閑話:プロビデンスの冬①

 鏑木絢香は、己をこう評している。

 自分は、徹底した成果主義の人間だと。

 成果主義とは、強さではなく、迷いのなさの仮面。

 弱さが露呈する前に、結果で全てを押し流す生き方。


 プライドの塊のように言われることも多いが、絢香にとってはプライドほど邪魔なものはない。


 ……あれは、心の弱さを誤魔化すための耳障りのいい鎧よ。

 自分のプライドなんて、結局のところ、求める結果を得ることに比べたら何の価値もない。

 結果が人を救い、結果が人を殺す。


 だからわたしは、結果以外を信じない。


 昨年、三十歳で、アペックスの技術戦略室室長を任じられた。

 それは、社内政治で椅子が動くような部署ではなく、能力のある者しか辿り着けない場所だ。


 但馬派の一角のように扱われることも多いが、実際には、絢香は後藤田派とも但馬派とも、意図的に距離を置いている。

 派閥とは、理念で繋がりたがる者か、自力で立てない者の拠り所だ。


 だが、絢香の強い信念は、アペックスの創業一族やその信者が抱えるものとは種類が違った。

 また、上層部の信頼がほしいなら、庇護者を求めるよりも、先に結果を見せた方が早いとも思っていた。

 圧倒的な優秀さは、どの派閥よりも強い後ろ盾になるのだから。


 昇進は家柄のおかげだと陰口を叩く者も少なくはない。

 だが、他者が自分をどう言おうが構わなかった。むしろ、好きなだけ叩けばいいと思っている。

 己の名を誰かが口にすることは、相手が自分の存在に価値を見出したということ。無関心の海に沈むより、それは、よほど意味があることに思えた。


 しかし、技術戦略室というのは、厄介ごとの最終決算をする場でもあった。

 日々持ち込まれる大小の問題に、無意識に舌打ちしてしまう。

 背後に白石がいたら、即座に窘められていただろう。


「まったく、どいつもこいつも……」


 特に、梶雪斗の起こす問題は、絢香にとって非常に頭の痛い問題だった。


「……挑発するなって釘を刺したのに、なんで逆に、特大の釘を置いてくるのよ。脳みそにスイカが詰まっていないか、本気で調べたくなるわね」


 ゴールドマンとの会話を傍受しながら、親指の爪を無意識に噛みそうになり、慌てて隠す。

 ネイルサロンに忙しい最中も通うのは、オシャレや見栄えのためではない。子供の頃に叱られたこの癖が、なかなか抜けきらないからだ。


 梶雪斗は、絢香にとってきわめて厄介な存在だった。


 この世で最も価値ある宝石を持ちながら、同じ重さの爆弾を抱えた男。

 もちろん彼はバカではない。

 むしろ、自分の脳がどれほど異常な精度を持つかをよく理解している。

 それでいて、自己肯定感の低さゆえか、己の価値や言動が人間関係にもたらす影響、そして周囲が抱く劣等感をゼロとして扱ってしまう。


 絢香から見れば、それは致命的な欠陥だった。

 梶に「バカにされた」と感じる人間は多いが、理由の大半はただの言いがかりでしかない。

 だが現実として、世界のほとんどは梶雪斗より頭の悪い人間で構成されている。

 それを軽視するということは、人間そのものを軽視しているのと変わらない。


 なぜもっと器用に立ち回らないのか。

 なぜその頭脳をコードを書くことだけに全振りするのか。


 成果主義の絢香には、彼の振る舞いはあまりに非効率すぎて、むしろ頭が悪いとすら映るのだった。


 ……あれだけゴールドマンを挑発したら、アペックスは無傷ではいられないわね。


「ほんっと、あの馬鹿っ!」


 何かを蹴飛ばしたくなる衝動を堪えて、眉間を揉みながら考える。

 この先起こりうる厄介ごとと、その対処法について──。

 しばらく思考に耽っていると、デスクの左側の内線が鳴った。


「はい」

「海堂常務から七番にお電話です」

「了解」


 ……そうよね。そうなるわよね。当たり前じゃない。


 そう愚痴りたい心を抑えて、海堂と電話を繋ぐ。

 彼から発せられた言葉は、ほぼ予測通りだった。

 絢香は淡々と答える。


「──至急、佐々木花を確保します」


 父や兄たちと同じく警察官僚になる道を、自ら閉ざしたというのに、結果としてなぜか、似たような仕事をする羽目になっている。

 引き受けたのは自分だが、納得いかない思いもあった。

 それでも無駄な感情を呑み込み、スマホで白石を呼び出した。

 こうなった以上、もしもの場合に備えるしかないのだから。



 佐々木花を部下に探させながら、絢香は数日前の梶の言葉を思い出していた。

 海堂と梶と三人で行った秘密会議の終わりに、珍しく彼から声を掛けてきたのだ。


 盗聴防止機能と防音が徹底された会議室の壁は厚い。

 外の喧騒がどれほどあっても、この部屋だけは時間が止まったように静かだった。

