Side Kaji:誰かのために書いたコード

 窓の外の吹雪が、一段とひどくなっていた。


「……困ったわね。そういう事情になると、ますます佐々木さんを自宅に帰すのは難しいわ。ねえ、いつになったらモノリスは完成するのかしら?」


 絢香はこめかみを押さえながら、ため息をつく。


「その話は明日にしよう。今日は絢香も疲れただろう? 先に客室に案内するよ。梶は、まだ話があるから、そこに残っていてくれ」


 真田が絢香をエスコートするように出て行き、その姿を見送ってから、ソファに倒れ込んだ。

 聞かされた言葉のひとつひとつが重く、痛い。


 花を傷つける気なんて、全くなかった。

 言い訳と取られても仕方ないが、それだけは真実だ。


 京都にいた頃、人生で一番の孤独を感じていた。

 そうとは気づかないように、己を誤魔化していたけれど、実際には月に数度は、淋しさと不安と重圧に押しつぶされそうになった。


 行きたい場所なんてこの世のどこにもないのに、深夜に航空券のチケットを購入し、具体的な脱出計画を立てたこともある。 

 次の日にはキャンセルするが、感情を置き去りにしたまま、心の曇りが晴れることはなかった。

 見ないふりをして仕事に没頭しても、自分が根元から腐食していくのを、止める術がわからない。


 花から届く言葉は、そうした日々の中に見つけた、一筋の光だった。

 たいしたことが書いてあるわけでもないのに、なぜかいつも、まっすぐ胸を打つ。

 ECHOを使ってそれを受け止めるのが、日々の癒やしでさえあった。


 心の閾値を図りたい。

 人の持つ、揺らぎやためらいを数値化したい。

 そんな技術者としての本能は、いつしか言い訳になっていて、ただ彼女のそばにいる理由を求めるようになった。


 ……そう気がついたのは、アメリカに来た後のことだ。

 もっと早く、自分の心の感情曲線を理解していたら、別れる前に感謝を伝えられたのに、今となってはどうしようもない。


「幻肢痛って、なんやねん……」


 それなら、自分もずっと抱えている。

 心の中に、桜の花びらの形の穴が空いて、取り戻したくてたまらず、ずっと痛がっている。

 花を求めているのは、モノリスじゃない。

 絶対に、自分だった。


 ドアをノックされ、ゆっくりと身を起こした。


「……大丈夫か?」

「──……ああ。話って、なんやろ」


 彼はガス抜きのミネラルウォーターを、こちらに手渡しながら、面白そうな顔をした。


「昔なら、こういうとき、全然大丈夫じゃないって答えてたのに、四年も経つと、さすがに大人になったな」

「……話がそれだけなら、もう帰りたい」

「ECHOのログ、すごかったな」

「……は?」

「あれはさ、梶。技術じゃない。どう見ても、ラブレターだよ」

「……なんの話や」


 渡された水を飲みながら、気まずさを誤魔化した。

 だが、真田は追及の手を緩めない。


「お前がECHOを開発するとき、自覚していたかどうかは知らない。

 けど、お前のコードを、ずっと眺めてきた俺に言わせたら、あれは梶雪斗が作った、人生唯一の『誰かのために書いたコード』だ。


 佐々木さんと話がしたい。それを誰にも見られないようにしたい。

 

