Side Kaji:未来の変数

 ……あかん、挑発しすぎたやろか。

 ──と、思ったその瞬間。


“Mr. Kaji?”


 背後から、鋼を通したように無駄のない、澄んだ女性の声が落ちてきた。

 振り返ると、黒いレザーコートに身を包んだ長身の白人女性が立っている。

 年齢は三十代後半だろうか。

 くすんだ金色の髪は短く、目元の鋭さを際立たせていた。

 灰色がかった瞳は、敵か味方かの判定を常に続ける、訓練された観測者の眼差しだった。


 ……鏑木絢香を諜報員プロにしたらこんな感じになるんかな……。


 第一印象はそれだった。

 冷静で、鋭く、観察力に優れた戦闘系要員。

 その女性は、レイが逃げた方向を一瞥し、小さくため息をついた。


「……逃げたんですね、あの子は」

「まあ、挑発されて耐性が切れたんやろな。若い天才ほど、意地の制御が利かへんもんやし」

「なるほど。うちの人間が大変失礼しました」


 彼女はそう言って、軽く頭を下げた。


「はじめまして。Evelyn Bright(イヴリン・ブライト)。

 わたしはエリック・ゴールドマンのオペレーション担当です。

 以後、Miss Brightで結構です」

「はじめまして、ミス・ブライト。梶と言います。……日本語の発音がお上手やねえ」

「ありがとう。昔、日本で数年間暮らしていましたから。

 あなたを迎えに来るのは私の役目でしたが……レイの勝手な行動でご迷惑をおかけしましたね」

「気にしてへんよ」

「……驚かせたこと、お詫びします。ここからは私がご案内します」


 建物の外へ出た瞬間、世界は白い暴力に包まれていた。

 夜の吹雪は雨より容赦がなく、横から叩きつける氷片が顔に鋭く当たる。

 視界は十メートル先で途切れ、駐車場の灯りさえ、ぼんやりと滲んで見えた。


 ミス・ブライトが差し出した手袋越しの腕に導かれ、足元を確かめながら車へ向かう。

 凍てつく風に煽られ、フードの内側で自分の呼吸音だけが、やけに大きく響く。


 生き物のいる気配が薄い。

 この寒さでは、人間も動物も、街の気配すら息を潜めてしまっている。


 SUVのドアが開いた瞬間、車内のわずかな暖気が逃げるように白い霧となって消えた。

 乗り込むと、外界の音が一気に遮断され、吹雪の荒れ狂う音だけが、閉ざされた窓にぼんやりと響く。


 エンジンの低い振動を体に感じながら、感覚のない指で、苦労しながらシートベルトを締めた。


「しっかり閉めてください。この天候では、ドアの隙間から雪が入り込みます」


 ミス・ブライトの声は、淡々としているのに、不思議な安心感があった。

 自分とは比べようもないほど、生命力も戦闘能力にも長けていそうな人間から感じる謎の空気が、一瞬、気持ちを和らげそうになる。


 ……あかん。寒さのせいか、思考が鈍るわ。

 それに──ゴールドマンの手下に早速心を赦すなんて、悪手にもほどがあるやろ。


 高速に乗るまでの道のりは、白と黒の境界が曖昧な闇のトンネルだった。

 車のヘッドライトが照らす範囲以外は何も見えず、世界に残っている光は、この狭い車内だけのようだった。

 ミス・ブライトは運転に集中していたが、ハンドルを握る指先は、微かに緊張で硬い。


「アパートメントまでは一時間ほどです。

 雪の影響で、少しだけ時間がかかるかもしれません」

「急いでへんし、ゆっくりでかまへんよ。運転任せて悪いけど、よろしゅう頼んます」


 短いやり取りが終わると、再び車内の静寂が戻った。

 そしてその静けさが、逆に思考の奥を刺激し始める。

 街の明かりが途切れた場所では、吹雪の白すら見えなくなり、黒い海の底を進んでいるような錯覚すらあった。


 ……暗すぎる。

 まるで、未来予測モジュールの盲点やな。

 観覧車が見える関内のマンションで、瞳を輝かせながら、モノリスに未来予測モジュールを実装しようとしていた頃の自分の記憶が、脳裏に蘇る。


 あれは、若さゆえの思いつきだった。

 少しでもモノリスの精度を上げたい。

