Side Kaji:終末時計
冬の夕方の羽田は、空が落ちきる前の鈍い群青に沈んでいた。
湿った冷気がガラス越しに肌を刺し、滑走路には薄く霧がかかっている。
遠くに響くエンジンの唸りはノイズではなく、臆病な自分の背を押すように聞こえた。
ビジネスクラスのラウンジは、思ったよりも静かだ。
柔らかな間接照明と深い赤茶のソファ。
人影はまばらで、皆、世界のどこかへ向かう前の沈黙を身にまとっている。
カウンターでは外国人のビジネスマンが電話をしていて、反対側では夫婦が地図を広げて微笑んでいる。
暗い顔をしたままの自分を場違いに思いながら、窓際のソファに腰を下ろした。
手の甲に薄く乾燥の痛みが走り、黒いコートのポケットに突っ込んだまま、ぼんやりと滑走路の灯りを見つめる。
この三日間、ゴールドマンに文字通り拘束され、ホテルに缶詰状態で過ごしていた疲れが、身体のどこかに重く残っている。
監視カメラと二人のガードがつき、嘘発見器に何度も掛けられ、トイレにまで見張りがつくという厳重さ。
過剰な監視の裏に、あの男の恐れが見えた気がした。
人を信じるという概念が、頭から完全に抜け落ちている。
だが、それはここから先の自分も同じ。
極寒の地で、信じる人間など誰もいない状況に自らを投じなければならないのだから。
取り調べなのか、それとも拷問なのか、よくわからない時間の終わりに、モニターの向こうのゴールドマンは、冷酷な目をしたまま、細い笑みを浮かべた。
「Excellent choice, Mr. Kaji.
──君を、うちのチーフAIアーキテクトに採用しよう」
その声は祝福ではなく、獲物が罠に近づく音を聞き分けた捕食者のそれに近い。
机上に置かれた契約書は、人間の弱さと誤差を、美しいほど冷静に計算し尽くす文言が並ぶ。
人間よりも機械を信じる男は、多少なりともこちらに他意がないことを確認できたらしい。
だが、世間で信じられているほど、嘘発見器は万能じゃない。
あれは嘘を見抜くのではなく、動揺を見抜くだけの装置だ。
動揺しない質問を選べば、人は平気で真実を殺せる。
この茶番劇の先にあるのが、お互いの破滅であることを静かに願って、身体の疲れごとソファの背もたれに預けた。
冬の空はもう真っ暗で、ターミナルのガラスに映る自分の顔が少し青白く見えた。
デパーチャーまでの少しの間、瞳を固く閉じて思考を止める。
『梶くん』とこちらを呼ぶ透き通る声が、それでも耳の奥にまだ残っている。
しばらくして、心情とは裏腹に、やけに明るい声の搭乗案内が、室内に響いた。
「ニューヨーク、ジョン・F・ケネディ国際空港行き、JAL007便にご搭乗のお客様にご案内申し上げます──」
重いため息をついて立ち上がり、搭乗口へ向かう途中、大きなガラス窓に映った自分の顔は、どこか別人のように見えた。
◇
機内に踏み入った瞬間、ほんのりとした青白い間接照明が、眠りに向かう人々の薄い影を静かに包んでいた。
ビジネスクラスのシートは、黒とグレーを基調にした繭のような半個室だ。
膝下まで深く沈む広い座席は、すでに人の気配と体温を忘れたように冷えていた。
荷物はほとんどない。ノートPC二台と最低限の衣類だけ。
収納棚に押し込むと、細い金属音が、これから始まる長い孤独の序章のように響いた。
シートに腰を下ろし、バックルを閉める。
エンジンの振動が機体全体に満ち、鈍い低音が腹の奥にまで染み込んでくる。
離陸後しばらくすると、客室乗務員が静かな声で尋ねた。
「お休みになられますか?」
軽く頷き、シートを倒す。
水平に近い角度まで滑らかに沈むと、背中が柔らかい闇に吸い込まれるようだった。
シートが完全に倒れた瞬間、背中が重力を失ったように沈み、機体の低い振動だけが身体の内側に残った。
瞼を閉じると、闇がゆっくりと立ち上がってくる。
意識が薄くたゆんだ水面のように揺れ、記憶と現実の境界が、やわらかく解けはじめる。
──眠りに落ちる寸前、心の奥の扉が独りでに開く。
ゴールドマンとの対面をした日の夜、アペックスの盗聴防止の会議室で、海堂と向かい合った、あの日──……
「なあ、合法ならええやろ? なにしたって、別に」
「……本気で言っているのか?」
海堂の低い声が、機内の静音に溶けていくように浮かび上がる。
まるで離陸の振動とともに閉じ込めていた記憶が上昇気流に煽られ、浮かび上がってくるように。
