閑話 鏡の中の私 ―Julia in the mirror―

 白と灰が織りなす、静謐な空間。

 テラノス邸の浴場で、ジュリアは一人、浴槽から立ち上がった。


 広々とした床に湯気がゆるやかに漂い、壁に刻まれた波紋のような意匠が、ほの明るい光を受けてわずかに揺れている。

 水音ひとつが、まるで時の鼓動のように響いている。そこは、心をほどくにはあまりに穏やかで、逃げ場にするにはあまりに静かだった。


 何も纏わず、ただ一人。湯に濡れた足元から肩先まで、裸の身体が鏡に映る。


 しなやかで細身の肢体、雪のような肌。ほどよく育ち始めた胸元と、年相応の華奢さを残した腰のくびれ。そのすべてが、血筋と努力の証として磨き上げられた、美のかたち。


 プラチナブロンドの髪が肩に張りつき、わずかに濡れた頬を飾る。貴族として、令嬢として、美しさに誇りを持っていた――けれど今は、その美しさすら、どこか他人のもののようだった。


 隠すものなどない。強がりも、誇りも、今だけはどこにもなかった。白い肌に傷ひとつないことが、かえって虚しく感じられた。


 倒れた。たった一撃で、意識すら手放しかけた。

 あの殺気が、胸に突き刺さって抜けない。私は、そっと胸に手を当てた。


『……では、引き分けということにしませんか』


 耳の奥に残るその声が、優しすぎて、なおさら悔しかった。

 シモンのあの目は、どこまでも落ち着いていて、強くて、そして――優しかった。

 ひとまわりも、ふたまわりも大きな存在。

 力だけじゃない。生き方も、在り方も、自分とはまるで違っているのだろう。

 大人だ、と感じた。あの瞬間だけでなく、ずっと前から、そうだったのかもしれない。


「……引き分け……そんなわけないじゃない……」


 かすれた呟きが唇から零れる。自分でも驚くほど、力のない声だった。


 攻撃は全部、通じなかった。魔法――それだけは、信じていたのに。私の全てだったのに。一撃も届かない。掠ることすら許されず、ただ動かされて、終わった。


 勝負だなんて、呼べない。それでも、彼は最後に「引き分け」と言ってくれた。

 だからこそ、惨めだった。今までの努力も、誇りも、意味がなかったみたいで。これまでの自分を、全て否定されたようで……怖かった。


 けれど――それよりもっと、怖いのは。


(……私、これから……どうすれば、強くなれるの……?)

 その問いが、頭の奥から離れなかった。


 鏡の中の自分と、再び目が合う。力を失くした眼差し。まっすぐな眉。整った鼻筋と、赤みを帯びた唇。十四歳という年齢のあどけなさと、貴族としての気品が同居した顔立ちが、今だけは妙に頼りなく見えた。


 それどころか――

 シモンと比べてしまったせいだろうか。鏡に映る自分が、ひどく幼くて、あまりにも未熟に見えた。


 その姿が悔しくて、ジュリアはわずかに顔をしかめる。


「……私、これから……どうすれば、強くなれるの……?」


 その問いを、今度はぽつりと声に出した。ジュリアは鏡にそっと手を添える。

 まるで、もうひとりの自分に触れるように。震えるように胸が波打ち、喉の奥がじんと熱を帯びた。


 言葉にしてしまった途端、それまで張り詰めていたものが、危うく崩れそうになる。込み上げる涙を抑えようとするたび、唇が小さく震える。


 けれど、次の瞬間には目を逸らし、唇を噛んで堪える。涙は、あの人にも、鏡の中の自分にも、見せたくなかった。

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アラサー冒険者のaimless odyssey 久遠堂 鍵介 @kuondo_kensuke

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