Side Kaji:透明パケット
海堂との話し合いと、モノリスの調整を終えて会社を出た頃には、二十三時を過ぎていた。
深夜のタクシーに揺られながら、ぼんやりと街の灯りを車窓から見送る。
これから向かう先に花がいる。
なのに、心がまるで弾まない。
それどころか、ゆっくりと地獄の蓋が開き、その中を覗けと命じられたように、身体の震えを止めることができない。
己が今から彼女に告げなくてはならない言葉が、怖くてたまらなかった。
過去に戻りやり直すとして、どの地点に戻ればいいかもわからない。
助けを呼びたくても、誰の名を呼ぶこともできない。
逃げ出したくてたまらないのに、それでもなお、最後に一目、どうしても彼女に会いたかった。
これ以上彼女を巻き込めない。
自分の進む先に、何が待ち受けているのかも読めない。
だから別れを選ぶしかないのだと、そう言い聞かせても、頭の中で『もしもの未来』を往生際悪く考え続ける自分がいる。
"──Something to drink?
Château Pétrus 2000. I was told you’re partial to red wine."
(飲み物は? 赤がお好きだと聞いて、ペトリュスの2000年をご用意しました)
そう聞かれたときに、問いただせば良かったのだ。
なぜそれを知っているのかと。
肌が粟立つような寒気を感じた、あの瞬間に。
それなのに、みすみすその機会を逸してしまったのは、柄にもなく、あの冷徹な瞳に飲まれていたせいなのだろうか。
赤ワインを好きだというのは、正確には誤情報だ。
外で酒を飲むことは滅多にないし、アルコールは自分にとって、脳を少し整えるための装置のひとつ。
必要なときしか飲まないし、好きで飲むわけでもない。
花が誤解しているのは、初対面のときに浮かれて告げた適当な発言のせいで、赤でも白でもどちらでも自分にとっては大差ない。
だが、その言葉をゴールドマンが把握していた。
出所は間違いなく、先月。
花や杉本たちと行った居酒屋での会話を拾われたからに違いない。
そして、こちらの会話を拾うことができた手段は、ひとつしか思い浮かばない──透明パケットだ。
あの日は突発的に決まった飲み会で、事前に店側に盗聴器を仕込むのは不可能だった。
志帆も杉本も身体は潔白。
志帆は、花と仲が良いと聞いた時点で情報を洗い済みだし、杉本は秘書に抜擢した時点で、絢香のお墨付きがある。
スマホ経由の盗聴もあり得ない。
そもそも、電波を使った盗聴は、音の揺らぎ、帯域の偏り、ノイズの尾を必ず残す。
あの居酒屋は雑音だらけで、人の声だけを抽出するのはまず無理だろう。
だから、本来ならあの場所から情報は漏れようがない。
──だが透明パケットは違う。
「聞かない」のに「抜ける」。
「存在しない」のに「記録される」。
通信でも盗聴でもない。
もっと厄介な、観測に近い何かだ。
人が放つ微細な情報の揺らぎだけを、パケットという形を取らずに抜き取る。
ゴールドマンのあの一言がなければ、ここに思い至ることはなかった。
己の読みの甘さが許せず、爪を立てて手のひらをえぐった。
盗聴ではない。
音を聞いた形跡はどこにもない。
それなのに、意味だけが正確に抜かれている。
もし透明パケットが本気を出せば、花の言葉も、花の感情も、ECHOの異変さえも──痕跡ゼロで外部に渡る。
考えただけで、背筋が冷えた。
エリック・ゴールドマンが花に目をつけたのは、現時点ではおそらく、単に自分の恋人だからのはずだ。
だが、もしも彼がECHOと花の特異性に気がついたら?
透明パケットがその情報を抜いたら?
