熊にあいにく
つばきとよたろう
第1話 熊にあいにく
五階建ての番地に一の一が続く幸運とも呼べる、マンションの一室で男がソファーにピザの溶けたチーズのように寝そべり、薄いテレビに見入っていた。物がないことだけが、唯一その部屋の秩序を保っているように思えた。テレビ画面にはちょうどお昼のニュース番組が映って、男はそれを熱心に見ていた。
窓からの眺望は高い建物が少なく、この町のごちゃごちゃした景色が遠くまで見渡せた。
「ボリュームを上げてくれる」女が言った。キッチンに立って、朝食のサンドイッチを手際良く作っていた。
「何だって?」男が言った。
「テレビの音が聞こえないから、ボリュームを上げてくれる」女が言った。
男はボリュームを上げようと、携帯電話より一回り大きいリモコンを探す振りをした。半分ニットのズボンから露出した尻を掻いた。それはだらしなくトランクスも一緒にずり下がって隠す所を隠していなかった。口は達者だったが、大概だらしなかった。
「リモコンはどこにある?」男が言った。男はリモコンを手から離さずザッピングするタイプではなかった。
「ええ、何ですって」女が言った。
「リモコンはどこだ?」男が言った。
「リモコン? そこにない」女が手を止めて、部屋を覗いた。
「ねえなあ」男が言った。
女はハムや玉子、チーズとレタスといった特別ではない有り触れた具材を挟んだ食パンを数枚重ねた物を、鋸で木を切る要領で手早く包丁で三角に切って平らな白い皿に盛った。見栄えは良かった。食パンの耳が付いていたが、勿体無いし気にしなかった。食べ物を作っている時は、その物の味が再現される。
それをウエートレスみたいに両手に持って、男の元にやって来た。男は幽霊にでも憑りつかれた人のようにテレビに夢中で、女が近づいたことに気づかなかった。
「こんな所にあるじゃない」女が言った。女は男が寝そべっている足元に転がっている、黒いリモコンを見つけて不満をぶつけた。どうやってテレビを点けたのか気が知れない。二人暮らしにテレビは一台しかないから時々チャンネル争いが勃発したが、それ程大した問題にはならなかった。
「はあ、どこだ」男が言った。
「あんたの足元よ」女が言った。女はリモコンを手にし、赤外線が届くようにテレビに向けた。女はリモコンから何が照射されているかは知らなかったが、テレビに向けると言うことを聞くことは知っていたし、方向を間違えると反応しないことも知っていた。
「今見ているんだから、チャンネル変えるなよ」男が言った。
「変えないわよ。ニュースでしょ。また熊だわ。近頃多いわね」女が言った。
「よその話だ。この町には出てこないよ」
男が言った。女の方を振り返りもしなかった。女は客の顔を一度も見ないウエートレスみたいに持ってきたサンドイッチをテーブルに置くと、その事も忘れたようにテレビに釘付けになった。画面には動物園で見るような熊の黒影が、警戒する様子もなく、そこには人は映ってなく、人家の庭や路上を悠然と歩いていた。熊が出たというのは、日中でも車や人の往来の少ない場所だと窺えた。映像を観る限り、熊は人を恐れないということが分かった。
「そんなに熊が出現しているんなら、そこに行ったら見れるんじゃない」女が言った。
「多分な」男が言った。
「行ってみようよ」女が言った。
「どこへ?」男が言った。
「熊が出た村によ」女が言った。男は初めて女の方へ振り向いて、餌のサンドイッチのことなど眼中にないみたいにまじまじと女を見詰めた。
「行ってどうなる?」男が言った。
「手助けになるかもしれないでしょ」女が言った。言い訳を探すような所作がある。
「どんな手助けだよ」男が言った。じっと女の顔を見詰めている。
「熊はね。射殺されても適切に捌かないと、食肉に出来ないんだって」女が言った。
