6th Cord:音はなく、ただ共鳴するだけ
じゃない方の蟻
朝、目を覚ましたとき、窓の外は淡く雪が舞っていた。
二月。まるですべてが沈黙したように、梶くんからは何の連絡もないし、こちらから連絡する手段もすべて断たれていた。
ECHOは、再び沈黙して何も語らない。勇気を出して掛けた電話は、既に使われなくなっていた。
いまさらだけれど、ECHOにログが残らない仕組みに、わたしは絶望していた。思い出を振り返ることすらできない状況が、苦しかった。
梶くんと自分のあいだに残されたのは、この繋がらなくなったアイコンひとつだけ。
梶くんがいま、どこで、なにをしていて──もっと言うなら、生きているのか死んでいるのかすらわからない。
そのことがたまらなく不安で、会えないことがどうしようもなくつらくて、彼を思うたびに泣いて、泣いて、泣いて泣いた。
涙と一緒に、心の全部が溶けてしまえばいい。
彼を思って泣かなくなる日なんて、この先、永遠に来ないと思った。
鏑木さんの下で働き始めても、感情はほとんど動かない。
ただ命じられた仕事を淡々とこなし、何の変化もなく、同じリズムで一日が終わる。
そんな時間を繰り返していたある土曜日の午前五時。
ノックもなく、突然、鏑木さんが部屋にやってきた。
まだ日の出前の真っ暗な部屋に、予告なく灯りをパチンとつけられる。
脳に冷や水を浴びせられたようで、驚きながら目を覚ました。
「さっさと起きなさい」
「……は? ……え?」
「ほら、早くして。いつまで寝てる気なの?」
「え? あの……え? まだ……五時ですよね……?」
夜はいつも、一時を過ぎても眠れない。そんなわたしに五時起きは、正直身体がきつかった。
鏑木さんはこちらをじっと見据えて、感情のない顔で尋ねた。
「梶雪斗に会いたくないの?」
その言葉に、身体が反射で跳ね起きる。
布団から出た瞬間の外気が肌に触れ、刺さるような冷たさが、現実だけをはっきり知らせた。
「会……えるん……ですか?」
「そうね。あなた次第じゃないかしら?」
鏑木さんの力強い断言に、わずかな希望を見いだして胸が騒ぎ出す。
「でも、いまのあなたのままじゃ、とても無理よ」
「な、なんでですか……?」
「あなたがいま、その質問をわたしにする時点で、ふたつわかることがあるわ」
鏑木さんが指を二本立てる。
何を言われているのか理解できず、ただ繰り返した。
「……ふた、つ……?」
「そう。ひとつは、あなたの現状認識の甘さ。
梶雪斗が消えたのは、あなた自身の弱さに責任があるって、一ヶ月経ってもまだわかっていないの?」
思わずびくりと肩を震わせて、顔を上げた。
「残念なことにね、梶雪斗は天才の部類なの。
そして、その天賦の才は、ときに危険を招き入れる。
あの男と対等な立場で隣に立とうと思ったら、あなたには絶対的な覚悟がいるの」
「絶対的な……覚悟……?」
そんなものを、いままで欠片でも持とうとしたことがあっただろうか……?
強制的に水の中で目を開けさせられたような衝撃に、思考の芯がぐらりと揺れた。
「……もうひとつの足りないことって、なんですか……?」
「それは、あなたにはあまりにも、変化する意思がないこと。
泣いて未来が変わるなら、わたしもいくらでも泣くわよ。
でもね──泣いたりわめいたところで、世界なんてひとつも変わらないの。
そもそも、他人の言動をコントロールできる人間なんて、この世に存在しない。だから、あなたがそこで泣こうが苦しもうが、何の意味もなさない」
鏑木さんはゆっくりとベッドサイドに近づき、わたしの正面に立った。
こんな早朝のトレーニングウェア姿でも、彼女はやっぱり隙ひとつない美人だった。
そしてその美しい唇から、啓示のような言葉を放つ。
「いまのあなたにできるのは、自分を変える努力だけ。
もちろん、自分を変えたくないなら、それでいいわ。
ただ、そのままでは二度と梶雪斗には追いつけない。それだけよ」
その正論に、返す言葉がひとつも見つからなかった。
絶望に、身体が小刻みに震える。
鏑木さんはため息をつき、俯くわたしの頬にかかった髪を指で払う。
「あなたはあれだけ梶雪斗に愛されて、泣いて全部終わりにするつもりなの?