 そういう気持ちがあのコードには残ってる。

 だからECHOはお前にとって特別で、簡単に誰かと共有できるようなものじゃなかった。

 俺に話したくなかったのは、そういうことじゃないのか?」


 諭すわけでも、決めつけるわけでもなく、ただやさしい声で、真田は言った。だが、耳まで赤くなるのは止めようもない。


「……ちゃうわ。どっかの倫理委員会の会長が怖かっただけやし……」


 横を向き、冗談めかして答えたが、これは本音でもあった。

 本人には言いたくないけれど、彼にECHOを見せるのを嫌だと思った一番の理由は、指摘されたこと以外にも、もうひとつある。


 それは、想定以上に花のデータを取り込んでしまったECHOと、それを止められなかった自分を、彼に見られたくなかったからだ。

 だが、真田はこちらの予想に反して、そこまで咎める顔をしていない。


「まあ、ECHOをそのままモノリスに移植することは、佐々木さんを侵害する行為だから、許容はできない。

 だけど、佐々木さんの反応ログを抽象化して、個人性を完全に剥離すれば、モノリスは自律的に、欠けた部分を学ぶ。

 ECHOを移植するんじゃない。

 ECHOが彼女から学んだ、『人間のためらいの法則』だけを渡すんだ」


「……うまくいくんかな……」


 これまでもさまざまな手段を試してきたが、モノリスはまったく納得していない。その不安を、真田の落ち着きが退ける。


「うまくいかせなきゃダメだろう。

 佐々木さんだって、家に帰りたいだろうし、

 お前だって、本当は、こんな場所から早く逃げ出して、日本に帰りたいんじゃないか?」


 ──帰りたい。

 だけど、絢香の話を聞いてしまうと、いまさら、どんな顔で花に会いに行けば良いのか、まったくわからない。


 真田は、そんな気持ちすら見透かしたように、やさしい顔をする。


「まずは、モノリスを完成させよう。話はそこからだ。……だろ?

 お前が今後、何をするにしても、透明パケットは、絶対に邪魔だ」

「……せやな」


 アメリカ行きを決意したとき、モノリスの完成形を作るというのは、ゴールドマンを釣るための餌でしかなかった。

 だが、今はそれが、何よりの最重要事項になっている。


 端末を開き、再びECHOログを呼び出す。

 そのまま深夜まで、人の平穏を取り戻すための話し合いは続いた。


 鏑木絢香は、それから一週間近く、ロングアイランド──というよりは、真田の隣で過ごした。

 だが、帰国の日が来ると、他人に表情を読ませない、いつものあの顔に切り替えていた。


 ……この精神力だけは、見習うわ。ほんま、強すぎる。


 彼女の言動を見ていれば、どれだけ真田に心を残しているかわかる。

 それを微塵も表に出さず、鋼の意志で日常に戻っていく強さは、自分にはないものだと思った。

 その姿を前にすると、未熟さも、浅はかさも、自分の足りない部分も、嫌というほど突きつけられる。

 殴られた左の頬は、赤みさえ残っていないのに、なぜか痛みを覚えて疼いた。


 真田の運転するレクサスに、乗り込もうとする絢香に、慌てて声を掛けた。


「鏑木室長! ちょお待って」

「……なにかしら?」

「花ちゃんを、どうぞこれからもよろしくお願いします。

 迷惑ばっかりかけて、すまんけど、あんたより頼りになる人がおらんのは事実やし、

 あんたのおかげで、ほんまに助かった。

 せやさかい、感謝してます」


 姿勢を正し、深く頭を下げた。

 顔を戻すと、妙に嬉しそうに笑っている彼女と目が合い、嫌な予感を覚えた。


「……そうね。わたしも佐々木さんのことは気に入ってるし、気にしないで。

 それに、うちのチームの部下がね、彼女のことが気になるみたいで、最近、熱心に誘いを掛けてるのよね」

「……は?」

「失恋の痛手は、新しい恋で癒やすのが良いって言うし、応援しようかと思って」

「ちょっ! まっ!」

「じゃあ、さようなら、梶さん。ニューアークで、第二の人生を頑張って」


 言いたいだけ言って、車に乗り込み、ドアがバタンと閉じられる。

 車はゆっくりと発進して、目の前から去って行った。


「…………あかん。あの女だけは、ほんま、あかん……」



 それから数ヶ月。

 職場では、未来予測モジュールの構築を続け、自宅ではECHOの抽象化に取り組んだ。

 季節が変わり、完成が少しずつ近づいていくように見える。

 だが、それでも尚、欠けたままの最後のピースが埋められず、焦りが生じてくる。


 何より、鏑木絢香の最後の言葉が、まるで遅効性のウイルスのように、じわじわ効いていた。

 ふとしたとき、花の隣に、別の誰かが微笑んでいる絵が浮かび、感情の揺れが収まらなくなる瞬間がある。


 ここに来たのは、強い自分になるためだった。

 それなのに、日を追うごとに、自分の弱さが露呈していく。


 日々は、同じように過ぎた。

 職場とロングアイランドを往復する、単調な時間の流れの中で、いつの間にか、季節は夏に移り変わっていた。

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