音はなく、ただ共鳴するだけ。
式が終わり、人の波がゆっくりとガーデンテラスへ流れていく。
春の午後の日差しが、花の咲く庭にほんのり金色を散りばめている。
ピアノの生演奏が風に乗って届き、陽の当たる庭では参列者がそれぞれに語り合っていた。
笑い声とグラスが触れ合う澄んだ音が、祝福の時間をそっと包んでいく。
それは、とても胸が温まる光景だった。
遠巻きに新郎新婦を眺めて、ふと、化粧直しに行こうかと思いつき席を立った。
白石さんが背後を歩くのが、実はちょっと落ち着かない。でも、警護というのはきっとそういうものなのだろう。
「佐々木さん」
後ろの方から大きな声で呼びかけられ、思わずびくりとした。
振り向くと、そこには背の高い、無造作でありながらどこか洗練された、黒いスーツの男性が立っていた。
年齢は四十代後半だろうか。鋭い目をしているのに、深い疲れと静かな優しさが同居している。まるで、場の空気を静かに変えてしまうような、落ち着いた重さがあった。
「……あの……?」
……悪い人ではなさそうだけれど、顔を見ても誰なのかわからない。
なぜか、白石さんが警戒していないのも謎だ。
不思議に思っていると、わたしにだけ聞こえる声で彼女が囁くように言った。
「──佐々木さん、この方は御社の海堂常務ですよ」
「……ひっ」
直立不動になりながら、変な声が出る。
それを誤魔化すように、慌てて深く頭を下げた。
「さっ、佐々木花です! この度はお日柄も良くおめでとうございますっ」
待って。なんで常務がわたしの顔と名前を知っているの?
混乱しながら頭を上げるタイミングを計っていると、「はははははっ」と、上から大きな笑い声がした。
恐る恐る顔を上げると、先ほどよりも威圧感のない表情で、海堂常務がおかしそうに笑っていた。
なぜ笑われるのかもわからず、どう反応するのが正解かも見えない。
「──失礼。アペックスの海堂だが、少し、佐々木さんを借りても良いか?」
常務はわたしではなく、なぜか白石さんに声を掛けた。
「背後に控えることをお許しいただけますか。会話が聞こえない範囲におりますので」
「ああ。それで構わない。佐々木さんも良いかな?」
「は、はい……」
いや、これ断る選択肢、一個もないやつ……。
わたしは大人しく、常務の後ろに続いて歩いた。白石さんは、私たちから二メートル近く離れて追ってくる。
……自分の人生で、リンクスの社長にして本店の役員と絡む日が来るなんて思わなかった……。
そういえば志穂さんから、梶くんの退社後、杉本さんが常務の下に配属されたと、先日教えてもらったばかりだ。
一体何の話をするのか、なんの見当もつかないまま、思わずこぼれそうになるため息をそっと殺した。
◇
人の波は庭の中央に集まっていて、奥まったテラスには誰もいなかった。
海堂常務は迷いなくそこへ向かい、わたしは慌ててついていく。
鈍い銀色をしたテーブルで、席を勧められ、向かい合って座る。
就職の面接でもこんなに緊張しなかったはず、と思いながら、そっと様子を伺うと、海堂常務はとてもやさしい目でわたしを見ていた。
「……なるほどなあ」
「……なにがでしょうか?」
「梶が選ぶ女性がどんな人かイメージがつかなかったけど、完全に予想外だった。これは、良い意味で」
言葉が胸の真ん中に落ちて、息が止まりそうになる。
「梶くんを……ご存じなんですか?」
そう尋ねた直後、常務がCTOを知らないわけがないとすぐに思い至り、「し、失礼なことを聞いてすみません!」と頭を下げた。
「いやいや、頭を上げてくれ、佐々木さん。
今日は完全にプライベートのつもりでここにいるから、そんなにかしこまる必要もない」
「そう……なんですか?」
「ああ。参列者に君の名前を見かけて、どうしても声を掛けたかった。
梶は……佐々木さんのことを本当に大切にしていたからね」
遠い目で語るその表情と言葉から察するに、梶くんと常務はかなり親しいのだろうか……。
「か、梶……くんは……元気ですか?」
言葉にして良いのかわからないのに、気がついたらそう聞いていた。
そして同じ瞬間に、ぐしゃっと顔が崩れて涙が溢れる。
すっと目の前に白いハンカチを出されて、困惑しながら受け取った。
「す、すみません……」
「いや……。あいつをこんなに気に掛けてくれる女性がいるのが、柄にもなく嬉しいよ。本当に……」
お借りしたハンカチを本当に使って良いのかわからず、手にぎゅっと握ったまま、人差し指で涙を抑える。
「……あいつは、元気かどうかまではわからないけど、なんとかやってるはずだ。だから、そこまで心配しなくて良い」
「……よ、良かった……」
そう言葉にしたけれど、息が漏れたみたいになって、うまく音にならない。
ずっと知りたかった彼のことをやっと聞けた嬉しさで、身体の力が抜けそうになる。