それが、あなたにとって彼への愛? だとしたら、ずいぶん安いのね」
喉の奥がひゅっと鳴り、心が軋む音がした。
梶くんへの思いまで否定されるのは、どうしても嫌だった。
「……ち、違い……違います……!」
「なら、訊くわ」
鏑木さんはわたしの顎を掴んで、強制的に顔を上げさせ、視線を合わせた。
「──あなたに、望む未来を自分の手で取り戻す覚悟はある?」
耳の奥になぜか、梶くんの声が聞こえる。
わたしを呼ぶやさしい声。
その声を聞くだけで、この世のすべてに守られているような、安心感を与えられた。
こんなに絶望的な状況でも、わたしの心は彼を求めることしかできない。
もしも未来を望めるのなら、答えはひとつしかなかった。
「……あ、あります……」
あの人に会いたい。
「梶くんにもう一度、会えるなら……」
ただ一目だけでも良いから。
そのためなら、わたしは。
「いくらでも何でも、頑張ります……!」
鏑木さんは満足げに息を吐き、顎から手を離して、わたしの頭を軽く撫でた。
さっきまで凍っていた胸の奥に、少しだけ熱が灯る。
「じゃあ──いまから白石に、せいぜい扱かれてちょうだい」
「……し、しごかれ……?」
何を言われているのか意味がわからず、ぽかんとした顔で問い返すと、彼女はとても美しく笑った。
「そうよ。知らないの? 筋肉は裏切らないって言うじゃない」
「筋、肉……?」
……覚悟を決めるのに、筋肉と何の関係が……?
ぽかんとするわたしの心を置き去りにして、鏑木さんはポケットからスマホを取り出し、電話をかけ始めた。
「白石。今から失恋回復プログラムを始めるわ。参加者は佐々木花。準備は良い?」
スピーカーホンから白石さんの「了解。すでに準備は完了しています」という応答が聞こえる。
鏑木さんはこちらに向き直り、朗らかに言った。
「──鏑木家の地獄のブートキャンプへようこそ。佐々木花さん」
◇
もしかしてアメ横で買ったんですか? と聞きたくなるような小豆色のジャージを渡されて向かった先は、鏑木さんが幼い頃からずっと使っているという、訓練場だった。
雪は積もるほどではなく、雨のように窓の外を流れている。
訓練場へ行くために一度建物の外に出ないといけないらしく、あまりの寒さに身が縮こまる。
それなのに、わたしより薄着に見える鏑木さんは、表情ひとつ変わらず、きびきびとした足取りでまっすぐに目的地へ向かっていった。
「……あの、家の敷地内に訓練場って、セレブには標準装備なんですか?」
「さあ? 他の家を知らないから。うちは母以外の家族は全員、トレーニング馬鹿なのよね」
「鏑木さんもですか……?」
「そうよ。日頃から鍛えておかないと、いざというとき、誰とも戦えないじゃない?」
……いざというとき、人と戦う世界線で生きたことがないので、感覚としてよくわかりません……。
そう答えたくなる口を、ぐっと閉じた。
なんとなく、この人のズレ方、ものすごく梶くんに似ている気がする……。
地上の小さな倉庫みたいな扉をくぐると、突然視界が開けた。
体育館より広い空間。高い天井。壁一面に敷き詰められた吸音材。
それに、天井を走るレールにはトレーニング用のワイヤーの影。
どこか、戦闘シミュレーション映画のセットみたいだった。
「……あの……これ、鏑木家の敷地内で合ってます?」
「そうよ。ここは地下訓練棟。うちの家族はみんなここで育ったの」
「……みんな……? あの……ご家族でオリンピックを目指してる、とか……?」
頭の中に、いつだったかテレビで見た、オリンピックを目指すご家庭の映像が浮かぶ。家の中に大きなトランポリンや体操器具があった、あのイメージに近い。