逃げ場を失った思考が、勝手にあの夜へ巻き戻っていく。
「──透明パケットの話、前にしたやろ」
「ああ。証拠を残さずに侵入して、のぞき見するパケットだろ」
「……あれはあかん。前は確かに、観測するだけやった。せやけど、今はちゃう。確実にこっちの情報を抜きとる仕様に変化しとる」
「な……!?」
透明パケットの一番の恐ろしさは、存在の痕跡を一切残さず、観測した相手の端末そのものになりすまして情報を抜き取ることだ。
検知も防御も不可能で、何を盗まれたかすら分からないまま、世界の情報網が、静かに、不可逆に腐っていく可能性すらある。
それは、いつ爆発するかわからない爆弾ではない。
針が進んでいることに誰一人気づけない、終末時計のようなものだ。
「どういう技術かは見当もつかん。言うてもそれが始まったんは、ほんまにこの一ヶ月前後のことやと思うけど……」
「この話、他に誰かにしたのか?」
「してへん。ゴールドマンと今日話して、初めて気づいたことやし」
「じゃあ、対策は……?」
「当面は、端末がない場所で会話してもらうしかあらへん。海堂さんのスマホにプロテクト掛けるのは可能やけど、付け焼き刃やな」
しばらく無言で考えたあと、決意を込めて海堂を見た。
「俺……アペックス辞めてもええかな?」
海堂の呼吸が、ほんの一瞬止まった。
「はあ? こんなときにふざけるな!」
「ふざけとるんやのうて、本気やねんけど」
「あほか! 余計あかんわ、そんなもん!」
「せやけど……透明パケットをぶっ潰さん限り、アペックスだけやなく、世界中の情報があいつらに良いように抜かれ続ける。誰かがそれを止めなあかんねん。せやから敵陣に乗り込んで、俺が全部ぶっ潰したい」
真剣に訴えたが、海堂は眉間にしわを寄せて首を振るだけだった。
「それをお前がやる必要がどこにある? そんなことはアメリカの捜査機関が勝手にやれば良いことだ」
「それじゃ間に合わんねん。透明パケットの進化の速度が読めん以上、いつあいつらの刃が──……花に向かうかもわからへんし……」
海堂は苦渋に満ちた顔をして、絞り出すような声で言った。
「……お前、自分が何を言うてるかわかってるんか?」
「わかってる。せやから辞めるんや。いまのまま好きに動いたら、アペックスに迷惑が掛かる。あんたも鏑木絢香の剣幕、見たやろ?
……せやけど、ここを辞めたら──俺一人の責任で済む」
言い切った瞬間、海堂の表情が苦渋に満ちたものになった。
怒りなのか、恐怖なのか、それとも別の感情なのか、判断がつかない。
「梶……それだけは絶対にダメだ。いいか。あいつらが大人しくしているのは、ここが日本だからだ。
アメリカに乗り込めば、透明パケットどころか、お前の存在そのものを消しに来る可能性だってある」
「……海堂さんと初めて会うた日に、俺、言うたやろ。
虎穴に入らずんば虎児を得ずって。覚えてないかもしれんけど。
何かを為すためには、多少の犠牲はつきものやと思う」
悲しそうに眉を下げて、それでも彼は是とは言わなかった。
「……いや、許可できん」
「そら、会社はいきなりCTOが抜けたら困るかわからんけど……」
その言葉に牙をむくように、海堂は怒鳴った。
「あほ言うな! 会社の損失なんかどうでもええわ!
……俺が、お前を危険な目に遭わすのが我慢ならん言うとるやろが。
今、お前は佐々木さんを攻撃され掛けて、冷静さを欠いているだけや。
一晩でも頭を冷やせ。一人で動いたらあかん。わかったな!」
ところどころ震える声で言うだけ言って、彼は会議室を去って行った。
「…………せやからあんたは甘いんやって。
会社より俺を優先するとか、役員失格やん……」
盗聴防止の誰にも聞かれない部屋の中、いつもより大きい声で、そうぼやいた。
しかし、海堂がどう反対しようと、既に己の心は決まっていた。
自分が去っても問題ないように、モノリスの仕様変更と、それ以外のシステムについても整理する必要がある。
透明パケットが音も立てずに動いている今、残された時間は、決して多くなかった。
──翌日、鏑木絢香との舌戦を終えた直後に、再び海堂に呼び出された。
「俺は言ったはずだよな? 昨日、勝手なことは絶対にするなと」
「……せやけど、合法の範囲やし、GSCを一時的に封じるにはええ手やと思わへん?」
「ふざけるな!」
海堂が手元の資料を机に叩きつけ、彼にしては珍しいほどの感情的な怒りを見せた。
「お前、何をしたかわかってるのか?
