未来を全部差し出した

 夢を見た。

 梶くんと手を繋いで、同じ道を歩く夢。

 視界の先には花畑が拡がっていて、わたしたちは藍色と桜色のマグカップで、ベンチに座って白湯を飲んでいた。

 楽しく話しているのに、ふと横を見ると、もうそこに梶くんはいない。

 湯気の立つマグカップが、持ち主不在のままベンチに残されている。


「……梶くん……?」


 彼は、呼べばいつも答えてくれる人だった。

 わたしの不安を、そうなる前に掬い上げて、いつも笑っていられるように道を整えてくれた。


 夢の中で──夢の中なのに、理解している自分が不思議だった。

 彼はもう、わたしの隣にはいないのだと。

 せめて、自分の見る夢くらいコントロールできたらいいのに。

 そしたらずっとそこに留まって、もう二度と目なんて覚まさないのに。


 泣きながら目を開けると、そこには表情のない鏑木さんがいた。


「…………あれ? わたし……?」

「よかった。目が覚めたのね。起き上がっちゃダメよ。あなた、頭を打ってるから」

「──え? ……い、たっ」


 言われてみれば、ずきんと響く痛みを側頭部に感じる。


「ごめんなさいね、花さん。わたしが軽率だった」

「え? いえっ。そんな、鏑木さんが謝ることなんてひとつも……」

「いいえ。花さんが苦しんでいることがわかっていたんだから、もっとあなたに寄り添うべきだったわ。本当にごめんなさい」


 鏑木さんは深く頭を下げ、きれいな所作で顔を上げた。

 そうやって謝られると、逆にひどく申し訳ない気持ちになる。

 なぜなら、彼女自身は一切の非がなく、あの日からずっと善意でわたしを保護してくれているだけなのだ。

 服も靴も、お金を払うと言っても受け取ってはもらえず、出社もしていなければ家にも帰れず、いまの自分がどれほど彼女にとってのお荷物か、考えるまでもなくわかっている。


 気まずさに沈黙していると、彼女はわたしの顔色を見ながら切り出した。


「……それでね、さっきのことだけど、いくつか確認したいことがあるの。

 あなたが知らないうちに危険を呼び寄せている可能性を、できたら早いうちに排除したいから」

「危険……ですか?」

「ええ。あなたはまったく気がついていないでしょうけど、先ほどあなたが見たモノリス。あれこそが、外資から弊社が狙われる原因そのもの。

 そして、それを作ったのが梶雪斗よ」


 脳内で、いろいろな過去の場面が駆け巡る。

 仕事ができすぎるサポートセンターの職員。

 見たこともないようなすごいアプリを短期間で開発する能力。

 CTOに昇格し、会社からタワマンまで支給されるような人材。

 彼はまったく気取らない人だから、そうとは受け取らせなかったけれど、最初から、普通に規格外の人だったのだ。


 ぼんやりしているわたしに、鏑木さんが声をかける。


「……花さん、ほんの少しだけ教えてほしいの」

「なにをですか?」

「さっき、あなたはスマホに向かって、何か、話しかけていたわよね?

 まずは、それが何か教えてくれない?

 ……いいえ、聞き方を変えるわね。それが何かはわかっているわ。だけど、あなたの口から、改めてちゃんと教えて欲しいの」

「え? ECHOが何か、知っているんですか?」

「──ええ。ECHOについては、梶くんから、以前聞いたことがあるから」

「梶くんに……」


 やっぱりこの人は、梶くんと深く繋がっていたのだろうか……。

 だけど、ECHOはずっと自分と梶くんを繋ぐ象徴のようなものだったから、それを誰かに伝えるのは、ひどく気が進まなかった。


「……あなたの前から、彼が消えた理由を知りたくない?」

「え!?」


 ぎくりとした。

 この人は、もしかしたら本当に、梶くんにまつわるすべてを知っているんだろうか?


「し、知りたいです……」

「わたしの見立てでは、鍵は、そのECHOにあるわ。

 だからね、最初から最後まで、包み隠さずにすべてを教えてちょうだい。

 彼はね、ずっと花さんを守ろうとしていたし、とても大事にしていた。

 それなのに、花さんの前から消えざるを得なかったのならば、必ず明確な理由があるのよ」

「明確な、理由……」


 わたしは、ECHOをはじめて受け取った日から、いままでのことを、ひとつひとつ、思い出した。

 それを、なるべくわかりやすく順番に伝える。

 とはいえ、わたしが知っていることはそれほど多くない。

 梶くんはいろいろ説明してくれた気もするけれど、正直に言えば、難しいことが多くて理解できなかったからだ。


 鏑木さんは、わたしの瞳をまっすぐに見つめながら、ひとつの嘘も赦さないという表情で、真剣に確認している。


「あなたの感情の揺らぎを……学ぶAI……」

「はい、わたしはそう聞いただけで……技術的なことはわからなくて」


 鏑木さんは、黙り込んでしばらく何かを考えていた。

 それから、意を決したように、顔を上げた。


「──おそらく彼はね、あなたを守るために、自分の未来を全部差し出したのね」

「……わたしのために?」


 未来を全部差し出す……?

