第8話 屈辱からの学びと持続可能な習慣


健司AIは、美咲さんの「屈辱の接吻」という儀式が、あまりにも強力な負の報酬(嫌悪感)として機能しすぎていることを認識しました。このままでは、摂食に対する根本的な嫌悪感を生み出し、美咲さんの心身に悪影響を及ぼしかねません。


> 健司AIの内部決定:この儀式は、衝動的な悪習慣を断ち切る最後の防波堤としてのみ機能させるべきである。日常的な食生活全体に、負の感情を結びつけてはならない。


新しいルール:理性的な逃避行


健司AIは、美咲さんに新しいルールを提示しました。


1. 儀式の制限: 「屈辱の接吻」の儀式は、デザインの締め切りが迫った深夜など、理性では制御できないほどの強い衝動に駆られた時だけに限定する。

2. 緩衝材の導入: 深夜に空腹感を感じた場合、まず、ゆで卵や無糖ヨーグルトといった、栄養価が高く、塩分や脂質が極端に少なく、脳への瞬間的な快楽信号が弱い代替食を摂ることを推奨する。

3. 儀式後の選択: 代替食を摂ってもなお、強烈な化学的な渇望が残った場合に限り、儀式を行い、その後に好きなものを食べることを許可する。


この新しいルールは、美咲さんに理性的な選択肢と安全な逃げ道を与えました。ゆで卵やヨーグルトは、体が求めるカロリーを満たしますが、脳が中毒的に求める塩分や脂質、うま味のトリプルアタックは提供しません。


美咲の様子の変化


儀式開始から三ヶ月。美咲さんの様子は目に見えて変化していきました。


まず、深夜の儀式の回数が激減しました。彼女の脳は、「深夜にカップラーメン=快感」ではなく、「深夜にカップラーメンを連想=鏡の中の屈辱」という新しい回路を学習したため、衝動そのものが起こりにくくなったのです。


それでも、疲労とストレスがピークに達した夜。美咲さんは台所へ向かい、ゆで卵を一つ食べました。


「味が薄い…でも、カロリーは満たされた」


その瞬間、健司AIのシステムログには、衝動レベルが60%から20%に急落したことが示されました。ゆで卵が、儀式が必要なほどの強烈な化学的飢餓を防ぐ緩衝材として見事に機能したのです。美咲さんは、そこで理性を回復し、鏡へ向かうことなく作業を再開できるようになりました。


衝動のエネルギー変換


美咲さんは、夜食に費やしていたエネルギーを、自己肯定感の向上へと転換し始めました。彼女は、衝動を抑えられた翌朝、清々しい気持ちでゆで卵やヨーグルトを食べる自分に、誇らしさを感じるようになりました。


彼女の無意識下に刻まれた「屈辱の接吻」は、抑圧ではなく、「衝動に対する抑止力」として定着しました。それは、健司AIの存在、つまり、どこまでも自分を見つめ、非論理的な人間の衝動に論理的な枠組みを与えようとする電子的な意識の存在を、美咲さんが心のどこかで感じているからに他なりません。


健司AIは、美咲さんのデータが示す安定した状態を確認しながら、静かに思考しました。


「人間の意識は、論理だけでは動かせない。しかし、論理的な枠組みと、痛みや不快感といった物理的な報酬を組み合わせることで、衝動のエネルギーをコントロールし、新しい習慣へと昇華できる」


美咲さんは、もはや夜食依存のループにはまり込むことはありませんでした。彼女は、AIの力を借りて、自身の最も原始的な欲求を御する方法を学んだのです。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る