こんな攻撃を仕掛けてあっちに乗り込んだら、本当に殺されるかもしれないんだぞ!?」
叫び声が、常務室の壁に響いて空間が軋んだ。
彼がどれだけ本気で伝えているのかわかるのに、その思いに応えられない自分を、ひどく醜いもののように感じる。
「……昨日、モノリスを試した」
「──は?」
「未来予測モジュールを使うて、すべての入力値を入れたけど、このまま俺がアペックスにおっても、おらんでも、ええ結果にはならへんかった。
……何回回しても、俺の生き残る確率だけが異常に低いままや」
「はあ!?」
「全部のシミュレーションで共通してたんは……俺がキーになって、アペックスごと巻き込まれて終わるってことやな」
海堂の顔色が沈んでいく。
彼は、モノリスの出す予測値の正確さを理解しているからだろう。
「なんでそんな結果が出るんだ……! おかしいだろう!?」
「多分やけど……俺が透明パケットの動きを追えるんがバレとるからやろね。
あいつらにとって、一番邪魔なんはその存在に気づく人間やろし。
せやけど、俺がGSCに乗り込めば、少なくとも透明パケットは潰す手段を探れる。
それに、アペックスも助かるし──……花の危険がほぼゼロになる」
「梶……いや、あかん! お前を縛り付けても、そんな真似はさせへんからな!」
海堂の顔を見られず、視線を下げて足下を見た。
濃紺のカーペットに、いつもより自分の足が沈んでいるような気がする。
「俺は……自分の親父と折り合いが悪うて、ほとんど会話らしい会話をした覚えがないんやけど……なんでやろなあ。
海堂さんと話してると、なんとなく自分が子供に戻って、おとんに甘えてるような気分になれた。
怒らせるのが楽しゅうて、わざと煽ったりもした。
……せやさかい、あんたに悲しまれるんは……ほんまにきつい」
「……あかん……。そんなん聞いたら……尚更どこにも行かせられんわ」
引き留められる声が心地よく、なぜかずっと聞いていたい気持ちになる。
だが、それを振り切る強さがなければ、この先に進むことができない。
顔を上げて、なるべく軽く聞こえるように声を作った。
「自分言うとったやん。初めて会うたとき、地獄に落ちるのは構わんけど、そこから何を持ち帰るかが大事やって。
あんときは正直、おかしなこと言うおっさんやなあって思うとったけど……あの言葉の意味が、今んなってやっと腹に落ちたんや。
せやさかい……行かせてほしい。堪忍な、海堂さん」
喉から絞り出すような声で、海堂が低く呻く。
「…………俺には無理や……。行ってこいって、冗談でも言えん……」
どう答えて良いかわからず、未練を断ち切るように冗談めいて返す。
「あんさん、案外、親ばかなんやね。
大丈夫やって。モノリスかて万能やない。
予測不可能な変数ひとつで、未来なんていくらでも変わるもんやし。……せやろ?」
「……どうしても行くのか?」
「せやな。もう決めた。できるだけ早く行きたい」
長い沈黙の後で、彼は諦めたように口を開いた。
「…………だったらひとつだけ、約束してくれ」
それは、泣きたいのに泣くことができないという大人の顔だった。
海堂が震える拳をぐっと握りしめる。
「危ない真似をするな。相手を挑発するな。ばかな真似をするな。それから……」
「いや、それひとつやないやん」
海堂は何かを言いかけて、喉の奥で潰した。
「──……絶対に死ぬな」
最後の声は、祈りのようだった。
機体がわずかに揺れる。
眠りの底から浮かび上がるように目を開けると、窓の向こうには真っ黒な海と、遠ざかる東京の灯が薄く散っていた。
──ほんまにもう、戻られへんのやな。
シートの上で指先が小さく震えた。
海堂の声も、花の顔も、手を伸ばしても届かない場所に沈んでいく。
ジャケットの内ポケットに、それでも手放せなかった万年筆がある。
取り出さず、服の上からそっと感触を確かめて、記憶の中の花の声を思い出してお守りにする。
自分が選んだ、この孤独の航路を走りきるための。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます