Side Kaji:ノイズを入れることができれば

 薄い光が、室内の空気を静かに白ませていた。

 外界の音は何ひとつ届かないのに、密室に真昼の淡い明るさが僅かに流れ込む。


 目が覚めたとき、身体の重さに思わず顔をしかめた。

 飛行中の気圧変化で起こるデスセンター症状。偏頭痛と意識の鈍りも相まって、起き上がる気力がなかなか湧かない。

 首だけを左に向けると、ベッドサイドに置いてあるテーブルに水差しと、なぜかおにぎりが置いてあった。

 思わず、ふっと気が抜ける。


 いつだったか、アメリカにもライスボールくらいあると笑われたことを思い出す。

 こういう気遣いを込めたジョークは、いかにも真田らしかった。

 身体に負担を掛けないように、ゆっくりと起き上がり、時計を確認すると、既に午後二時を回っていた。


「あかん……明日までに時差ボケ治るんかな……」


 部屋についているシャワーを浴び、クローゼットから適当に服を拝借する。

 どれもタグ付きで、昔から好んで着ていたブランドとデザイン。配色も黒、紺、グレーで揃えられている。


 コードを書くとき、ノイズになるようなものは着られない自分を、真田は嫌というほど理解している。

 しかも、荷物を大して持たずにやってくるに違いないというところまで、おそらく読んでいるのだろう。


「……ほんま、昔からおかんやな」


 気遣いがありがたいのに、つい笑ってしまう。


 四年の月日を一瞬で飛び越え、昔と変わらぬ距離感に立っていてくれる。

 昨日まで死を覚悟するほどに思い詰めていたことが、嘘のように一瞬で霧散していた。


 おにぎりには、ほとんど温もりは残っていないが、覚醒しきらない頭には、塩気がほどよく美味しかった。

 食べ物を美味しいと思えるのも、花と最後に食事をした夜以来だ。


 真田からのメモには、七時には帰宅すること、夕食を用意することが書かれていたので、それまでの間に、二階の自室に戻る。


 やるべきことはいくつもあったが、まず急ぐべきは、自室のファラデーチェンバー化だった。

 二LDKの室内を見て回り、一番奥の、窓のない十畳ほどの部屋に目をつける。

 熱源が少なく、構造も単純で、密閉しやすい。


 指先で壁を軽く叩く。

 石膏の響き。内部の空洞の深さ。配管ルート。天井の梁の位置。

 頭の中で、寸法がそのまま数値になり、空間がワイヤーフレームとして立ち上がっていく。


「……幅二一八〇、奥行き三四五〇。銅メッシュは三ロール、MUは……この面だけでええか」


 スマホも図面も使わない。

 必要な素材、遮蔽係数、予測される減衰量まで、すべて暗算で揃っていく。

 材料の調達は真田の手を借りることになるが、安全地帯の確保は最優先だった。


 自分が生き延びられる確率は、どれほど上がったのだろう。

 それとも、大して変わっていないのか。

 考えても仕方のないことが脳裏を掠め、思わずため息が漏れる。


 ──最後の瞬間まで足掻きたかった。

 自分のためにはもちろん、手を貸そうとしてくれている人たちのためにも。



 七時前に部屋を出ようとしたところ、ちょうど迎えに来た真田と鉢合わせた。


「……夕飯、呼びに来たんだけど忙しかったか?」

「ちゃうよ。今、そっちに行こうとしてた」


 先ほど計測したメモを見せると、彼は満足そうに頷いた。


「積もる話もあるし、今日もそっちで寝てもええかな?」

「もちろん。異国に来たばかりの子供には、ホームシック対策が大事だしな」

「……そんなんちゃいますぅ。しばらく会わん間に、いけずに磨きがかかっとるやん」


 真田といると、いつもこうだ。

 なぜかからかわれ、でもそれが嫌じゃない。

 だからこそ、感覚が狂いそうになる。


 昨日借りた部屋ではなく、同じように電波を遮断してある真田の寝室は、小さなテーブルセットやソファが置かれた、十五畳ほどの広さだった。

 そこに、テイクアウトした料理を並べ、沈黙の四年間について、根掘り葉掘り尋ねた。


「……二年前からGSCにおるん!? せやのに、なんでアペックスの情報が更新されてへんかったんやろ」

「それは、梶が絶対に情報を抜きに来るって、海堂さんは知ってるからだよ。お前が思っている以上に、彼は大人だし、有能だ」

「はあ……。マジかぁ。なんや遊ばれてるみたいで腹立つなあ」

「ばかだな。違うよ。情報を隠すことで、お前の暴走を止めてたっていうのが正しい。

 梶はさ、普段は冷静だけど、守りたいものが危険に侵されてたら、突然暴走モードに走るタイプだろ」


 反論のしようもなく、食後に出されたカフェインレスのコーヒーに、無言で口をつける。


「……絢香が怒ってたよ。三点同時攻撃は、いくらなんでもやりすぎだって」

「は? 鏑木絢香と、まだ付き合うてはるん!?」

