これは、わたしのためだけの
三月三日。
わたしの二十八歳の誕生日。
鏑木さんは先週のうちに渡米して、わたしは白石さんと二人、鬼教官と新米警察研修生のような距離感のまま、職場と家を往復する毎日だ。
今日はアペックスホールディングスの社食で、久しぶりに志穂さんとランチの約束をした。
本店の社員食堂は、ちょっとした商業施設のフードコートよりも広い。
二十階のワンフロアすべてが吹き抜けになっていて、ガラス張りの窓の向こうには皇居の森と高層ビル群がどこまでも続いている。
天井は高く、白木とガラスを組み合わせた柔らかい北欧風のデザイン。
昼の光が反射して、空間全体が水面のように明るい。
席数は軽く三百を越えているのに、天井が高いせいか雑音が響かない。どこかホテルのラウンジのような静けさがあった。
窓から見える空は、薄い雲がガーゼのように広がっていて、春を待つ透明な色をしている。
「志穂さん、お待たせしてごめんなさい!」
「いいのよ。たいして待ってないし。今日もお弁当なの?」
「……うん。そうなの」
わたしのお弁当は、鏑木家専属の通いのお手伝いさんが用意してくれたものだ。高タンパクでヘルシーな筋肉女子向けメニューになっている。
……決してそんなつもりはないのに、なぜかどんどん意識高い系に近づくわたしの食生活。
「──痩せたって言うか、引き締まった?」
「ああ、うん。ちょっと鍛えてるんだ」
「そう……」
「志穂さんはすっごく綺麗になってるね!」
彼女は月末に結婚式を控えていて、以前よりもさらに透明感が増したし、肌も髪もつやつやだった。
見つめるだけで眩しいオーラに、なんとなくわたしも、幸せをお裾分けしてもらえている気持ちになる。
「……心配してたんだけど、元気そうで良かったわ。これ、言葉通りに受け取ってね」
「ありがとう。……まだ大丈夫って言えるかわからないけど、大丈夫だよ」
言葉遊びみたいになるけれど、それが本心だった。
そして、結婚式を控えて忙しいのに、失恋した女友達に真摯になってくれる志穂さんのやさしさが、すごく嬉しい。
志穂さんに、結婚式で着るドレスの話や新居の話を聞きながら、わたしは自分の笑顔が、不自然なものになっていないか、意識を集中させていた。
志穂さんが問題なのではなくて、こうして話していると、去年の十二月のことを、どうしても思い出してしまうからだ。
あの前にはもう、違和感はずっとあった。
梶くんがぼんやりとする時間が増えたり、苦しそうな顔をすることが増えた。
なのにわたしは、「どうしたの?」と尋ねる勇気がなかった。
だけどもしもあのとき、もっと真正面から会話をしていたら、今とは違う未来があったんだろうか。
鏑木さんは言った。
彼が語った言葉だけではなく、語らなかった言葉にも意味があると。
沈黙を選ぶのは、きっと、梶くんがやさしい人だからだとわたしは思っている。だけど、それでもわからないことは多い。
モノリスという、いつか連れて行かれた地下にあった物々しいオーラを持つAI。
あのとき、突然話し出したECHOは、それ以来ずっと黙ったままだ。
わたしの背後で何かが起こっている気配はあるのに、それが何かなんて、想像すらつかない。
「──花、大丈夫?」
「え? あ、ごめん! ちょっと考え事してた!」
志穂さんに心配をかけたくないのに、早速やらかした自分が気まずくて、慌ててだし巻き卵を口に運ぶ。
志穂さんはそんなわたしを見て、バッグから小さな包み紙を取り出した。
「今日、誕生日でしょ? これ──プレゼント」
「ええっ? ありがとう! 嬉しい!」
実は今朝、白石さんが「お嬢からです」と言って、大きな花束ももらったのだ。ピンクのガーベラとバラに、淡いブルーと紫に染められた霞草のブーケ。
花束をもらうなんて人生で初めてのことで、朝から泣きそうなほど感動してしまった。
それに続いて、志穂さんからのプレゼントなんて、わたしの人生、あまりに美人に愛されすぎている。
……もしかして前世がチベットの高僧だったのかな。
「開けてもいい?」
「もちろん」
「結婚式で忙しいのに、本当にありがとう」
包み箱を開けると、有名ブランドのハンドクリームが出てきた。
さすが志穂さん、セレクトが大人女子すぎる……!