 未来予測を実装することで、苦しんでいる人が減れば良い。


 未来というのは誰にとっても未知数で、本来、臆病にできている人間の脳は、いつだって転ばぬ先の杖を求めているものだ。

 そう思うからこそ、これが完成すれば多くを救えるのだと、まっすぐに信じていた。


 ……せやけど、それがすべての元凶やった。


 ゴールドマンは、モノリス本体ではなく、未来予測モジュールにだけ異様に反応していた。

 本来のモノリスの役割は、ただの人事評価システムであるにもかかわらず、だ。


 アペックスにGSCという怨念を呼び込んだきっかけを作ったのは自分で、海堂も後藤田も但馬も、いわば、それに巻き込まれた被害者だ。

 真田が去ったのも、結局のところ、自分が遠因にあるのは間違いない。


 あれほどの情熱を燃やして作り上げた構造体が、結果として己の死を近づけているという皮肉に、薄い笑いが漏れる。


 ……せやけど、透明パケットだけは──差し違えても絶対に潰す。


 今となっては、その決意だけが、唯一、自分にとっての光のように思えた。



 結局、雪のせいで到着までは二時間ほどかかった。

 外の吹雪はさらに勢いを増し、街全体が白い膜の下に沈んでいるように見えた。

 SUVは小さな住宅街に入り、やがてレンガ造りのアパートメントの前で停まる。


「吹雪の中、運転きつかったやろ? おおきに」

「いいえ。あなたこそ、ロングフライトでお疲れでしょう。良かったらこれをどうぞ」


 ミス・ブライトが、後部座席の紙袋を手渡してくる。

 手渡されたその袋は、まだほんの少し温かく、指先に、わずかに人間の生活の気配を残していた。


「軽食が入っています。この天候では、食事に行くのも難しいでしょうから」

「……何から何まで、助かりますわ」


 ……この人、人心掌握術に長けすぎやろ。

 気ぃ抜いたら、一瞬でほだされそうやな。


 ミス・ブライトの中に、なぜか杉本に似た空気を感じて、気が緩みそうになる。


 五階建ての趣ある建物は、窓が凍りついたように白く曇り、外階段には吹き溜まりの雪が積もっている。

 ここだけ時間が止まったような、静かな寂しさがあった。


「あなたの部屋は二階の角です。

 ここは、GSCの技術者が多く住んでいます。日本人も一人いるから、紹介しますね」

「いや、別にそこまで気ぃ使わんでも……」


 ルームキーをこちらに手渡したミス・ブライトが、コートからスマホを取り出し、ためらいなく、誰かと通話を始める。


「……ええ。今、到着しました。──助かります。じゃあ、部屋まで連れて行くのでお願いします」


 通話を終えると、彼女はエレベーターに向かって歩きながら振り返った。


「会えるそうです。彼は三階に住んでいますから、行きましょう」

「はあ……そうどすかぁ」


 まったく気が乗らないのに、断るだけの気力もない。

 言われるままに彼女の後を着いていき、三階の突き当たりの角部屋の前で立ち止まる。

 彼女が静かに、マホガニーのドアをノックした。


 数秒の沈黙のあと、室内の照明がふっと漏れた。

 ドアが開くと、黒いタートルに銀縁の眼鏡を掛けた長身の男が、姿を現した。


 その瞬間、心のずっと奥のどこか、触れてはならない古傷のような場所が、確かに疼く。


 男は、記憶の中と変わらない笑顔を浮かべた。


「──久しぶり、梶。

 なんか顔色悪いけど、大丈夫か?」


 息が止まった。


「…………なんで、あんたがここに……」


 彼は肩をすくめ、柔らかい声で言った。


「昔、言っただろ? 蛇の道は蛇ってさ」


 ロングアイランド郊外の五階建てアパートメントの扉前。

 そこにいたのは、モノリスの倫理モジュールを設計し、未来予測エンジンに倫理制御をかけられる、この世でただ一人の人間。


 そして、モノリスが決して予測できなかった未来の変数。


 ──真田圭、その人だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る