 その中で、梶はいつになく神妙な顔をしていた。


「鏑木さんに折り入って、ひとつだけ頼みがあるんやけど」

「……聞くわ」

「もしもの話なんやけど──……この先、万が一俺が会社から消えなあかんようになったら、佐々木花の保護を、あんたに頼みたい」


 絢香は日頃から、あらゆるリスクヘッジに頭をフル回転させるタイプだ。

 無数の悪材料を分解し、どう処理するかを無意識の中に置いている。

 だからこそ、瞬時の判断を誤らない。その自負もある。

 しかしそれでも、梶の頼みは意外なものだった。


「……なぜ、わたしに? あなたはわたしを嫌っているのに」

「そこはお互い様やろ。せやけど、花ちゃんを保護できる人間は、アペックスにはどう考えても、あんたしかおらんねん。……わかるやろ?」


 それは、そうだろう。

 むしろ、アペックスに限らず、他人を保護できる力のある人間は世の中にそうはいない。


「なぜわたしが、その仕事を引き受けると思うの?」

「せやなあ。……それは、あんたの意思決定バイアスは、ふたつあると俺が判断するからやね」

「意思決定バイアス?」

「せや。あんたの場合それは、成果至上バイアスと、リスク最小化バイアス。つまり、プロセスより結果が大事で、かつ、被害の最小化を反射的に選べる人間」


 ほんの一瞬、呼吸が止まった。

 だが、そんな反応を悟られるのが癪で、表情ひとつ動かさずにやり過ごした。

 ……これだからこの男は嫌なのだ。

 そんな分析を、平然と目を見て言うなと思う。


 外見、家柄、能力、心理、あらゆる方向から他人を分析し、その精度が異常なほど正確。

 他人に簡単に理解されたような顔をされることを、この世の何よりも厭う絢香にとって、梶雪斗ほど腹が立つ人間はそういない。


「……それが佐々木花の保護と、どう繋がるの?」

「彼女を守ることが、アペックスの利益に繋がるからやな」

「……利益? 佐々木さんにそれほどの価値があるのかしら? ……彼女を馬鹿にしているわけじゃなく、ただの一社員にどれほどの利益があるというの?」

「んー。俺の口から今は言えへんけど、あんたほどの観察力と分析力のある人間なら、遠からずその答えに辿り着くやろ」

「その言葉をわたしが信じる根拠は何?」

「そら、あんさんが鏑木絢香だからとしか言えへんわ」

「……馬鹿にしているのかしら?」

「ちゃうちゃう。その逆や。

 鏑木絢香という人間は、感情には左右されんし、あらゆるリスクを最小化するために、重要な情報を聞き逃せんお人や。

 せやから、佐々木花を保護することが会社の利益に繋がると、他ならぬ俺の口から聞いたあんたは、絶対にそれを無視できひん。……やろ?」


 知らず、拳をぐっと握りしめていた。

 なぜこの男の言葉は、これほど感情を逆なでしてくるのだろうか。

 神に選ばれし者特有の全能感が、努力だけでずっと這い上がってきた自分の人生を馬鹿にされているように感じるからなのか。

 それとも致命的な相性の悪さの為せるわざか。


 けれど、一呼吸置けばそんな気持ちはすっと収まる。

 言いたい言葉をいろいろ呑み込み、絢香は静かに答えた。


「……考えておくわ」

「ありがとお。ほな、よろしゅう頼んます」


 ……思い返すだけで舌打ちをしたくなる男ね。

 しかし何よりも悔しいのは、彼の言葉通りに動くしかないと理解させられていることだ。

 正解はまだ見えない。だが、本能的に、佐々木花の背後には何かがあると、絢香は理解していた。

 梶は虚勢ブラフで相手を煽らない。彼がそう口にするのなら、それだけの根拠が必ずある。


 お互いに、まったく相容れないのに、悔しいほど信頼が置ける。

 だからわたしは梶雪斗が大嫌い──そう思いながら、端末を閉じてバッグに仕舞った。



 程なくして、部下から佐々木花が早退したと報告を受ける。

 捕まえようとした直前に届いたその情報に、絢香は白石を走らせた。

 ……こんなことなら、依頼を受けた日に彼女にビーコンを仕込むべきだった。


 そう思いながら会社を出ると、数メートル先に、当の本人が傘を差しながら、のんびりとした歩調で歩いているのを見つけた。


「いるじゃない!」


 なんて人騒がせな女だろう。

 そう思いながら駆け寄ろうとした瞬間、彼女の後ろを歩く男性の不審な動きに気がついた。


 呼吸が一段、静かになる。

 絢香の中で、分析官としての自分が起動した。


 普通の人間が気づかない異質さを、幼い頃から叩き込まれた訓練が即座に拾い上げる。

 歩幅がまったく違うのに、佐々木花を追い越すことなく、足音を重ねるように歩く男。

 あれは素人じゃない。追うのではなく、「待つ」歩き方をしている。


 絢香の脳が、即座に警鐘を鳴らす。