「付き合ってない。……なんでそんな食いつくんだよ。ただ、彼女との情報交換は必須だからさ、お互いの立場的にも」

「そしたら……真田さんは、何の目的でここにおるん?」


 それは、昨夜からずっと聞きたかったことだった。

 彼は少しだけ声を潜めて、何かを警戒するように視線を鋭くした。


「平たく言えば、アペックスに害を及ぼさないための防波堤と、モノリスの完成形を作れるのなら、それを研究したいという気持ちも、もちろんあった。

 ……ただ、ゴールドマン、引いてはGSCが真に求めるのは、モノリスではなく、未来予測モジュールだ。だが、知っての通り、それは俺には作れない」


 その単語に、急に気持ちが暗く沈む。


「……あんなん作ったらあかん。俺は、それがずっとわかってなかった……。

 未来予測は、人類の禁忌やった。俺が踏み越えたあかん領域を踏んだから、みんなに迷惑掛けるようになった。

 アペックスも、真田さんも、海堂さんも、モノリスがなかったら今も無事やった……」


 この世の誰にも吐けない弱音を、なぜか、彼の前では自然に言える。

 こんなことはただの甘えだと思うのに、凍土に落ちる陽だまりのようなやさしさに、つい縋りたくなった。


「はははっ。ばかだなあ。そんなこと考えてたのか?」


 真田は柔らかく笑い、「そうじゃないよ、梶」と、首を振った。


「未来予測は、どの時代でも人類にとっての憧れであり、目標だよ。それを望まない研究者はいない。

 なぜなら、自然災害にも、市場経済にも、生態系の研究にも、あらゆる脅威から身を守るために、人は必ず予測を立てたがるものだからだ。

 ツールを作ること自体は、悪いことじゃ絶対にない。

 問題は常に、それを使おうとする人間の心にある」

「……そう……なんやろか……」


 喉の奥が、ぐっと詰まり、うまく唾を飲み込むことができない。


「当たり前だろ。……ゴールドマンの暴走は、彼自身の問題であって、そこにお前が責任を感じるのは、絶対に違う。

 お前は、自分が作ったものに、もっと誇りを持っていい。

 この世界で、モノリスよりもすごい構造体を、少なくとも俺はまだ見たことがないよ」

「……透明パケットがあるやん。運用方法はともかく……あいつは、やばい」

「透明パケット?」

「あいつらが作った、最悪の技術のことや」

「俺は、あれを観測遅延層って呼んでるんだけど、お前が名付けると、妙にかわいいな」

「……せやけど、その実態はエグい」

「ああ、その通りだ」


 その一瞬、真田の目から温度が消えた。

 研究者としての理性だけが残り、静かに世界を断罪するような表情だった。


「あれだけは、どれほど優れた技術でも認められない。技術者としても、人としても」

「──そしたら、真田さんの目的も……」

「もちろん、お前と同じだよ。あれは、いますぐにでも、この世から排除すべきだ」


 まっすぐな瞳でそう言われ、安堵から身体が震えそうになった。

 閉じた回路の隙間に射す光のように、揺るぎない意思が、そこにある。


「でも、お前が来てくれて助かったよ」

「──……え?」

「俺と梶は、根本的に、解析に使う脳の回路が違う。

 俺は、システムを守るのは得意だけど、壊すのは、お前の方が絶対にうまい。

 お前のおかげで、成功率が格段に跳ねた」

「…………そう、やろか……」

「ああ。お前が日本に無事に帰るための道筋は、俺が作るよ。

 だから、この先、お前は真剣に、あれを止める手立てを考えてほしい」


 ──その言葉を聞いた瞬間、突然、脳が高速で回転し始めた。

 片手で頭を抑えたまま、無数の演算を繰り返す。


「──…………にノイズを入れるんや…………」

「……は?」

「あんた、ずっと言うとったやん。世界には『間』が要るって」

「ああ……。そうだな。たしかに……でも、その情報が、何に繋がった?」


 真田は呆気にとられた後、すぐに面白そうな顔に切り替わった。


「透明パケットは、おそらく、判断の先読み、つまり、思考の『空白』を解析する技術や。

 人が決断する直前に生まれる、あの一瞬の迷いを、あいつらは盗んでいる。

 せやさかい、行動ログから生体反応、他人の会話の沈黙でさえ、全部データとして扱える。

 その『間』に、もしもノイズを入れることができれば……?

 具体的には、非同期揺らぎ、観測遅延ノイズ、判断のランダム化…………」


 真田が息を呑み、ごくりと喉を鳴らした。


「……それが、もしも可能なら、透明パケットを破壊する手段になるな……。

 でも、できるのか?」

「……たぶん、できる。せやけど、そのためには……」


 ──モノリスの完成形が必要になる。

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