そこに待ち構える未来は、想像するだけで身の毛がよだつ。
自分自身も、これまでの行動のすべても、花を危険に陥れる存在でしかなくなったという事実に、いますぐ車に轢かれてぐちゃぐちゃになりたいほどの衝動を覚える。
花を失えば、その先は右に行っても、左に行っても地獄でしかない。
だけど、その地獄には、絶対に花を近づけたくない。
……別れを、選ばなあかんのやな……。
タクシーがゆっくりと夜の街を走る。
できればこのまま、永遠にそこに着かないでほしい。
彼女の恋人を名乗れるのは、その瞬間までだから。
◇
鏑木家の客間で、花は静かに寝息を立てていた。
起こすのは忍びなく、ただじっとその顔を見た。
違う。そうではないと本当はわかっている。
いまから告げる言葉が、どれほど彼女を苦しめるかと思うと、とても起こしてまで別れを伝える勇気なんて持てない。
胃の奥が締め付けられて、喉元までせり上がってくる感情を必死に飲み下す。
彼女の柔らかい頬に触れながら、この感触を一生記憶に残そうと決める。
頬の内側を噛み、涙を堪えることに集中した。
この一瞬たりとも、彼女の顔を涙で歪めて見えなくならないように。
目を覚ました花に、用意していた言葉を伝えると、予想通り……あるいは予想以上に泣き崩れ、必死になって縋られた。
そのことさえも嬉しいと思う自分は、やはり、心のどこかが欠けているのかもしれない。
それでも、彼女に求められることが、別れの最中でも幸せだった。
もしかしたら、この瞬間の記憶さえあれば、なんとかこの先も生きていけるのではないかと思うほどに。
泣き崩れる彼女の頬にそっと唇を触れると、花がびくりとして目を見開いた。
その顔には、見覚えがある。
はじめて会った日の有楽町の映画館で、あのときもいまと同じように、自分の感情を抑えることができず、衝動的に彼女に触れた。
驚いて花が泣き止むところまで同じだった。
違うのは、これが始まりのキスではなく、別れのキスだと言うことだけ。
彼女の温もりをすべて腕に閉じ込めるために、これ以上できないほど、強く、華奢な身体を抱きしめる。
譫言のようにごめんと何度も呟くが、どう伝えてもきっと彼女には赦されないとわかっている。
自分がもっとちゃんとした人間なら、こんなにつらい別れにはならなかっただろうに、未熟さが情けなかった。
これ以上は限界で、最後は結局、まともに顔も見られずに逃げた。
心を引き裂かれるような花の泣き声が、いつまでも鼓膜を震わせ、頭から離れない。
そして同時に、忘れたくないとも思った。
一歩進むたびに、その震えが遠ざかり、胸の穴だけが広がっていった。
花と二人で過ごしたあの部屋には、とても帰る気になれなかった。
そこまで己は強くない。
それどころか、世界で一番軟弱な人間だとさえ感じる。
赤子でさえ、力強く泣けるだけ自分よりまだ強い。
タクシーの窓に映る感情のない顔を見ながら、つい、唇をなぞる。
いまのが、ほんまに最後なんやなあ……。
そう思いながら指で触れても、もうその温度は唇に残っていない。
抱きしめたときにふわりと香った彼女の甘い匂いも、腕に閉じ込めたはずの体温も、どこにもない。
こんな喪失感を抱えたまま、本当に明日を迎えられる自信がなかった。
だけど、それでも譲れない道がある。
膝の上の震える拳を、指先が白くなるほどにぐっと握りしめた。
感情を殺せ、と自分に命じる。
ここから先の道のりを歩くのに相応しい顔を作り、弱さを誰にも悟らせてはならない。
戦場で勝ち抜くのには、一切の甘さが不要になる。
記憶の中の花の顔を思い出した。
全身で泣き叫んでも尚、彼女はやはりかわいくて愛しい人そのもののかたちをしていた。
……たくさん泣かせて、ごめんなあ。
花ちゃん、ずっと大好きやよ。
俺が絶対に、きみがいるこの世界を守るから。
そのためなら、そやなあ。
「……神さんに、喧嘩売ってもええよ……」
誰にも聞こえないように呟いて、固く瞳を閉じた。
花以外を映す目は、もう要らない。
感傷的思考をシャットダウンして、戦いの場へ向かった。
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