梶雪斗とあなたの違い

 冗談か何かであってほしかったけれど、あの日以来、地獄のブートキャンプは毎日続いている。

 ウォームアップ、体幹サーキット、ミット打ち、低速シャドーラン……どれも最初の数分でバテて、そのたびにきつい叱責が飛んでくる。


「やる気はあるのか!」

「はっ」

「変わりたいと言うのは口だけか!」

「はっ」


 ……あれ? ここって『いいえ』っていうべき場面だった?

 白石さんの、質問なのか、叱られているのか判別しにくい問いかけに、プランクをしながら、ぷるぷる全身が震えてしまう。


「体幹が弱い! あと三十秒追加!」

「…………っ」


 これは……なんとなく、あれだ。

 子どもの頃に読んだ『三枚のお札』の絵本に出てくる、怖い鬼に追いかけられている、あのイメージ。


 わたしのお札、どこにあるの……?

 お願い! 白石さんを誰か止めて……!


 トレーニング終盤。ボディワークの基礎で、軽い組み手と受け身の練習をとらされるが、毎回面白いようにただ転がされているだけで、下手な社交ダンスよりもみっともないわたしがいる。

 そして、ただ転がされているだけなのに、体力の消耗がやたらと激しい。


 ……この一ヶ月、ご飯は喉を通らなかったし、ほとんど鏑木家から出ず、体重は三キロ以上落ちた。

 心も体も悲鳴を上げながら、ただ時間が過ぎただけ。

 そう思えば、いま、ここまで動けているだけでも自分を褒めても良いのではないだろうか。


「こら! 寝るな! 立ち上がれ!」

「……はっ」


 ……だめだ。白石さんには褒めてもらえない。


「…………っはぁ……はあっ………み、水………飲みたい……」

「甘えるな! ここが戦場ならどうする? 望めば簡単になんでも出てくると思うな!」

「はっ……」


 いやでも……ここ渋谷区のはずだし……あれ? 渋谷区でしたよね……?

 知らない間にわたし、米国防総省ペンタゴンに紛れ込んでいないよね……?

 ぼんやりと自問自答していると、簡単に足を払われる。


「きゃあっ」


 派手に転がり尻餅をついた。

 先ほどから、面白いように白石さんに身体を操られ、どう対応したらいいのかわからない。

 ここまで身体が動かない自分に、情けなさがじわっと込み上げてくる。


「──よし、ここまでだ。五分の休憩に入る」


 叱られ慣れた身体に、突然の「休憩」という言葉は信じられないほど甘く響く。

 白石さんは立ち上がったわたしに、お水のペットボトルをほいっと投げ渡した。

 わたしと同じトレーニングを、わたしよりずっと負荷を掛けて行っているのに、息ひとつ乱れていない姿が、彼女の強さを物語る。


「ゆっくり飲めよ。身体に負担になるからな」

「はっ。……あ、ありがとうございますっ」


 うう。白石さんの飴と鞭の緩急に、つい涙ぐみそうになる。

 そうだ。彼女は別に鬼じゃない。

 きっと、わたしを思ってこんな厳しい態度をとってくれているんだ。


「休憩後は有酸素運動に入る。気を抜くな」

「……はっ」


 いや、やっぱりいますぐお札が要る! ぜったい!