「声を掛けたのは……佐々木さんには、感謝してると伝えたかった」
「──……え?」
常務はわたしから視線をそらすことなく、やさしい顔をしたまま言った。
「そこそこ長い付き合いだけど、梶が誰かを本気で大事にするのを、初めて見た。
あいつは、出会った頃からとにかく生意気で、人に滅多に心を許すことがないやつだった。
俺のことも、つい最近までどう思っているか、わからなかったくらいだ。
でも、佐々木さんの話をするときだけは、顔が違ったんだ。
……ああ、梶は本当にその子が大事で守りたいんだなって、よくわかった」
なんて答えていいのかわからない。
頭の中に梶くんが浮かぶ。やさしい顔でわたしを見る、その眼差しが。
常務は、まるで梶くんのお父さんのような顔で、軽く頭を下げた。
「あいつをまともな人間にしてくれて、ありがとう。佐々木さん」
「……いえっ。……わたしはなにも……なにもできなくて……」
お礼を言われることなんて、なにもない。
だって、出会う前からずっと、彼はやさしい人だった。
深夜のサポートセンターに電話を掛けただけのわたしに、呼吸をさせてくれて、泣いて良いって言ってくれて、落ち着くまで待ってくれた。
涙が溢れて、息が苦しかった。
初対面の人の前でこんなに泣いたら、さぞかし迷惑だろうと思うのに、止め方がわからない。
「……梶はきっと、君の隣で幸せだったんだろうな」
そうだろうか。
今となってはもう、よくわからない。
振り返ってみると、いつも、わたしの方が与えてもらうものがずっと多くて、いったい彼に何ができたんだろうと、情けなくなる。
「す、すみません……みっともなくて」
「いや……」
常務はしばらく沈黙したまま、言葉を探すように目を伏せた。
そして、何かを決めたように顔を上げる。
春の風が、どこか遠くで木々を揺らした。
「こんなこと、本来は頼めることじゃないんだが……」
無意識に、渡されたハンカチで涙を抑えながら、呼吸を整えて「はい」と答えた。大事な言葉を聞かされるのだと、なぜかわかった。
「──……もし可能なら、少しだけで良い。
あいつのことを、待ってやってくれないか?」
「──……え?」
「この年齢になると、わかるんだ。
人生で、心から大事だって思える人間に巡り会うなんて、ほとんど奇跡だ。
特に梶の場合は、端から他人を自分の内側に入れられるような奴じゃない。
だから、君は本当に、あいつにとって大事な存在だと思う」
「───……っ」
「あと少しだけで良い。
君の自由を奪いたいわけじゃないし、こんなことを頼むのは俺のわがままで、過保護で、自己満足だが……」
泣きながら、ただ一生懸命首を振った。
常務にとって、梶くんがどういう存在かはわからない。
だけど、彼がどれだけ梶くんを大事にしているか伝わって、胸の奥が痛かった。
「わた……わたしで……赦されるなら……」
嗚咽の途中で、必死に言葉を紡ぐ。
梶くんを忘れられる日が来るとは、とても思えない。
だけど、「忘れてほしい」と最後に言い残して去って行った彼を、ずっと好きなままでいていいのか、本当は、よくわからなかった。
「佐々木さんやないと、あかんねん」
急に落ちてきた関西弁に、びっくりして常務を見た。
泣きそうなほどに目尻にしわを寄せた、困った顔で笑っている。
「あんなめんどくさい男、他に誰が相手できる? 自分もほんまは、そう思うやろ?」
「……っふふ」
「せやから、頼むわ。──あいつを、見限らんといてくれ。こんなん言えた義理やないけど」
それは、どうしようもないほどの愛の言葉で。
梶くんの傍に、こんなにやさしくて大きな存在がずっといたのだと思うと、抑えようとしても涙が止まらない。
「……はい、喜んで……」
少しずつ日が傾いていく春の始まりの庭で、常務はそのまま、私の呼吸が落ち着くまでの少しのあいだ、黙って傍にいてくれた。
そのやさしさは、いつも無言でわたしの頭を撫でてくれた梶くんの佇まいに、
驚くほどよく似ていて、胸の奥がいつまでも暖かかった。
◇
鏑木さんの家に戻る途中、白石さんにお願いして、近くのジュエリーショップに立ち寄った。
買ったのは、細いプラチナのチェーンネックレス。
部屋に戻り、静かに息を整えてから、クローゼットの引き出しの奥にしまっていたジュエリーボックスを開く。
小さなダイヤのついた指輪が、持ち主を待っていたかのように光を集めている。
台座からそっと外し、しばらくその無音の輝きを眺めた。
早まる鼓動を抑えながら、チェーンに通して首にかける。
声も聞けないし、どこにいるのかもわからない。
なのになぜか、梶くんと今もちゃんと、繋がっているような気持ちになる。
──音はなく、ただ共鳴するだけ。
それが今のわたしと彼の、現在地なんだと思った。
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