沈黙の臓器

ねむい眠子

Mnēmosúnē

 脳シナプス間隙かんげきレテ療法とは、心的外傷トラウマに対する唯一の外科手術である。

 ピコサイズのマシンを駆使し、記憶を司る海馬や恐怖・不安などの情動を司る扁桃体にアプローチすることで、特定の記憶を消去できるらしい。

 早い話が、嫌な出来事そのものをことにする夢の技術だ。


 ゆえに手術の詳細は、いまだ明らかにされていない。

 巷では「お金持ちしか受けられない高額な治療法」として噂されている程度だった。


 わたしもその一人


「――お名前と生年月日をお願いします」


宗本むねもと朱音あかね。平成元年、一月……」


一日です、と言いかけて胸が苦しくなる。


『へぇ、お正月生まれ!? めっちゃ珍しいね』


 屈託のない、の笑顔を思い出してしまった。

 涙が自然と溢れて、酸素マスクの内側が白くくもった。


「宗本さん、落ち着いて。深呼吸をしましょう。今、見えるものを教えてください」


「……白い壁、手術室のライト……、ロボットのアーム……、」


 ゆっくりでいいです、と言う医師の優しさが余計に辛かった。

 ひとつ、ひとつ。自分がいる場所を組み立てるたび、喪失感と現実の板挟みに合う。


 世界一の理解者で、ずっといられるはずだった恋人――須藤すどう棚道たなみちは、もうこの世にはいない。

 彼は、事故で死んだ。

 わたしのせいで。

 わたしが家に忘れ物をして、彼はコンビニの喫煙所で暇を潰して待ってると言っていた。

 そのコンビニに、トラックが突っ込んだ。

 トラックの運転手は、心臓発作で意識がなかったそうだ。

 彼の体はトラックとコンビニの間に挟まって、大好きな一服もできずに死んでしまった。

 わたしが忘れ物さえしていなければ、大好きだった監督の新作映画も一緒に見れたのに。

 全部、全部、わたしのせいだった。


 生きる希望が見出せなかった。

 死んだように生きるくらいなら、棚道が生きてくれればよかったのに。

 わたしが死ねばよかったのに。


 思い詰めてを企てても、人生は続いてしまった。

 しかも立派な病気だと太鼓判を押されてしまった。


 だからわたしは、レテ療法の治験を受けることになった。

 日本国内では、三例目の手術らしい。

 失敗する確率は限りなく低い、と言われていた。

 でも、実際どうなんだろうか。


 麻酔で一気に暗闇へと転じながら、わたしは思う。

 ――肝心なところで、運がないからな、と。



***



 わたしの杞憂きゆうは、正しかった。


 術後に目覚めると、大勢の医師に囲まれていた。

 曰く、手術は成功したものの効果が強くなりすぎたらしい。

 らしい、というのは、わたしはなにも思い出せなかったからだ。


「この、男の人は……。だれ、なんですか?」


 だというのに、その言葉を吐くのはひどく抵抗があった。


 見知らぬ男が微笑むスマホの壁紙も、メッセージアプリのささいなやり取りも、何の手掛かりにもならなかった。

 まるで、ブラックホールが胸に生まれたみたいだった。

 

 確かにわたしは、須藤すどう棚道たなみちを確かに知らない。

 なのに、『知らない』と判じた瞬間、居心地の悪い責任を感じるのだ。


 一ヶ月、二ヶ月と経っても、わたしはなにも思い出せなかった。

 何度も何度も彼の足跡そくせきをたどり、なぞって、あの頃のわたしと同じ反応も真似てみた。

 SNSに載せていたお店や、彼の遺品に触れたりもした。

 だけど、ダメだった。


 いっそこのまま、思い出さないほうがいいのだろうか。

 ……でも、わたしは許せなかった。

 須藤すどう棚道たなみちの死因には、わたしも関係している。


 膨大な数のボタンのかけ違いを、一度に直そうとするような、無謀な努力を続けてどれほど経っただろうか。


 どうにも疲れたある日。

 うっかりわたしは、赤信号の歩道を渡った。

 

 爛々らんらんと近づく車のライト。

 半狂乱に反響するクラクション。

 恐怖と驚愕に満ちた運転手の顔。

 すべてがゆっくり、ゆっくりと近づいてくる。


 自らの首にかけられた死神の鎌を自覚して、わたしは目をつむった。

 これで、楽になれるのかもしれない。

 どこかホッとした気持ちで、何もかもを受け入れようとした時だった。


『こーら、よそ見しないの』


 初めて聞くのに、なぜか馴染みのある声がした。


『ほら、隣の人はスマホ見てるでしょ。ああいうせっかちさんがいるから、ちゃんと信号見ないと』


 もしかして、棚道の声だろうか。

 自覚した瞬間、わたしの視界は目まぐるしく変化する。

 

 ……ああ、ああ。そうだった。

 棚道を意識し始めたのは、大学の帰り道のこと。

 新歓で酔っ払ったわたしが信号無視をしかけて、彼が腕を引いてくれた。

 棚道くん、お酒強かったな。

 わたしは一杯でヘロヘロに酔ってしまったけど、彼はテキーラを水のように飲む。

 酔っ払うと本性が現れるというけど、棚道くんの性格は変わらなかった。

 むしろひょうきんさに磨きがかかるから、元来の性格が光そのものだったのだろう。

 

 みんな、棚道くんが大好きだった。

 わたしも彼が好きだった。

 

 だから棚道くんに告白して、成功すると思っていなかった。

 

『どうして、わたしを選んでくれたの?』

 

 棚道くんはピース・ライトをくゆらせながら、少し考えて答えてくれた。


『一目惚れ』

『え、いつ?』

『入学式の日、門の前で友達と写真撮ってたっしょ。そん時に人の邪魔にならないよう先導してて、「いい子だなー」って』

『そう、だっけ?』


 赤い頬をマフラーに埋めて、わたしは目をつむる。

 鮮明だった思い出が、徐々に薄らいでいく。

 代わりに聞こえてきたのは、割れんばかりに響く救急車のサイレンだった。



***



 幸いにも、わたしの怪我は大したことがなかった。

 車のハンドルが逆方向に切られたおかげで、打ちどころがよかったらしい。


 だけどわたしの胸には、またポッカリと穴が空いていた。

 棚道くんへの恋慕は、かすかに残っているのに。思い出だけが失われていた。


 それだけで十分だった。

 わたしには、生きる理由が生まれた。

 

 ――また、棚道くんに会いたい。

 

 病室の窓を開けて、風を迎え入れる。

 三階だから、景色には感動しない。

 眼下には、きれいな植栽しょくさいが広がっている。

 きっとこれなら大丈夫だろう。

 

 点滴の管を引き抜いて、わたしは窓に腰掛ける。

 おそらく頭から落ちたほうが、棚道くんとする確率が高まるだろう。

 穏やかな気持ちで、身を投げた。


『――タワテラ、意外と余裕だったな』


 棚道くんが、かすれた声で言った。

 あとで飲み物を買ってあげたほうがいいのかもしれない。


『じゃあ、今度は富士急に行く?』

『いや、ちょっと! おれはエンジョイ勢だから!』


「大丈夫だよ。そのうち慣れるって」


 鼓動する頭痛と、温もりが流れゆくなかで、わたしはつぶやいた。

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