宝物を受け取らなかった夜
斬条 伊織
宝物を受け取らなかった夜
夜が深まる頃、町の屋根の上に一つの影があった。
黒の外套で月の光を遮りながら、影は屋根から屋根へと軽やかに跳ぶ。星が流れるように、その軌跡は静かで美しかった。
影は大きな布袋を背負っている。
時折立ち止まり、袋の中から何かを取り出しては、空に向けてばらまいた。
舞い上がった光の粒は冬の風に流されることもなく、町中の子どもたちの部屋へと消えていった。
翌朝。
目を覚ました子どもたちは、皆そろって笑顔を浮かべていた。
心の奥に、温かな光の粒が宿っているのを、確かに感じていた。
「なにか良いことがあったのかい?」
大人たちがそう尋ねると、子どもたちは決まってこう答えた。
「秘密」
「どうして秘密なの?」
「だって宝物だから。大事なものは、ちゃんとしまっておかなきゃだめなんだ」
子どもたちは一様にそう言った。
大人たちは、子どもが笑っているならそれでいいかと、詳しくは聞かなかった。
年月が流れた。
子どもたちは少しずつ成長していく。
友だちができ、恋人ができ、目標が生まれ、自分という形を築いていった。
それと同時に、かつてのような笑顔は、少しずつ消えていった。
ある少年が、ふと思い立って心の中の光の粒を見つめた。
光は薄れ、今にも消えそうだった。
――なぜ?
――どうして?
そう思っても、誰にも聞けなかった。
大人たちは光の粒を知らず、友だちは、彼の中の光が翳っていることなど、思いもしない様子だった。
怖かった。
何をどうすればいいのか、わからなかった。
ある夜、少年は家を出た。
両親と些細な喧嘩をして、戻る気にもなれなかった。
空気は切るように冷たく、あてもなく歩いた。
うつむいて歩いていると、地面に影が走った。
震えながら顔を上げると、屋根の上に人影があった。
影は軽やかに屋根伝いに進み、時折、光の粒をばらまいている。
――あれは。
少年は息を呑んだ。
あの光の粒は、確かに、自分の中にあったものと同じだった。
確信した少年は、町の外へ向かう影を追いかけた。
足がもつれそうになっても、ただ必死に走った。
やがて、丘の上で立ち止まる。
膝に手をつき、肩で息をする。白い息が夜に消えた。
「なぜ追ってくる?」
背後から声がした。
驚いて振り向くと、影は外套を纏ったまま、静かに立っていた。
「あなたは誰です?あの光の粒は?」
「ああ、見てたの?それでか」
影はフードを脱いだ。
整った輪郭の、不思議な人だった。
男とも女ともつかない。だがそんなことは、どうでもよく思えた。
冷たいようで、温かい。深い青の瞳。
「てっきり捕まえに来たのかと思ったよ。焦った」
「……それで?」
「ああ、そうだね。最初の質問だっけ?わたしは天使」
「天使?」
「もしくは悪魔」
「どっちなんだよ」
「どっちでもいいでしょ。君たちからすれば、大して違いはない」
影は軽く肩をすくめた。
「それで、二つ目の質問だ。光の粒だっけ?」
「……あれは?」
「単純だよ。宝物さ。幸せを感じるための」
そう言うと、影は少年に近づいた。じっと見つめ、間近まで顔を寄せる。
「きみの宝物、だいぶ弱くなってるね」
少年は息を詰まらせた。
「本来は、もう必要なくなる頃なんだけど」
影は袋から光の粒をひとつ摘み出した。
「欲しいかい?望むなら、これからもずっとあげよう。ずっと、ずうっと……」
夜さえ翳るような眩しい光。
少年は震える手を、思わず差し出しかけた。
「その代わり、受け取ったら――もう自分の力で宝物を作ることはできない。それでもいい?」
少年は、はっとして手を引っ込めた。
しばらく沈黙が落ちる。
「……やっぱり、いらない」
「そう?」
影はあっさりと粒を袋に戻した。
「じゃあそれでいい。きみがそう選ぶならね」
影は袋を肩に担ぎ直した。
「じゃあわたしは行くよ。次の町にも配らなきゃならない」
歩き出しかけて、ふと振り返る。
「……ところで。なんでこんな夜中に外にいるんだい?」
少年は黙ってうつむいた。
「親と喧嘩でもした?」
「……」
影はニヤッと笑った。
「そうか。それはいい」
「なんでいいんだよ」
「人はね、人生で一度くらい家出をするものだ。自分で自分の人生を作ろうとして、ぶつかったんだろ?」
少年は答えなかった。
「じゃあ、今日の家出が――きみの最初の宝物だな」
影はそう言って、次の瞬間、風に舞う砂のように光の粒となり、夜空に溶けていった。
その夜の冷たい空気を、少年は長く忘れなかった。
宝物を受け取らなかった夜を。
宝物を受け取らなかった夜 斬条 伊織 @zanjo_iori
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