第8話
迅は、白いシャツを着替えさせられていた。
袖口に付いていた白く粘ついたものは、もうそこにはない。
だが、感触だけが、まだ残っている。
洗っても、洗っても、脳の奥にこびりついた“ぺちゃり”は落ちなかった。
椅子に座ったまま、迅は自分の手を見つめている。
震えているのが分かる。
蒼馬が、紙コップを差し出した。
「水だ」
迅は受け取るが、飲めない。
「……俺が飲むか?」
迅は小さく首を振った。
「……大丈夫」
沈黙。
医務室の向こうから、
誰かが嗚咽を漏らす声が聞こえる。
警察官だ。
ベテランのはずの男が、
壁に手をついて泣いている。
蒼馬が、低い声で言う。
「……迅」
「はい」
「今日のことは、一生、忘れられない」
迅は、即答した。
「……忘れちゃ、だめだと思います」
蒼馬が、少しだけ目を見開く。
迅は続けた。
「忘れたら……また、同じことが起きる」
少年の声だった。
だが、言っていることは——もう刑事のそれだった。
◇
蒼馬は、椅子に腰を下ろす。
「なあ迅……お前は、なぜ生きてると思う?」
迅は、即座に答えられなかった。
頭の中に、数字と波形が浮かぶ。
評価軸。
閾値。
“基準点”。
「……Xは、“馬鹿”を殺したいんじゃない」
蒼馬が、静かに聞く。
「ほう」
「Xは……“考えなかった人間”を殺したんだと思います」
蒼馬の眉が、わずかに動く。
「勉強ができるかどうかじゃない。知識量でもない」
迅は、胸の奥を押さえながら言う。
「……“思考を放棄した脳”です」
蒼馬は、長く息を吐いた。
「……それが、お前が生き残った理由か」
迅は、苦しそうに笑った。
「でも……それって、たまたまです」
「たまたま?」
「今日は考えた。でも、明日も考えるとは限らない」
迅の目が、揺れる。
蒼馬は、言葉を失った。
◇
テレビは、特別番組一色だった。
だが——
コメンテーターはいない。
誰も、軽口を叩けなかった。
スタジオの机には、献花が置かれている。
アナウンサーの声は、震えている。
「現在も、正確な犠牲者数は確認できていません……」
画面には、頭部が消えたまま倒れている人々の映像が、モザイクなしで一瞬だけ流れ、すぐに切り替わる。
誰も、SNSで笑っていない。
トレンドは——
「#中間テスト」
「#9時ちょうど」
「#生き残った理由」
ネット掲示板。
「ネタだと思ってた」
「昨日、コスプレしてた」
「あの動画にいいね押した」
「……俺も、死んでたかもしれない」
YouTuberの謝罪動画が並ぶ。
泣きながら、頭を下げる者。
言葉を詰まらせ、配信を切る者。
だが、死んだ人間は戻らない。
そして、次に来たのは——怒りだった。
「政府は何をしていた」
「なぜ止められなかった」
「予告があっただろ」
「信じなかったのは誰だ」
国会前には、人が集まり始めている。
プラカード。
「テストじゃない、殺人だ」
「次はあるのか」
だが——誰も答えを持っていない。
迅は、窓のない廊下を歩く。
足音が、やけに大きい。
蒼馬が言う。
「迅。上が……お前に会いたがってる」
「……公安、ですか」
「ああ」
迅は、一瞬だけ立ち止まる。
「僕、まだ高校生ですよ」
蒼馬は、少し苦笑した。
「分かってる。だがな……」
蒼馬の声が、重くなる。
「お前以上に、この事件を“感じられる人間”がいない」
迅は、目を閉じる。
あの白いもの。
あの温度。
あの音。
そして——次のテスト。
迅は、覚悟を決めた。
「……行きます」
廊下の奥で、
新しい会議室の扉が開く。
そこから先は、
もう“学生”の世界ではない。
◇
夜。
警察署の照明が、ひとつ、またひとつと落とされていく。
迅は、会議室の前で立ち止まっていた。
扉の向こうでは、公安の人間たちが低い声で話している。
そのときだった。
——迅のスマホが、勝手に震えた。
画面は、ロックされている。
なのに、通知が一件だけ、表示される。
《新着映像》
送信者不明。
拒否も、削除もできない。
迅の指が、わずかに震える。
(……来た)
再生された瞬間、
音もなく、画面が暗転した。
「こんばんは〜♡
生き残ったみんな♡」
あの声。
あの“可愛すぎる”トーン。
だが今回は、背景が違った。
真っ白だ。
病院の壁のように、無機質な白。
「中間テスト、どうだったかな〜?
ちょっと……難しかったよね♡」
一瞬、
画面の端に、白い何かが付着している。
乾いて、ひび割れている。
迅は、それが何か分かってしまった。
「でもね、あれで終わりだと思った人……」
魔法少女Xは、首をかしげる。
「お勉強、足りないよ♡」
声が、一拍だけ低く沈む。
「——次は、もっとちゃんと“考える力”が必要だからね」
画面に、文字が浮かぶ。
《期末テスト 予告》
対象:全員
内容:前回よりむずかしい
救済:なし
「今回はね〜♡“合格者”の割合、
もっと少なくなる予定だよ♡」
ステッキが振られる。
ぱちん、と乾いた音。
「だって——考えるのって、疲れるでしょ?」
笑顔。
だがその奥で、
確実に“目”が光る。
「次も、がんばろうね♡」
最後に、小さく付け足す。
「……ああ、それと」
一瞬だけ、声が完全に地声になる。
低く、粘ついた男の声。
「次は、もっと綺麗に割れる」
——映像、終了。
スマホの画面が、元に戻る。
静寂。
迅は、その場から動けなかった。
蒼馬が、背後で気づく。
「……迅?」
迅は、ゆっくり振り返る。
顔色は、真っ青だった。
「……来ます」
蒼馬の表情が、凍る。
「次は……“期末テスト”です」
廊下の照明がじじ、と音を立てて揺れた。
第一章 終
脳髄闘争 最弱の味噌汁 @HIBIKIDX
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