「大事に使うね!」
「うん。それとね、実は、もう一個あるんだ。花に渡さないといけないプレゼントが……」
少し迷うように目を伏せて、志穂さんはしばらく沈黙した。
それから、決意したように真四角の箱をバッグから取り出し、宝物のように丁寧に両手で持った。
「……これを花に渡していいのか、正直今も、少し迷うの。
わたしはね、花には絶対に幸せになって欲しいから、このプレゼントがあなたの未来を縛るんじゃないかと思うと、どうしたらいいのか、正解がよくわからない……。
でも、杉本と話して、わたしたちがずっと持っているのもやっぱり違うし……なにより、梶さんがあなたを本当に大事にしていた事実を、本人にちゃんと伝えるべきだとも思って……」
志穂さんが静かに目を潤ませながら、その箱をわたしの真正面に置いた。
「…………これ、梶……くん……が……?」
小さな呟きに、志穂さんが目頭の涙を手で押さえながらこくりと頷いた。
「ここで開けなくていい。家に帰って、一人になってから開けて。
絶対にその方がいいと思う。
……杉本が言うには、彼はこれを、あなたの誕生日に贈ろうとしていたそうよ」
胸が締め付けられて、息が止まりそうになる。
もし一人だったら、人目も憚らずに声を上げて泣いただろう。
深く息を吐いて、わたしはなるべく無理のない笑顔を作った。
心のやさしい友人に、少しの心配もさせたくないし、なんの憂いもなく、この大切な時期を過ごして欲しいから。
「……ありがとう、志穂さん。結婚式、楽しみにしてるね」
白石さんがパティスリーに注文したという、甘さ控えめの小さなケーキがついた夕食を食べ終えて、楽しく会話をしながら、一人、自室に下がった。
震える指で、トートバッグから、今日渡された二つの箱を取り出す。
志穂さんからのプレゼントは、もったいないからしばらく飾って眺めようとベッドサイドのテーブルの上に置いた。
もうひとつの箱は、開けるのにひどく、勇気がいる。
気がつけば、肩が揺れて、ぽたぽたと涙の雫が、膝の上に落ちていく。
迷いながらも、白い箱にかかった、薄いブルーのリボンを丁寧に解く。
箱の中には、光を吸い込んだような真珠色をした、布張りのジュエリーケース。
少し力を込めて開けると、中から出てきたのは、頼りないほど繊細なデザインの指輪だった。
控えめなダイヤが、光を受けて雪の結晶のようにやさしく瞬く。
細いラウンドのプラチナは、持ち主を探すように鈍く光る。
すぐにわかった。
……ああ、これは、わたしのためだけの指輪だ。
きっとわたしに一番似合うものをと探して、これだというひとつを選んでくれた、梶くんの思いが全部つまっている。
胸の奥が、痛みなのか温度なのか判別できないほど熱くなる。
項垂れたまま、箱を握りしめてベッドに倒れ込んだ。
「……うぅ………っあぁ……っ」
ご飯が食べられても、夜眠れるようになっても、彼を思って泣かずに済んだ日は、この二ヶ月で一度もなかった。
それなのに、今日が今までで一番、胸が痛くて苦しい。
わたしは、こんなに愛されながら、いったい何を見逃していたんだろう。
彼の何を見て、何を知ったつもりになっていたんだろうか。
『花ちゃん』と柔らかく呼ぶ梶くんの声が、記憶の奥の方にどんどん追いやられていく。
彼が恋しくて、恋しくてたまらない。
先月までは、ひょっとしたら梶くんが急に戻ってくるんじゃないかと、少しだけ心のどこかで思っていた。
でも今は、もしかしたらもう、二度と彼に会うことはできないのかもしれないと、その未来を想像してしまう。
それがあまりにも怖くて、どうしても抗いたいのに、その足掛かりさえわからない。
どうやったら、もう一度彼に会えるんだろう?
梶くんに会いたいって願ったら、脳の報酬系が彼を探してくれるんだろうか?
だけど、二ヶ月前と違って、わたしはなぜ自分の元を彼が離れていかなくてはならなかったのかを、ちゃんと見つめようと思った。
泣いても何も変わらないという鏑木さんの言葉が、頭の奥で重く響いていた。
ひとしきり泣いて呼吸が落ち着いてから、ゆっくりと起き上がって涙を拭いた。
指先でそっと指輪に触れ、無言のまま、しばらく眺める。
けれど箱から出すこともできず、そのまま静かに蓋を閉じた。
……いまのわたしの薬指では、この輝きに追いつけなかった。
◇
三月の下旬の土曜日。
杉本さんと志穂さんの結婚式が、港区の静かな高台にあるホテルで挙げられた。
ホテルのロビーから続く長い回廊には、春の花々が飾られていて、白と淡いピンクのカラーが空気を柔らかく染めている。
大きな窓の外には手入れの行き届いた庭が広がり、陽射しに照らされた新緑が、まるで水面みたいに揺れて見えた。
志穂さんは、光に包まれていた。
真っ白なドレスは細かいビーズが縫い込まれていて、歩くたびに胸元や腰のあたりが、星屑みたいにきらきら光る。
髪は緩やかにまとめられ、耳元のパールが揺れるたび、控えめなのに、どうしようもなく上品で、見つめているだけで幸せになれるような美しさがあった。
新郎の杉本さんは、緊張で少しぎこちない笑顔だったけど、志穂さんを見つめる目だけは、誰が見てもわかるやさしさに満ちていて、ふたりの間に流れる空気は、やさしくて温かい。
これから先の未来まで、まるごと祝福されているように見えた。
わたしの隣には、静かに周囲を警戒している白石さんがいる。
鏑木さんの指示だが、新郎新婦にも事情を伝えて、護衛として一緒に参列してもらった。
もしも一人だったら、、隣に梶くんがいないことを苦しく感じたかもしれないから、素直にありがたかった。
わたしの現在地が、いかにたくさんの人の助けを借りて守られているかを、こういうときに思い知る。
……自分にそれほどの価値があるなんて、とても考えられないのに。
バラ色のチークがとても似合う志穂さんは、杉本さんの隣で、今まで見てきた中で一番輝いていた。
本当なら、梶くんと一緒に見るはずだった姿。
……涙が出るのは悲しいからじゃない。
わたしの大好きな友人が、あまりにも美しくて、胸がいっぱいになったからだ。
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