 だが、三週間を過ぎた頃、わたしはなんとなく気がつき始めていた。


 ずっと口にできなかった食事が、美味しく食べられるようになったこと。

 あんなにも毎夜眠れなかったのに、不思議なほどぐっすり眠れること。

 うじうじ悩んでいたことが恥ずかしくなるほど、いまは、自分の弱さを客観的に眺められるようになっていること。


 あんなに心が死にそうだったのに、頭を空っぽにしてトレーニングしているうちに、傷口が少しずつ、塞がり始めている。


 ふと目が合った鏡の中の自分は、一ヶ月前よりも血色が良くなり、クマも消えて、少しだけ……本当に少しだけだけど、瞳の中に光を取り戻していた。



「──さてと。それじゃ、そろそろ仕事も本腰を入れて取り組ませないとね」


 地獄のブートキャンプが始まったのと同じ頃、鏑木さんはそれまでの見守りモードから、突然鬼の上司に切り替わった。


「佐々木さん。この資料、三つの観点で整理してちょうだい。目的・背景・利害関係者の順によろしくね。五分で」

「ご、五分で!?」


 いま頼まれた言葉を咀嚼するのに三分はかかりそうなんですが……。


「せっかく作ってもらったのに悪いけど、先方には長いメールは読まれないわ。

 同じ内容を三行・一行・十五文字で作り直して」

「十五文字!?」


『いつもお世話になっております。』で終わるんですが……?


 総務時代とはまるで異なる状況に、脳が混乱して毎日ついて行くのが精一杯だった。

 そう。彼女はまさしく、ディオールを着た悪魔だ。


 鏑木さんの肩書きは、アペックスホールディングスの技術戦略室室長。

 役員フロアに一室を与えられ、直属の部下は五人。全員が彼女より年上の男性だが、それを不満に思っていそうな人は見当たらない。

 しかし、この空間にわたしが入るのは、あまりに場違いすぎて、最初の頃はほぼ空気と化していた。


 技術戦略室というのは、一言で言えば『会社の未来の方向を決める仕事』。

 さらに言うなら『アペックスの正義を守る仕事』だった。


 役員が動く前に、企業計画の全部の道筋をつくり、トラブルの火消しも、新しい技術計画も、社外交渉も、すべて最初に鏑木さんのところに集まってくる。

 まさにアペックスを支える技術の心臓部を預かっている人だ。


 そんな仕事内容があることさえ知らなかったわたしには、あまりにも未知との遭遇過ぎて、最初は与えられた資料を理解するのにも一苦労だった。


 しかし、仕事とは結局、慣れである。

 どれほどの内容でも、地獄の千本ノック状態で大量に投げられていれば、そのうち嫌でも覚えていく。

 そんなわたしを見て、ある日、鏑木さんはミーティングルームに呼び出した。


 普段はあまり気にしたことがなかったけれど、密室で二人きりになると、鏑木さんが仄かにつけている香水がふわっと届く。

 アイリスの、冬の冷たい朝に似合う透明感のある香りは、あまりにも彼女によく似合っていた。


「かなり仕事に慣れたようね」

「はっ。鏑木さんのおかげで鍛えられておりますっ」

「佐々木さんは案外小回りがきくから、雑用をさばくのがうまくて助かるわ」

「はっ。恐縮です」


 どうしよう。白石さんとのトレーニングに馴染みすぎて、体育会系モードが仕事中にもつい出てしまう。


「……それでね、話があるんだけど……月末に、渡米する予定があるの」

「はっ。……えっ? 出張ってことですか?」

「……ええ。そうよ。だから、その間、あなたは今と同じく、白石と一緒にあの家で暮らしてほしいの。送迎も白石に任せるし」

「あの……わたしって、いつまでこの状態が続くんでしょうか……?」


 泣いてばかりだった頃を脱した今、正常に頭が回り始めれば、さすがに薄々、何かがおかしいと理解はしている。だが、それを質問する隙を鏑木さんがまったく与えてくれないため、つい先延ばしにしてしまった。


「申し訳ないけれど、状況が落ち着くまでは、この状態が続くわ。

 期限を教えてあげられないのは、わたしも心苦しいんだけど……」

「あの……わたしって梶くんと……離れても、まだ誰かに狙われるんですか……?」


 だとしたら、当の本人はいったいどれほど危険な場所にいるのだろう。

 不意に不安が胸に込み上げ、一気に涙腺がゆるくなる。だが、職場でまで涙を流すような真似はしたくない。

 ぐっと目に力を入れて、なんとか堪えた。


「不安よね。あなたが今後も狙われるかどうかは定かではないけれど、状況が変わるまでは、何があるかわからないの。だから、もうしばらくこのまま、我慢してもらえるかしら」