「へー、そうなんだ。じゃあ、そう言った熊の死骸はどうなるの?」男が言った。
「焼却されるんじゃないのかな」女が言った。
「熊肉になるんじゃないんだ。何か勿体無いな」男が言った。
「そうなの。あれだけ、熊が出現しているのに熊肉も貴重なのね」女が言った。
「おい、熊肉食ったことあるか?」男が言った。
「ない」女が言った。
「俺もだ」男が言った。
「じゃあ、熊肉食べに行きましょ。ついでに熊も見に行こうよ」女が言った。
「動物園に行けば見れるだろう」男が言った。
「でも熊肉は食べられないよ。私、野生の熊を見てみたいな。檻に入っている熊じゃ人慣れして迫力がないよ。なんせ野生の熊なんだから」女が言った。男は大切な決断を迫られたみたいに女を見詰めた。
「熊にあったら、どうするんだよ?」男が言った。面倒臭そうな顔の中に、目だけが妙な光を帯びていた。希望の光だと女は思った。
「車の中からだから大丈夫よ」女が言った。
「車の中でも襲ってきた映像があっただろう。車が破壊されることだってあるんだ」男が言った。
「でも見てみたい。見たくないの?」女が言った。
「見てみたい。それから熊肉を食べてみたい。だって食べたことないからな」男が言った。
「でしょ。どんな味がするんだろう。豚肉とは違うんだろうけど。牛肉と同じかな」女が言った。
「どうだろう。食べたことないから分からないな。大きさから言えば、鶏、豚、熊、牛だろう。豚と牛の間くらいかな」男が言った。
「だったら美味しいかもね」女が言った。
男と女はポークもビーフもチキンも食べてきた。が、自分で育てた動物を屠殺して料理したなら食欲も失せただろう。それ程肝っ玉が小さい。それは熊肉だって同じだ。もしそうなら熊肉を食べに行きたいとは提案しなかった。
男と女は型落ちした車に勇んで乗り込むと、体を拘束される思いでシートベルトをたすき掛けし、彼らの車を入れて一台しか止まっていないマンションの駐車場を颯爽と出発した。生憎ドライブするにはいい天気とは言えない。空は暗澹とした灰色の雲が張り出していたが、雨が降る様子はなかった。それが信じられるかは別として、天気予報でも降水量は二十パーセントと言っていた。男はニュースで熊が出没したと知った県に向かって、車を走らせた。
車が高速道路に乗っても、渋滞には巻き込まれなかった。二人の命運を暗示しているかのように、ドライブは順調そのものだった。初めての場所でも目指す場所の道路標識があったし、間違った道を走らなければ、道に迷うことはまずないと男も女も思っていた。
窓の景色は町並みから山を切り開いて景色に変わっている。遠くには山が見える。高速道路沿いには木が生えていない。スカイラインが隣の車線をゆうゆうと追い越していくのが見えたが、男は景色が通り過ぎていくように少しも気にしない。小学校の頃クラス対抗リレーの時も、後ろにいた男の子が男を余裕で追い抜いていったが何とも思わなかった。男が悪いのではない。運動能力に差があるのは当然だった。
「ラジオを点けようよ」女が言った。
マンションに居ても、二人の部屋には常にテレビが点いていた。二人の会話の途切れた時の間を持たせていたというより、むしろ男と女、そしてテレビの三人で会話していると言っても過言ではなかった。それ程テレビは二人の必須家具だった。
急に大きな音量で流行りのロック音楽が車内に響いて二人を驚かされた。
「別の局にしてくれ」男が言った。
驚いた分少しイライラしていた。気持ちが曲のリズムに乗っていかない。どうしてこんな曲を好むのか理解できないと言った具合だった。
「熊のことやってないかしら」女が言った。
周波数を変える時、女は初めて起こる出来事みたいに高揚した気分になった。女が期待していたニュースは生憎やっていなかった。その代わりにラジオパーソナリティがリスナーの興味を引くように軽快に話をしているのを聞いて、その番組に決めた。それは視聴者からメールをもらって紹介しているところだった。一種の個人的なニュースだったから、女の気を少し引いた。
