Side Kaji:観測されない場所
「お知り合いですか?」
呆然としている自分を引き戻すように、鋭い質問が飛んだ。
真田が苦笑しながら答える。
「同じ会社の同僚だったんだ。ゴールドマンさんも知ってることだから、報告は不要だよ。もちろん、そうしたいならして構わないけど」
「なるほど。了解しました。……それでは、私は今夜はこれで失礼します。
ミスター・カジ、時差調整に二日ほど休みを挟みますので、三日後の午前八時にお部屋までお迎えに上がります」
「おおきに」
機敏な動きで去って行く彼女の後ろ姿を見送り、改めて目の前の男に向き直った。
「…………ノースカロライナにおるんとちゃうかった?」
「ははっ。情報が古いなあ。それより、中に入らないか? 寒いだろ」
ドアが閉まった瞬間、外の吹雪の音が、薄い膜の向こうに遠ざかっていく。
暖房は効いているはずなのに、部屋の空気は妙に冷たかった。
温度の問題ではなく、生活の匂いがほとんどしない家の冷たさだった。
白とグレーでまとめられた広いリビング。
壁には抽象画が一枚、静かに掛けられているだけ。
家具は整いすぎていて、散らかった気配はどこにもない。
住んでいる人間の温度が、どこにも落ちていない部屋だった。
……なんやろな。
真田さんの部屋って、昔から無駄なもん置いてへんかったけど……。
ここは、それとは別の静寂がある。
まるで、寛ぐことを自分に赦していないような規律正しさ。
彼がここで何を思い、どう過ごしてきたのかさえ、他人に悟らせることを拒絶しているような部屋だった。
ふと目を向けると、リビングの奥の白いドアがわずかに開いていて、中の様子が視界に入る。
引き寄せられるようにそこへ行き、ドアをそっと開くと、研究室の匂いがした。
L字デスク、四枚のモニター。
散らかっているわけではないのに、情報だけが飽和している空間。
白いボードに走り書きされた式。
壁際に積まれた資料の束に、見覚えのあるファイルタグが混じっている。
……あれ、モノリスの
整いすぎた静けさの奥で、何かが歪んでいる気配だけが、じっと息を潜めていた。
胸の奥が俄かに騒ぎ出し、懐かしいという感情と、触れたらダメだという直感の両方が走る。
彼がこの場所にいる理由にようやく気がつき、思わず背後を振り返る。
こちらの様子を伺うようにそこに立っていた真田は、軽く笑ってみせた。
「自宅用の研究室だよ。たいしたものは置いてないけどな」
たいしたものじゃないどころか──
真田圭という人間の脳の中を、そのまま形にしたみたいな部屋だ。
気がつけば、自分でも驚くほど、低い声が腹から出た。
「なあ……ゴールドマンにモノリスを作れって脅されたん?
……せやからここにおるん?
鏑木絢香を人質にでも取られたんとちゃうよなあっ」
そんな事情でもなければ、彼がここにいることの説明がつかない気がして、思わず口調が強くなった。
だが、かつての恩人は、困ったように眉を下げ、口元で人差し指を立てる。
「──そんなわけないだろ。心配しすぎだ。
それに、絢香みたいな立場の子に手を出したら、米国の研究保護プログラムが黙っていない。
大使館はもちろん、研究機関まで動きかねないからな。
それが理解できないほど、彼らは愚かじゃないよ。わかってるだろ?」
こちらの反応を見ながら、彼はすぐ傍のボードに、日本語で走り書きした。
『端末を隠すまで、口を開くな』
──……透明パケットに、やはり彼は気がついている。
会話が妙に丁寧だった理由がわかる。
今のは、こちらに向けた説明ではなく、盗聴を想定した上での言葉だった。
こちらが無言で頷くと、その文字をさっと消した。
「お前、ロングフライトで疲れてるんだろ?
良いから今日はもう休め。話は明日でいいか?」
「……ああ、変なこと言うてすまんかった」
「気にするな。今日は帰って、明日また来れば良い」
そう言いながら、彼は自分のスマホを研究室に置いた。
こちらも、会社から支給されたスマホを、適当に机に載せる。
廊下を無言で歩く真田の後ろに続きながら、ひたひたと背後から忍び寄る、嫌な気配に首筋が震える。
突き当たりの白い扉の前で、真田が立ち止まった。
「ここが客室だけど……今日は部屋に帰らず、このまま、ここで休んだ方が良い。
自覚はないだろうけど、本当に顔色が悪いから」
勧められるまま部屋の中に入り、ドアが閉まった瞬間、空気がすっと落ちる。
外の風の唸りも、人の生活音も、壁を通してくる微かな振動すらない。
……なんや、この静けさ。
足を踏み入れただけで、肌の上を流れる空気が変質しているのに気づく。
冷たいわけでも、乾燥しているわけでもない。
ただ世界との接続が一枚剥がれたような、薄い膜の中に閉じ込められた感覚。
心なしか、呼吸の深さが変わっていく。
……ここ……電波が死んどる気ぃする……。
試しにポケットに入れたままの、透明パケットを無効化した自分のスマホを確認した。
内部のアンテナが、外の信号を一切掴んでいない。
圏外ですらなく、「存在しない」領域に落ちている。
室内を見回し、この寝室全体が
振り返って真田を見ると、いたずらがバレたような顔をしている。
「……ここは、外から覗けない箱になってる。
通常の盗聴も、何も通らない。
だから、今は安心して、ゆっくり休め」
声は優しいのに、その言葉の意味は、背筋を薄く冷やしていく。
「なんで、こんな部屋作らはったんや……」
「……海堂さんから、お前がこっちに来るって聞いて、慌てて準備した部屋だよ。
ここにいる間だけは、どんな連中でも手を出せない。
誰もお前を観測できない場所にしておきたかった」
喉元に、知らず熱いものがせり上がる。
透明パケットに狙われるということは、すべての判断や思考まで覗かれるということだ。
その地獄の中で「観測されない」ことが、どれほどの救いなのか。
ベッドに腰を下ろすと、沈み込む柔らかさよりも、周囲の静寂の重さの方が先にくる。
何も聞こえない。
何も侵入してこない。
頭の中の思考だけが、ようやく自分のものに戻ってくる。
まぶたが落ちる。
眠ろうと思ったわけじゃない。
ただ、意識のほうが先に諦めたように、気がついたらベッドに倒れ込んでいた。
「……お疲れ、梶」
頭の上、遠い向こうで、懐かしくやさしい声が、かすかに届いた気がした。
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