加える。
「大輔が言ってた。明後日からホテルに泊まって、そのまま地元に帰るらしいよ」
唯の胸が、また締め付けられた。
「だったら、後悔しないようにしよ」
澄香は唯の目を見た。
「言いたいこと、ちゃんと伝えよ?」
そして、優しく続ける。
「返事がなくてもいいじゃん。唯が伝えたいって思ったこと、ちゃんと届けようよ」
唯はしばらく俯いていた。
やがて、小さく頷いた。
「……うん」
---
夜になった。
二人はもう一度、社宅へ戻った。
昼間とは違う静けさがあった。
建物を見上げる。
晃哉の部屋には、明かりがついていなかった。
唯の足が止まる。
「……あ」
澄香が思い出したように呟いた。
「そういえば、今日夜勤だったね……」
唯は何も言わなかった。
澄香は唯の手を取った。
そのまま、二人でポストへ向かう。
唯の手には、一通の手紙。
何度も書き直した。
泣きながら書いた。
大好きだったこと。
大切だったこと。
離れたくないこと。
出逢えて幸せだったこと。
晃哉と過ごした日々が幸せだったこと。
そして――
全部に、ありがとうという気持ち。
最後に唯は、自分らしい言葉を書いた。
――こんなに世界一こうちゃんのこと大好きな女いないぞ!
便箋を封筒に入れる。
唯はしばらく、その封筒を見つめていた。
これを入れたら、本当に何かが終わってしまうような気がした。
それでも、澄香がそっと背中を押す。
唯はポストの口へ手紙を入れた。
小さな音を立てて、手紙が中へ落ちていく。
その音が、やけに大きく聞こえた。
「唯?」
澄香が静かに呼ぶ。
「絶対、違うからね」
唯は顔を上げた。
「こうちゃんも、きっと苦しいと思うよ」
澄香は少し考えるように言葉を探した。
「私たち、まだガキかもしれないけどさ……」
一度、息を吐く。
「自分が同じ立場だったら、頭で考えた通りにできるのかなって、私も考えてみたんだよね」
唯は黙って聞いている。
「もちろん、現実を見なきゃいけないのも分かってるよ」
澄香は唯の手を握った。
「でもさ……どうしようもないくらい好きになっちゃったら、理屈通りになんてできないんじゃないかな」
「……」
「私だったら……もしかしたら、矛盾だらけのことしちゃうかもしれない」
唯は俯いた。
そして、小さく笑うように呟いた。
「うん……」
しばらくして、唯は海の方を見ながら続けた。
「でも、私……罰が当たったのかも」
「唯……」
「ずっとどこかで……知らない奥さんに」
声が詰まる。
「こっちにいる間だけでも、私とこうちゃん一緒にいさせてくださいって……勝手に願ってた」
自分でもわかっていた。
許されることではない。
それでも、好きだった。
離れられなかった。
「確かに……頭では分かってても……」
唯は涙を堪えながら呟く。
「私も離れられなかった……」
澄香は何も責めなかった。
ただ、隣にいた。
やがて澄香が言った。
「唯、明後日」
唯が顔を上げる。
「また一緒に社宅来よう」
澄香は唯の手を握った。
「私、ずっと一緒にいるから」
そして、少しだけ笑った。
「ポスト、見てみよ?」
唯はしばらく黙っていた。
やがて、小さく頷いた。
「……うん」
「今日はありがとう。澄香」
二人は並んで歩いた。
唯の足取りは、まだ重かった。
けれど、もう一人ではなかった。
---
ねぇ、こうちゃん。
こうちゃんを失うことが、こんなに辛かった。
だから私は――
こうちゃんを、最悪な人だと思わなきゃいられなかった。
そうしなければ、自分を保っていられなかったから。
全部嘘だった。
遊びだった。
私なんて、どうでもよかった。
そう思えば、少しは諦められると思った。
でも。
最後には、どうしても思い出してしまう。
私を大切にしてくれていた、こうちゃんのことを。
優しかったこうちゃん。
笑っていたこうちゃん。
私を見ていた、あの目。
私が知っているこうちゃんは――
そんな人じゃなかった。
だから私は、ずっと迷路の中にいた。
こうちゃんの言葉がないから。
どうして何も言わずに帰ったのか。
どうして最後に「さよなら」と言わなかったのか。
どうして――
あの日を最後にしたのか。
答えは、どこにもなかった。
明後日。
こうちゃんはいなくなる。
その事実だけが、胸の中を埋め尽くしていた。
もう、それだけで。
生きた心地がしなかった。
ねぇ、こうちゃん。
この時の私――
たぶん、人生で一番どん底だった。
何をしても苦しくて。
どこにいても、こうちゃんを探してしまって。
もう会えない。
もう連絡もない。
そんな現実を、どう受け入れればいいのかわからなかった。
でもね。
私、時間はかかったけど――
ちゃんと頑張って、乗り越えたんだよ。
会えないこうちゃんを。
連絡のないこうちゃんを。
忘れるために。
もう、ここで終わり。
そう思っていた。
本当に。
これで、終わったんだって。
そう思っていたのに――
まさか、この先。
もう一度、私の中でこうちゃんが動き出す日が来るなんて。
あの頃の私は、まだ知らなかった。
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