「これしかやってない」女が言った。諦めたように眉を下げた。
「じゃあ、それでいいや」男が言った。ハンドルを指でトントンと弾いた。
女は男が着たシャツの袖にあるボタンが取れ掛かっているのを見つけたが、言わなかった。本来の女なら気になるところだが。学生時代は手芸部で裁縫が得意だった。今思えばどうしてあんなに手芸に凝っていたのか疑問に思う。
「見過ごさないでさんの投稿、先日高齢の母がニュースを見ながら、家で熊が見れるなんて凄いわね。熊が出没した現地は大変なのに、暢気に動物園に行った気分で見てみたいなんて言っていました」ラジオパーソナリティが言った。
「おっ、熊のことやっているぞ」男が言った。
「でもニュースでやっていたのを見たってだけの話だよ。実際に目撃したって話じゃないよね」女が言った。女は細かいところも気が付いた。
「そうだけど。ないよりは増しだろ」男が言った。二人だけの生活なのだから、他人の意見にも興味があった。
「他の人はどう思っているんだろ」女が言った。
「何が?」男が言った。
「熊が出たのよ」女が言った。
「出たから何だって言うんだ」男が言った。
「熊が出て怖かったとか、会えて嬉しかったとか」女が言った。
「怪我人が出ているんだ。嬉しいってことはないだろう。見た目に騙されているんだよ。殺人鬼と同じなんだ。殺人鬼が出て嬉しいか?」男が言った。
「そう言われれば、怖いわね」女が言った。
「それなのに見に行く私たちって、どうなの? もし殺人鬼が出たら見に行く」女が言った。女は言っていて馬鹿げた事を言っていると気づいていた。
「殺人鬼を見に行く奴はいないだろう。熊だから行くんだよ。殺人鬼は車のドア開けて入ってくるからな。熊はその点安心だ」男が言った。本当にそうだろうかと女は思ったが、口に出さなかった。
「最近、熊に遭遇したってニュースが多いですよね。気を付けないと、皆さんもくれぐれも見に行こうって思わないように。危険ですからね」ラジオパーソナリティが言った。
「おい、言われているぞ」男が言った。まさに自分たちのような不届き者を言っている釘を刺された気分になった。
「はは、私たちのこと言ってる」女が言った。多くの視聴者がそうであるように、少しも間に受けていなかった。むしろいよいよ現地に近づいたという期待感が増した。
「絶対に見ないと帰れないよ」女が言った。
「そうだな。これだけニュースになっているんだから熊に会えるだろ」男が言った。
「次のサービスエリアで休憩しよう。腹も空いたし」男が言った。前方の車を睨んだ。
「もうお腹が空いたの? 熊肉食べるんじゃないの」女が言った。男ははっと夢から目覚めたように思いだした。
「そうだったな。それじゃあ、休憩だけだな。飲み物とおやつを頼もう」男が言った。
「あまり食べ過ぎないでよ。熊肉食べるんだから」女が言った。
「分かっている」男が言った。
銀杏の木の根元に堆積した落ち葉ほどに混み合った駐車場に空きスペースを見つけると、どうにか車を止めた。あまり時間がないから一番先に目に付いたファミレスに入って席を取った。ランチでも軽食でもない、喉の渇きを潤す物と口寂しさを満たすスイーツを選んで注文した。ここが目的ではないから、よく吟味して満足してはいけないと思いながら決めたのだ。ものの五分もしないうちに見栄えのあるチョコレートサンデーと苺の載ったショートケーキ、芳ばしい香りのコーヒーと琥珀色の紅茶が、見惚れてしまうほどに若くて艶やかなウエートレスによって運ばれてきた。さっきは注文することに必死でその事に気づかなかった。女は男を横目で見て、男はウエートレスをちらりと見た。