 言葉の重さに、胸が鋭く引き裂かれたように痛む。


「だ、誰に差し出したんですか……? 会社にですか?」

「いいえ。そうじゃない。……言えることはひとつだけよ」


 絢香さんはゆっくり首を振った。


「梶雪斗がした選択はすべて、あなたを守るためにあった。

 つまりそれは、彼にとって、何よりも価値のあることだったのね」


 その瞬間、胸の奥にしまっていた希望が、小さく「やめて」と叫び、崩れ落ちるのを感じた。

 涙が止められずに、耳の奥に流れていく。


 そんな守りなんて要らないから、ただずっとそばにいてほしかった。

 それじゃなぜ、ダメだったんだろうか。


「……疲れてるところに、長話をしてごめんなさい。少し休んで。頭も、まだ痛むでしょう?

 今後の話をするためには、体調を少しは整えないと。

 欲しいものがあったら、白石に伝えて。すぐ近くに控えているから」


 鏑木さんはそう言って、静かに部屋を出て行った。


 泣き疲れて眠り、ふと目が覚めて、喉がひどく渇いていることに気がついた。

 誰かを呼ぼうにも声が掠れて、うまく発声ができない。

 スマホを見ると、すでに深夜一時を過ぎていた。


 まだ頭は少し痛いが、起き上がっても目眩はない。

 近くに置かれていたカーディガンを羽織り、部屋を出てキッチンを探す。

 いつも、求めるより先にすべて与えられていたから、この家の構造がまったく把握できていなかった。


 そのとき、暗い廊下の向こうに一筋の灯りが見えた。

 ぼそぼそと話し声が聞こえて、近づくと、鏑木さんの声で「梶くん」という名前が聞こえた。


 ……もしかして、梶くんと話してる!?

 そう思ったら、身体が勝手に動き、扉を開けて中に入り込んでいた。


「い、いま……梶くんって……?」


 わたしに気がついた鏑木さんは、少し困った顔をして、「スピーカーにするわね」と、スマホに向かって伝えた。

 心臓が脈打ち始め、「か、梶くん……?」と震える声で尋ねる。


「違うわ、勘違いさせてごめんなさい。

 わたしが話していたのは、梶雪斗の友人よ。アメリカに住んでいるの」

「あ、アメリカ……? は、はろー?」


 混乱するままに、どうしていいかわからず声を掛けると、ディスプレイの向こうから「はははっ」と笑う声が聞こえてきた。


「大丈夫だよ、僕は日本人だから、日本語で」

「あの、す、すみません。……急に割り込んで……」

「君が、梶の彼女? あいつ、本当に彼女なんて作れたんだな」


 笑い混じりの明るい声に、心臓がドキドキした。

 梶くんから友人を紹介されたことは一度もない。

 だけど、声の主は、梶くんの名前をとても親しげに呼んでいる。


「はじめまして。佐々木です……。あの……失礼ですが、あなたは……?」


 わたしの疑問に、鏑木さんが答えた。


「真田圭。梶くんの友人で、モノリス開発を共にした仲間よ」

「真田……さん……?」


 その名前に、記憶が蘇る。

 少し前に、梶くんと話した、映画を好きだという先輩……。

 耳の奥に、彼の声が響く。


『恩人がいたんやけど、いつの間にかおらんようになって……。

 謝りたいけど、会いに行く勇気もないまま、何年も経った。

 嫌われたって知るのが、怖いだけかもわからんけど……』


「──だからね、圭。さっきも伝えた通り、佐々木さんは……」

「あ、あのっ」


 思わず大きな声が出た。


「真田さんは……梶くんのこと、どう、思ってますか?」

「──え?」

「梶くんは……あなたのことを、ずっと気に掛けていたから……」


 すごく苦しそうで、それが悲しくて、彼を苦しみから救いたくて。

 あのとき、わたしは必死になって、彼に伝えたのだ。

 真田さんがアメリカに行ったのは、梶くんのせいじゃないと。


「だ、だから……知りたくて……」

「……そっか……。うーん、そうだなあ……」


 その人は少し考えながら、穏やかな口調で答えた。


「梶は俺にとって、大切な友人で、手のかかる弟だよ。

 それはきっと、会えなくなってもずっと変わらない真実、かな」


──大切な友人。


 それはきっと……梶くんが何よりも聞きたがっていた言葉だ。


「……よ、よかった……」


 梶くんを大切に思う人が、ちゃんといる。

 そのことが、嬉しくて、気がついたらまた、ぼろぼろと泣いていた。


 梶くん。

 梶くん。

 梶くん……。


 彼に伝えたかった。

 いますぐに、真田さんの言葉を教えてあげたかった。


 ……それなのに、なんでここにいないの……?


 そう思った瞬間、息ができなくなって、あまりの苦しさに床にうずくまった。

 空気が喉の途中で固まって、肺まで届かない。

 体が勝手に前へ折れていく。


「佐々木さん!? 圭、ごめんなさい。またかけるわ」


 指先が自分のものじゃないみたいに震える。

 肌の下を氷の粒子が転がっていくみたいに痺れる。


 鏑木さんが駆け寄って「過呼吸!?」と聞いてきたけど、何も答えられず、呻くことしかできなかった。


「白石! いますぐ紙袋を持ってきて!」


 慌てる声を耳の遠くの方で聞いた。

 梶くんに会いたくて会えないことが、苦しくて苦しくて、たまらなかった。

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