第8話 わからなすぎて、怖い。
店の奥にある青年コミックスコーナー。
そのさらに奥、壁際に位置する百合棚。
そこには、『百合』の世界を全く知らないはずの聖さんがいた。
な、なぜ聖さんが百合漫画を!?
「わあっ!?」
驚いて後退った拍子に私の肘がぶつかって、積まれていた漫画を崩してしまった。
やばいやばいやばい。
早く拾わないといけないのに、焦って目の前も頭の中もまっしろだ。
「あわわわわわわ」
「……大丈夫?」
頭の上から聞こえてきた甘く優しい声。
気が付くと、聖さんが私の目の前にしゃがんでいた。
「あ、ありがとうございま……おふっ」
「?」
初めて聖さんを近くで見たが、さらさらのショートボブ、整った顔立ち、長いまつげ、眠たそうに垂れた目――とんでもない美少女だ。
思わず変な声が出てしまった。
△▼△▼△
「本当にありがとうございました」
「どういたしまして。落ち着いて歩くんだよ」
聖さんがてきぱきと本を拾ってくれて、なんとか元の状態に戻すことができた。
でも少し妙だ。あちら側は初対面のはずなのになんだか口調が柔らかい。
ひょっとして年下、それも小中学生くらいに思われてる?
これが身長百五十センチ台の生きる道、か。
私は気を取り直して、棚を物色し始めた。
それにしても、なぜ聖さんはここで百合漫画を読んでいるのだろう。
私が本棚を物色している間も、黙々と試し読みの冊子に視線を落としている。
いやもしかしてこれ、チャンスなのでは?
ここで私が聖さんに接触し、百合作品の布教ができれば『百合・ザ・ビギニング ~秘め事こそ~』の最大の問題点、『どうやって読んでもらうか』も解決だ。
しかもラッキーなことに自分から興味を持ってくれている様子。
この機会を逃してはいけない。
私は初心者向けにふさわしい作品をさっと手に取り、壁側に立っている聖さんにそろりそろりと近づく。
「あ、あのう」
「ん? 君はさっきの……どうしたの?」
聖さんが流し目で私を見る。色気がすっごい。
「ゆ、百合……お好きなんですか?」
私が少し声を震わせて言うと、聖さんは持っていた冊子を置いて私の方を向く。めっちゃいい匂い。
さっきから一挙手一投足の破壊力がすごいな。
「あーいや、その……友達、友達が読んでるらしくて。それで私も読んでみようかなって」
友達と言った時、聖さんの表情が少し曇った。
多分こころちゃんのことだ。
こころちゃんの告白――それが聖さんに『百合』への興味を持たせたのかもしれない。
「あ、そうなんですね。良かったら、おすすめとか紹介しましょうか?」
ここで注意!! みんなは、見知らぬ人にこういうお節介ムーブをしないようにね。
善意でやっている分たちが悪い。
だがここでは、聖さんの優しさに付け込ませてもらう。
きっと快くこのお節介ムーブを受け入れてくれるはずだ。
ごめんなさい、でもあなたたちの幸せのためなの!!(罪の正当化 )
「本当? じゃあ、お願いしようかな」
そう言って聖さんは軽く微笑む。
「わかりました。では、まずさっそく――」
よーし。百合の沼に引きずりこんでやるぜぇ!!
そうして私の口がマシンガンに変形しようとした刹那――
「っ!?」
背筋を伝う、異質な雰囲気。
「――あ、ひじりんここにいたんだぁ~。みーつけたっ!!」
背後から聞こえる、ひどく甘ったるい声。
そして、どす黒い百合の波動。
私の
「……私、呼んだ覚えないよ?」
「うん、呼ばれてないよ?」
聖さんと謎の声が、私を挟んで会話している。
そして私は、今すぐ逃げなければいけない。
理由はわからないが、本能がそう叫んでいる。
でなければ、喰われる……。
私は漫画をハムスターみたいに抱えながら、そそくさとその場を去り――
「ねぇひじりん、この子と何してたの? 友達?」
――あ、終わった。
目の前に立ち塞がられてしまった。
その声の主は綺麗な黒髪をハーフツインにまとめていて、そこから見え隠れする耳にはびっしりとピアスがついている。
そんなヤバそうな人は蛇みたいな視線で私の全身を舐めまわすように見ていた。
誰なのこの人。怖い。すっごく怖い。
「ああ、この子はあわてんぼうのオタクちゃん。今から漫画のおすすめを聞くところだったんだけど」
「漫画って、ここなら『百合』漫画でしょ~? それならいつも言ってるじゃん。興味あるなら、ぼくが教えてあげるって。……カラダで♡」
ハーフツインのヤバそうな人は、舌なめずりしながら
そしてそのまま勢いよく抱き着いた。
なななななっ!! 何をしてるんだァッ!! その人はッ!! こころちゃんのでしょォォッ!! (ちがう)(ちがわない)
推しカプを脅かす存在の登場によって、私の脳はオーバーヒートを起こしていた。
「はぁ、ひじりん柔らかくていい匂いっ!!」
「ちょっと
よかった。聖さんがノリノリだったらどうしようかと思った。
しかし、『撫子』と呼ばれたその少女は止まらない。
「こんなところ? ねえねぇひじりん、じゃあどこならいーの?……ここかなぁ?」
そうわざとらしく呟くと、撫子とやらは背伸びをして聖さんの首筋に舌を這わせた。
「ひゃわあんっ!?」
「ひじりん、可愛い声……出ちゃったね。もっと聞かせて?」
あんなに綺麗で、どこかミステリアスな雰囲気をまとっていた聖さんが、いとも容易く弄ばれ、あられもない声を上げている。
私の脳はぼろぼろに破壊されていた。
もうやだ帰りたい。寝取られは地雷なのよ……。
「……やめて、本当に。離れて」
「んも~つれないなぁ」
だが聖さんが低い声で制すと、さすがのヤバい人も渋々離れた。
良かった、心までは思い通りにはいかなかったみたい。
私が心からほっとしていると聖さんが歩いてきて、私の前に軽く屈んだ。
「騒いじゃってごめんね? 今からあのお姉ちゃん、どこかに捨ててくるから。それが終わったらおすすめの漫画、教えてね」
「だ、大丈夫です…………おふっ」
聖さんは囁くような声で言いながら、私の頭をぽんぽんした。
鼻血が出るかと思った。
「ひじりんごめん!! 捨てるなんて言わないで~」
「じゃあ撫子、この子にも謝って」
撫子とやらは噓泣きをしながら、また聖さんに抱き着こうとしたが、ひらりと交わされる。
そのまま倒れ込むように私の目の前に来ると、残念そうにため息をついた。
こいつめ。こころちゃんの聖さんに手を出すなんて。
私は撫子とやらを精いっぱい睨みつける。
「……あはっ」
ヤツは、そんな私を見てにやりと笑った。
「そんなに怒らないでよ。かのんちゃんっ♡」
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