「何やっているの?」女が言った。
男を急かした。二人の目的は熊に会いに行くことだ。よそ見をしている場合ではない。その事を二人は改めて肝に銘じだ。手早く片付けたという言葉が適切なほど慌ただしい飲食だった。味などはどうでも良かった。手っ取り早く糖分を摂取し、口渇と疲労が回復されればいい。
女は一筆書きのようにチョコレートサンデーをスプーンで掬って口に運び奇麗に食べてしまった。男の方がいつまで経ってもももたもたしてショートケーキに苦戦していた。二人がサービスエリアにいたのは三十分ほどだった。よくよく考えてみると、神出鬼没の熊に会いに行くのだから少しも時間に余裕がなかった。急いで車に乗り込み高速に乗った。そこから熊が出没した某県に直行した。高速を下りて一般道に出たのがそれから二時間後だった。この調子で行くなら帰りは深夜になりそうだと二人して覚悟した。
「某県って言っても広いだろう。肝心なところは少しも分かっていない」男は言った。
「どこかで訊いたらいいんじゃない」女が言った。
「訊くって言ってもどこで訊けばいいんだ?」男が言った。
女は首を傾げた。気の利いた答えは浮かばなかった。車は幹線道路をとろとろと走っている。この調子で走っていたら隣の県に行ってしまう。が、同じ所を行ったり来たりしてもまるで埒が明かない。
「ネットで検索してみたらどう?」男が言った。なんでもかんでもネットで調べられると思っている。女は携帯を取り出し、親指で素早く画面をタップした。
「あっ!」女が言った。声に驚きと感嘆が褐色のコーヒーにクリームを混ぜたみたいに同時に含まれている。その日一番の驚きだった。
「どうした?」男が言った。
「あるある。出没マップまであるんだ」女が言った。男は運転中だから真面に女の携帯を覗くことが出来ないからもどかしい。
「ここからならどこに行けばいい?」男が言った。俄然やる気が出てきた。わざわざここまで来たのだから是が非でも熊を見ていこうという気分になった。
「ここがどこなのか分からないのが問題ね」女が言った。
「それもネットで調べられないか?」男が言った。行き成り躓いてしまったように眉間に皺を寄せて苦い顔をした。
「それもある。現在地が出るみたい」女が言った。語調が弾んで勢いが増した。これはいい兆候だと喜んだ。そう簡単に熊に会えるわけがないのだが、これなら会えそうな気がした。
「そこの道曲がって」女が言った。
「この道か」男が言った。流星の如くウィンカーを出して前進すると、ハンドルを左に切った。車は方向転換し、横道に入っていく。もう後戻りすることは手遅れになってしまったことが気持ちをざわつかせた。一縷の不安が運転席と助手席の隔てのない空間を無言で漂った。道は断然狭くなって、運転にも注意が必要だった。
「ここからどこに行けばいい?」男が言った。
「このまま道なりに行けばいいみたい」女が言った。
熊が出没している箇所は必ずしも道路の上とは限らない。道のない山中だったり、他人の畑だったり、人家の庭先だったり、そこまで車で入り込むのは年末の幸運を手にするくらい不可能だった。暖房を掛けていても車内は冷凍庫の中みたいに冷え込んだ。もうここは二人の知る暖かな町ではなかった。生憎冬支度をして来なかったのだ。雪が降っていないのがまだ良かった。これで吹雪にでも遭えば遭難するところだった。
「熊会えるかな?」女が言った。
「どうだろう。あれだけ騒いでいるんだからいないはずがないんだよ。あとは運しだいだね」男が言った。
励ますつもりだったのが、むしろ不安をそそった。幸運なんてものが二人に訪れるとも思っていなかった。田舎道を闇雲に探すだけだ。人家の疎らな、あるいは人家さえない山の迫った所を走る寂しい田舎道だった。如何にも野生動物が出そうだが、主役の熊は登場しない。熊は食料を探しく山から下りてきたのだから、人家がないと期待は薄いのかもしれない。