鏑木さんはこちらの発言を笑うことなく、淡々と答えた。
「オリンピックを目指して作った場所ではないけれど、そうね。長兄はエアライフルのメダリストよ。もうずいぶん前の話だけど」
「さ……さすが、ですね……?」
冗談にガチレスがついてしまい、返す言葉を失ってしまう。
お嬢様はお嬢様なんだろうけど……次元が違うタイプのお嬢様だった。
またしてもわたしの異世界転生が始まる予感に、ぶるりと背筋が震える。
「さて、今日は初日だし、まずは軽いウォームアップからよね」
「──お嬢。花さんの訓練はこちらですべて見ますので、お嬢はいつも通り、ご自身のトレーニングを優先してください」
突然、背後から声がして、驚きながら振り返る。そこには全身を黒で固めたトレーニングウェアに身を包み、まるで鬼軍曹そのものの気迫をまとった白石さんが立っていた。
その物々しい雰囲気に、さっきまでオリンピック養成所だったはずが、一気に警察学校に変化する。
「あらそう? じゃあ、佐々木さんも頑張ってね」
「ええっ? 鏑木さん、行っちゃうんですか……?」
なんとなく、白石さんと二人にはなりたくないと、わたしの本能が全力で警鐘を鳴らしている。
すると、「佐々木ぃっ」といきなり白石さんが大声でわたしの名を呼んだ。
「ひいっ」
「ひいじゃない! さっきから、お前のその態度はなんだ!」
「え、ええっ?」
「まず、ちゃんと起立しろ!」
「き、起立……?」
学生時代以来の起立強要に、あわあわしながら立ち上がった。
「返事!」
「イエス! マム!」
「違う! 返事は必ず『はい』で答えろ! それ以外は一切認めない。わかったか?」
「は、はいっっ」
しまった。極限状態でつい、人生で一度は言ってみたい台詞シリーズが口から出てしまった。
あまりの恐ろしさに、訳もわからず直立不動になってしまう。
……いままでずっと、人生で出会った一番怖い人は中学の部活の先輩で、その次が鏑木さんか、梶くんの叔母さんかと思っていたけど──
いま、ここに圧倒的優勝候補が現れてしまった。
もはやわたしはただの被食者だ。
「これから、佐々木がこの家に滞在している間、毎朝五時からトレーニングを始める。夜は二十二時就寝! 当然遅刻は厳禁だ。わかったな!」
「……まい……にち……?」
「その返事はなんだ!」
「はっ、はいっ」
なぜか、白石さんの雰囲気に呑まれ、手が勝手に警官の敬礼をしてしまう。
一通りストレッチをさせられて、それだけで息が上がった。
「いいか、まずはウォームアップだ。こちらの動きを真似て、しっかり動け! 身体を温めるぞ」
「はっ」
白石さんが足踏みダッシュを始めるので、真似して足を上げるが、その鬼のようなスピードにはとてもついて行けない。
五分を過ぎた頃、わたしの身体が早くも脱落の兆しを見せ始めた。
「やる気はあるのかっ」
「……はっ」
「足が上がってないぞ!」
「……はっ……はあ……はあ……」
「お前の体力はどうなっている? 蟻でももっと働くぞ!」
「…………っ」
……たぶんわたしは、蟻は蟻でも働かないという二割に入る『じゃない方の蟻』なんです……。
そう言いたいけど、声にならない。
え……ほんとにこれが毎日続くの……?
わたし……死なない……?
これ、鏑木家の遠回しな殺人計画じゃないよね……?
一瞬、鏑木さんに視線を移すと、彼女は少し離れた場所で、黙々と筋トレを続けていた。その姿は、まるでアスリート。
筋肉は裏切らないと豪語するだけの姿が、たしかにそこに、存在していた。
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