「白石。──アペックス周囲の動き、そして半径一キロ圏内の車両の出入りに異変は?」


 耳元のインカムで無線で話しかけると、即座に応答がくる。


「今のところありません」

「そう……。わたしの数メートル先に、佐々木花を尾行している男がいるわ。

 おそらく東欧系。髪色はアッシュグレー。百八十近く。茶系のコート。歩き方が訓練されてる。

 わたしは背後から行くから、あなたは反対側に回れる? 位置情報、追えてるわよね?」

「了解。お嬢、お気をつけて」

「誰に言ってるのよ」


 首の後ろにチリチリとした緊張が走る。

 絢香は呼吸をひとつだけ整えて、音を消して男の死角へ回り込んだ。


 花が大通りを抜け、角を曲がった途端、周囲の気配が一気に薄くなる。

 男が手を伸ばし、花の肩に触れようとした一瞬──。

 絢香は正面に回り込み、軸足を払う角度で最小の動作を選び、相手の体勢を確実に崩した。


「……間に合ったわね」


 男の膝が地面に落ちるのを確認して、絢香は小さく息を吐く。

 そのすぐ先で、己の危機をまったく理解していない佐々木花が、暢気な顔でぼんやりこちらを見ている。

 その無自覚さは、むしろ清々しいほどだった。



 絢香が住んでいる松濤の実家は、実質一人暮らしと変わらないものだった。

 兄二人は既に結婚して家を出て行き、母親は一年の三分の二は海外や国内旅行へ出かけ不在。

 父親は帰宅しても一瞬で、ほぼ顔を合わせることがない。

 家にいるのは通いの家政婦と、父から自宅警備を任されている白石だけ。

 彼女は、絢香より少し年上の、優秀な元警察官だ。


 この家で佐々木花を匿うのに何の問題もなく、また、GSCに狙われない明確な理由が、鏑木家にはある。


 日本を好き放題食い荒らしたところで、彼らは所詮、他国の民間企業。

 国家権力と密接な関わりを持つ鏑木家は、外資系証券会社がぜったいに手出しできない聖域だった。


 ……いろいろ御託を述べていたけれど、梶雪斗の狙いは結局、わたしよりも鏑木家にあるのよね。

 この家がどれほど護りに長けているか、彼は正確に把握している。


 腹立たしく思うものの、その後の彼と佐々木花の別れを目の当たりにすれば、文句などとても出てこなかった。

 この状況に陥ったのは、梶にも大いに責任がある。

 だが、そこに嫌みを言うほど、絢香は感情のない人間ではない。


 何より、花の壮絶なまでの嘆き方は、自身に数年前の真田との別れを思い出させ、ひどく胸が痛んだ。


「──俺、アメリカに行こうかと思ってる」


 あれはいつだっただろうか。

 数年前の梅雨の時期。

 真田のお気に入りの静かなカフェで、お茶をしているときだった。

 気まずそうに切り出した彼は、こちらの表情を冷静に観察していた。


「……ブラウン大に戻るの?」


 絢香と真田の出会いは、留学先の大学だった。

 息さえも凍りそうなプロビデンスの冬に、彼とはじめて出会った日のことを、今でも鮮明に覚えている。


「……いや、どこかの企業で働くよ。さすがに、三十過ぎて学生には戻れない」

「そう、よね……」

「……だから、絢香も一緒に行かないか?」

「──え……?」


 真田は決して人を試すようなことを言わない。

 祖父や父のように、尋問のテクニックでこちらの心理を暴く真似はしないし、過去の元彼たちのように、言外の空気を察して欲しいというまどろっこしい態度も取らない。

 そのストレートさが好きだった。


 そしてだからこそ、彼が自分をアメリカに誘うことの意味が、絢香にはよくわかっていた。

 だけど……その手を自分は取ることができない。


「日本の企業じゃダメなの……? 圭ならどこに入ってもやっていけるじゃない」

「……ごめん。それは無理なんだ」

「そうよね……ごめんなさい」


 己が日本でしかできないことを選択するのと同じように、真田には、アメリカでしか学べないことがある。

 だからこの道は交じわらないのだと、絢香にはそれがよくわかっていた。


 梶雪斗を見ると苛立つのは、真田にぶつけ損なった怒りを、理不尽にも彼にぶつけたくなるからだ。

 花が泣いているのを見れば、尚更強く腹が立つ。


 ……技術屋なんて、ほんと、ろくでもないわね。


 そう思いながらも、自分もまた、真田を引きずった過去から逃れられない。

 そして同時に、日本を捨てるという選択肢も、いまは持てない。


 スパイスの強い紅茶を飲みながら、絢香は静かに首を振った。


 ……自分のことはどうでもいい。

 問題は、アペックスの行く末を守ることだ。

 わたしは自分を捨てる覚悟で、この場所にいるのだから。


 プライドではなく、己の信念に殉ずるために。

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