同じ道を通っていても時間帯によって熊が現れたり現れなかったりもする。男と女はほとほと途方に暮れながら、ただ闇雲に田舎道を走り続けた。このままでは出会わずに帰ることになる。時間ばかりが取られて全く成果がなかった。努力がは必ず報われるという言葉を否定する輩がいるように、二人の努力も無駄だった。
「どうする?」男が言った。自分たちが間違ったことをしているように、あるいはその事に気づいてしまったように、自分たちのこれまでの行動に疑問を持ち始めていた。
「どうするって、熊を見つけるまで帰れないよ」女が言った。
「でももし出なかったら」男が言った。
「出るよ」女が言った。
「出るかな?」男が言った。
「出るよ。じゃあ、どうするの?」女が言った。
「分かんないけど」男は言った。
「熊に会いたくないの? だから言うんでしょ」女が言った。
「そんな事ないけど。でも現実的じゃないかなと思って」男が言った。少し食い下がった。
「ああ、そう言ってるみたいなものじゃない」女が言った。
「そんな事言っていないよ」男が言った。
揮発性の茶色のペンキを服に付けてしまったように、二人の間に気まずい雰囲気が漂った。車内は極めて換気が行き届いていなかったから、その空気は幾ら経っても薄まることはなかった。ずるずる引き摺って、拙い罰ゲームみたいにいつまでも不快な臭いを嗅いでいないといけなかった。
「お腹空いているの?」女が言った。顔は外を向けたままだった。
「少しはね」男が言った。運転中だから、当然前を向いていた。しばらく女を一瞥することもしなかった。
「ああ」女が言った。
「どうしたの?」男が言った。
「あれ、あれ」女が言った。
「あれか」男が言った。
「ちょっと休憩していかない。疲れているんだよ」女が言った。
「そうかも。ずっと運転してきたからね」男が言った。
二人は道なりに田舎の食堂の看板と木造の建物を見つけた。駐車場はがらがらで止めるのに苦労は要らなかった。左折のウィンカーを出して、車を回した。車は建物に頭を向け、順調に駐車場へ止めることが出来た。男はサイドブレーキを引いて、エンジンを切った。
女はシートベルトを外してドアを開けると、外に出て景色を見渡しながら伸びをした。体が自然と外に出たがっている猫や犬がやるように動いた。食堂は旧家を思わすようなひっそりとした佇まいだった。暖簾をくぐって店内を徐に見渡すと、昼時をすっかり過ぎていたから二人の他客はいず閑散としていた。
「いらっしゃいませ。お好きな席にどうぞ」店員が言った。人当たりの良さそうな五十くらいの女だった。清潔そうな白の割烹着と三角巾をしていた。親戚の叔母さんの家に来たみたいだった。店内を歩いていると、誰が持ってきたのかテーブルに今朝の新聞が置かれていた。新聞には熊が住人を襲った記事も載っていた。
二人は店内がよく見渡せる真ん中の席に落ち着いた。すぐに店員が水を運んできた。メニューはテーブルに立て掛けてあった。女は水がテーブルに置かれる前に、メニューを開いていた。
「熊肉ってないよね」女が言った。男に聞こえるくらいの声だった。
「何にします?」店員が言った。
「熊肉ってあります?」女が言った。
「ごめんなさい。そう言うのはうち置いてないの」店員が言った。頭を簡単に下げて謝った。
「ないんだって」女が言った。顔をうずめるようにメニューを見ている男を一瞥した。
「そうなんだ。残念。俺カツカレー」男が言った。
「私、鍋焼きうどん下さい」女が言った。
「カツカレーに鍋焼きうどんね。以上でよろしいですか?」店員が言った。
「はい」女が言った。男に相槌を求めた。男はメニューを戻しながら小さく頷いた。
五分ぐらい待たされ、料理は運ばれてきた。
