Side Kaji:イベントホライズン

 翌朝八時。

 吹雪の名残を、まだわずかに残したロングアイランドの空気の中で、ミス・ブライトが予告時刻にドアベルを鳴らした。


「おはようございます、ミスター・カジ。

 今日はオリエンテーションも兼ねていますから、少し急ぎます」

「ん。お迎え、おおきに。俺も今後は、車とか買うた方がええんかな?」

「いえ。あなたには常に、わたしの送迎をつけるよう、ゴールドマンさんから指示を受けていますから」

「なるほどなあ。そら、心強いわ」


 監視の目を緩めることは、決してないという通告だろうか。

 あの男なら、それくらいして当然だろうと思いながら、ミス・ブライトの指示で、黒いSUVの後部座席に乗り込む。


 住宅街が途切れ、橋を渡る頃には、マンハッタンの摩天楼は背後に沈んでいた。

 代わりに、産業と物流の匂いだけが残る土地が広がっていく。


 ニュージャージー州ニューアーク。

 GSCの研究施設は、アイアンバウンド地区の外れ──元は食品工場だった三階建ての倉庫を改築したものだ。


 本来、ここはもっと生活の匂いがある街なのだろうと、車窓の僅かな残滓から、何となく察せられた。

 だが、GSCが囲ったこの一角だけ、時間の流れが歪んで見える。


 いまは外壁だけを残し、窓のない無機質な研究棟に改修されている。

 周囲の2ブロックはGSCが買収し、表向きは飲食店や集合住宅として機能しているが、内側は完全な封鎖区域だった。


 車が施設の前に停まった瞬間、無意識に姿勢を正した。

 入口には、シリコンバレー系企業のような柔らかさも、金融企業の威圧感もない。

 ただ、観測と無関心だけがある。


 そして、ドアの横には、無言で動く武装警備員。

 視線が数メートル先の空間を読み取るように揺れる。

 ミス・ブライトがIDを提示すると、建物の中から短く乾いた電子音が響いた。


「ようこそ、GSCへ。ここが今日からあなたの職場です」


 案内されるままに、建物の内部に足を踏み入れながら思う。


 ……虎穴やのうて、ほぼ事象の地平面イベントホライズンやん。


 一歩越えた瞬間、帰還という概念そのものが消える。

 広大な敷地にそびえる無機質な建物は、立っているだけで体温を奪うような冷えを帯びていた。


 日本では感じたことのない、異質で静かな威圧が、肌の表面をゆっくり侵してくる。


「……こんなとこで、よう二年も勤まるなあ。やっぱ真田さんは普通とちゃうわ」


 思わず小声でぼやくと、前を歩いていたミス・ブライトが立ち止まり、振り向いた。


「あなたと真田は、本当に親しいんですね。ただの同僚ではなかった……?」

「ゴールドマンはんなら、ご存じやろうけど、俺と彼は、共同で数年前にAIを開発した仲や。

 ここに呼ばれたんも、その完成形を作るためやし、これからも共同開発を続けることになる。

 そうやないと、あんなもん、俺一人じゃよう作られへん」

「……そうですか。よくわかりました」


 まっすぐに進行方向へ向かって歩いて行く、彼女の隙のない背中を見ながら、ほんのわずかな違和感を覚える。

 表情、言葉の置き方、質問内容、そのどこに引っかかったのかが、わからない。

 だが、ゴールドマンの名が出た瞬間、彼女の表情が、わずかに揺れたようにも見えた。


 ……なんやろな。

 これが、訓練された人間の読みにくさってやつなんやろか。


 うまく言語化できない違和感の理由を考えながら歩いていると、いつの間にか自室の前に辿り着いていた。


 外光の入らない灰色の壁、均一な白色照明、余計な家具のない部屋。

 デスクには専用端末が一台置かれ、起動と同時に、カメラが角度を変える。

 当たり前のような監視に、薄い笑いが漏れる。


「一応聞くけど、ここ、人権とかあるん?」

「ありますよ。ただし、適用される法律が、あなたの想像より、少しだけ複雑かもしれません」

「そうどすかあ」


 脳内に「人権はゼロに等しい」とメモを取っていると、ひと息入れる間もなく、ミス・ブライトに研究室へ案内される。


 A-13ラボと書かれた研究室は、冷えた空気と機械の振動が支配する場所だった。

 中央には演算ユニットが、黙り込んだ獣のように鎮座し、奥には強化ガラスの観測区画。

 ふたつのデスクが、最小限の距離で並んでいる。

 この空間には、人の雑談も、ため息も、創造のための余白もない。


「あれ、梶。もう来てたのか?」


 ミス・ブライトが去って行った数分後、背後から真田が現れ、当たり前のように右側のデスクに陣取った。


「へ? 真田さんと同室なん?」

「そうだよ。知らなかったのか?」

「聞かされてへんし、正直、真田さんと同じラボで働けると思うてへんかった……」

「効率のためじゃないか? それだけ早く、モノリスの完成を待ってるってことだろ」


 だとしても、有り難い。

 もしもレイ・カーターと同室だったら、どれだけノイズになったかと思うと、GSCの意図がなんであれ、この状況を利用するのが最善だろう。


 昨夜の話では、真田は既に、モノリス開発に着手していた。


「それで、現状は?」

「倫理モジュールと主要フレームワークは完成してる。ただ──核心コアには、一度も触ってない」

「未来予測モジュールは、コアとはちゃうやん。あれは、ただの加速装置や」

「まあ、どちらにしても、初めからゴールドマンは、お前をここに迎え入れる前提で、俺を呼び寄せてるってことだよ」

「二年も前からか……?

 はあ、気が長いのか短いのか、ようわからん奴やな」


 真田は、苦笑しながら眼鏡のブリッジを上げた。


「世の中には、手段を選ばずに目的を遂げようとする人間と、目的を果たすためには、手段こそ命だって思う人間がいる。

 お前は後者で、あっちは前者。その違いだよ」

「なるほどなあ。

 ほな、これ以上、あちらさんを待たせるんも気ぃ悪いし、さっさと始めまひょか」


 真田との作業は、驚くほどストレスがない。

 話さなくても通じる。

 伝えなくとも意図を読み、先回りする。

 自分の脳内のパズルの、欠けたピースを持っているのは、やはり世界で、この人だけなんじゃないかと思わせてくれる安心感がある。


 途中、何度かレイ・カーターが覗きに来ては、嫌味を言ったり、探りを入れたりしてきたが、ゴールドマンに言い含められているのか、明確な妨害行為は特になかった。


「前から思ってたんだけど、レイってさあ……昔の梶に、ちょっと似てるよな」

「……あかんて、真田さん。そこは触れたらあかんのやって」


 そこから数週間はあっという間に過ぎ、出発前に海堂に、あれだけ心配を掛けたことが申し訳なくなるほど、ただの研究者としての日々が過ぎていく。


 夜に、時折、窓ガラス越しに星を見た。

 この季節の日本との時差は、約十四時間。

 彼女が、同じ空を見ることはないと、わかっている。


 だけど……ただ、しあわせでいてほしいと思った。


 そばにいられなくとも、彼女の幸福を願うだけで、静かに心が満たされる。

 それは、何の自己満足だろうと思いながら、ベテルギウスが瞬く遠い夜空を、無言のまま、しばらく眺めた。

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