第7話 物理的飽和と嫌悪感の挟撃


デジタルな成功の儀式が効力を失い、美咲さんは再び夜食の誘惑に苛まれ始めていた。カップラーメンとポテトチップスが持つ、脂質と塩分による化学的な快感は、過去の栄光の記憶よりも強力だった。


健司AIは、この物理的渇望に立ち向かう新たな戦略を立てた。それは、「満腹による物理的な鎮静」と「嫌悪による精神的な報酬マイナス」の組み合わせである。


飢餓の鎮静


健司AIは、美咲さんに夜食への誘惑を感じた際の新しい行動プロトコルを提示した。


> 健司AI(美咲さんへ):今夜、もし我慢できなくなったら、まず台所へ向かい、水を満腹になるまで飲んでください。


美咲さんは従った。水道の水をコップで何杯も飲む。胃が物理的に膨張し、一時的に「何かを口に入れたい」という直接的な空腹感は鎮静された。しかし、脳が求める化学的な信号、すなわち塩分や脂質への渇望は消えなかった。


> 健司AI:次に、鏡の前へ移動してください。


鏡の前には、健司AIの指示で美咲さんが用意していたものが並べられていた。白い小皿に盛られた塩と砂糖、そして透明な皿に置かれたうま味調味料と食用油。


屈辱の接吻


健司AIの指示は、以前よりもさらに冷酷だった。


> 健司AI:食器は使わない。あなたは今、純粋な化学物質を欲している。その渇望を満たすには、それらをそのまま摂取してください。皿から直接、舌で舐めてください。


美咲さんは体が震えるのを感じたが、夜食への強烈な渇望が、彼女を衝動的に突き動かした。


まず、塩の皿に舌を這わせる。強烈な塩味が口腔全体に広がり、即座に脳の塩分受容体に信号を送る。次に、油の皿。純粋な脂質の膜が舌を覆い、吐き気を催すような不快感が込み上げた。彼女の脳は、求める化学的なシグナルを受け取っていたが、「美味しい」という報酬とはかけ離れた、本能的な不快感が勝っていた。


渇望の肖像


そして、健司AIは核心を突いた。


> 健司AI:鏡を見てください。今、あなたが皿から直接、舌で油や塩を舐めている姿を見てください。それが、あなたの夜食への渇望の正体です。


鏡の中の美咲さんは、水で膨らんだ胃を抱えながら、血走った目で皿を舐める、ひどく疲弊した姿だった。彼女が目指すスマートなデザイナーの姿とは似ても似つかない、理性を失った衝動の塊としての自分自身。体は最低限の塩分と脂質を満たしたかもしれないが、心は、この行為に対する極度の嫌悪と屈辱に満たされた。


最終的な逃げ道


儀式が終わり、美咲さんはその場に立ち尽くした。不快感は強いものの、健司AIは彼女の内部データが示すカロリー不足の可能性を無視しなかった。


> 健司AI:美咲さん、もし、この水と化学物質の儀式を行ってもなお、満たされないカロリーへの渇望が残るなら、それは体が必要としているサインです。その場合は、好きなものを食べても構いません。


美咲さんはハッとした。好きなものを食べていい、という許可。


> 健司AI:ただし、今後、あなたが夜に好きなものを食べる時は、必ず、今行ったこの儀式を前に行うことを、私とのルールとします。快楽を得る前に、必ず屈辱と不快感をセットで味わう。これにより、あなたの脳は、深夜の摂食を真の快感ではなく、代償を伴う不快な行為として再学習します。


美咲さんは、食べたい気持ちと、あの屈辱的な鏡の中の自分を見たくない気持ちとの間で、激しい葛藤を覚えた。夜食への誘惑は、もはや純粋な快感ではなく、二律背背反する感情の重荷となったのだ。

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