「カツカレーのお客様。鍋焼きうどんのお客様。はい、どうぞ」店員が言った。二人の前に丁寧に料理を置いた。カツカレーは大き目の豚カツにどろりとしたカレーが掛かっていた。鍋焼きうどんは牛肉を煮たのと卵に葱と紅白のかまぼこが載っていた。都会の店に有り勝ちなこ洒落た感じは皆無だった。が、味は良さそうだった。
「お客さん、ここら辺の人じゃないよね。遠くから来たの?」店員が言った。
「ええ」女が言った。食べようとしたところに急に訊かれたから、慌てて言い返した。土地の物らしい馴れ馴れしさを感じた。
「ここら辺の人は熊が出るから、最近食べに来なくなったのよ。ほんと困ったものね」店員が言った。
「あのー、変なこと訊きますけど。どこに行ったら熊に会えます?」女が言った。真顔だったのが、切迫した感じを与えた。
「あんたたち何しにここに来たの? 熊なんか見に行くのは危ないからよしなさいよ」店員が言った。眉間に皺が寄るほど不審そうな顔をした。
「そんな事ないですよ」女が言った。
「そうだったらいいけど」店員が言った。そして厨房に戻っていった。
「はあ、危ない危ない」女が言った。
「何が?」男が言った。が、女の方は見ていなかった。
男はカツカレーをルーが残らないようスプーンで根こそぎ掬い取った。女は鍋焼きうどんのうどんを少し残した。熊肉が食べられなかったことにはまだ未練を持っていた。それが女の食欲を減退させたのかもしれない。
「ありがとうね」店員が旅で出会った人のように愛想よく言った。勘定を済ませ、二人は店を出た。体は温まっていい気分だった。だが女は本来の目的が果たされていないことに、改めてわだかまりを覚えた。お腹が満たされ、少しの余裕が出てきたから純白の布の一点の染みほどに余計に強く意識した。
暗くなれば暗闇と同じ色の熊は区別が付かなくなる。熊を探すのは急がなければならないと女は焦りを感じた。男の方はカツカレーに満足し、先程の不穏なやり取りを帳消しにするほど上機嫌だった。
しばらく一本道の長閑な山道が続いた。人家も疎らで放ったらかしの畑や道脇に森が迫っていた。熊が突然姿を見せても不思議ではない雰囲気が漂っていた。女はいよいよ熊に会えるのだと思った。男も同様の期待を持っていた。
黄昏時の視界は狭かった。黒影は男がハンドル操作が間に合わない程急に飛び出してきた。激しい衝撃を受け、タイヤがスリップするほど急停車した。停車の反動は痛いほど激しかった。
「大丈夫!」女が言った。女も黒影が車の前に現れたのを目撃していた。
「ちょっと見てくる」男が言った。慌ててドアが開き、男が一旦外へ姿を消した。が、すぐにフロントガラスから男の姿が現れた。男が何を見ているのか、何があったのか女の所からバンパーが邪魔して確認出来ない。男が顔面に泥を塗った表情で戻ってきた。
「どうだった?」女が言った。
「熊だった」男が言った。
「ほんと」女が言った。
男はちらりと女の目を見た。切迫した視線に耐えきれず、視線を逸らした。
「ほんとうに熊だった?」女が言った。
男は黙っていた。
「ちゃんとこっち向いて」女が言った。
男は女を見た。
「何だったの?」女が言った。
男は女を見詰めた。
「ねえ、言って」女が言った。
男は女から目を離さなかった。
「何だったの?」女が言った。
「熊だった」男が言った。
辺りは時計の秒針の如く刻一刻と闇が濃くなっていく。テレビを消した時、黒い画面が全てを消してしまったように外は暗くなり掛けている。それが何かの命を削っと行くみたいだった。男は女を見詰めた。じっと見た。瞬きもせず見た。見続けた。それが何かの解決策のように。
熊にあいにく つばきとよたろう @tubaki10
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