「我慢なんて……十分すぎるくらい良くしてもらって、生活費も払わせてもらってないですし……」


 少し前になんとか、通勤服など必要なものは、白石さんの助けを借りながら、持ち込んだ。だけど、圧倒的にお世話になっている状況は変わっていない。


 鏑木さんは少し視線を下げて、何かを考えるような顔をした。


「ねえ、佐々木さん。わたしとあなた、もしくは、梶雪斗とあなたの違いを一言で説明するとしたら、何だと思う?」

「……えっ……あの……頭の良さ、とか……?」


 数えだしたらきりがないくらい違いがあると思うけれど、ぱっと思いつくのはそれだった。

 だけど鏑木さんは、それを即座に「違うわね」と否定する。


「答えはね、視座の高さよ」

「しざ……?」


 耳慣れない言葉に、オウム返しに繰り返した。


「そう。どの視点でものを見るか、その立ち位置のことね。

 たとえば、ひとつの情報を前にしたとき、おそらくあなたは正面からしか、それを見ない。

 でも、わたしたちのように情報を扱う人間は、視座を自由に上げたり下げたりすることで、あらゆる角度からその情報を調べるのが基本なの」

「なる、ほど……?」


 話の着地点が見えず、頷きながらも、梶くんの顔を思い出していた。

 彼はよく、ぼんやりと遠くの一点を見つめている顔で、何かを考えていることがあった。

 もしかして、あれが情報を分析している時間だったのだろうか。


「真正面から見たらただの事実でも、視座を変えて一段上から見れば傾向に変わる。さらに上に上がれば、関係性が見える。もっと上から見れば、意図さえ読めるようになる。

 それが、視座を変えるということ」


 とても大切な情報を与えられている気がして、理解は出来ないものの、心が落ち着かなくなってきた。


「つまり、視座を変えられる人間は、ひとつの出来事から十の意味を読み取る。だけどそれができなければ、相手の情報だけを鵜呑みにし、簡単に騙されることになりかねない。……ここまでは理解できる?」

「はい、なんとなくですが……」


 自分の視野の狭さを指摘されたのだとわかり、俯いてしまう。

 だけど、鏑木さんはそんな意地悪を言う人ではない。

 初対面の頃はあんなにも怖かったこの人が、実は全然怖い人でも何でもなくて、むしろ、今まで会った人の中でも最上級に親切な人だと、とっくの昔に気がついている。


「あなたは、梶雪斗の一番近くでいろいろな話を聞いてきたはず。それを振り返って、様々な角度で眺めてみるの。

 そうすることで、彼があなたにどんなことを伝えて、どんなことを隠そうとしていたのか、必ず気づけるようになるから」

「……そんなこと、わたしにできますか……?」


 視線を上に向けて尋ねると、鏑木さんはやさしく微笑んで、わたしを見た。


「もちろんよ。これは頭の良さや、生まれ持った能力とは何の関係もないの。

 『どこから見るべきか』を、自分で訓練していくだけ。

 筋肉と同じで、鍛えれば誰だってできることなの」


 その声は力強く、温もりがあった。


「視座を上げてごらんなさい、佐々木さん」


 ……そんなことができるだろうか。

 机の一点を見つめて、じっと考え込むわたしに、鏑木さんが諭すように言った。


「いまのあなたは、目の前の地面しか見えていない子猫と同じよ。

 でも少し高いところに登れば、道はどこまでも続いていると気づける。

 ──その違いだけで、人は自分の未来を選べるようになるの。

 自分を変えるって、そんなに難しいことじゃない。

 言ったでしょう? 自分を変えないと、世界は何も変わらないわ」


 ミーティングルームの窓に、雲間から出た太陽の光が差し込む。


 午後の柔らかい日差しの中で、それまでよりほんの少しだけ、顔を上げた。

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