"Who is Hana?"

 鏑木さんに連れてこられたのは、アペックス本店の地下にある、サーバールームだった。

 エレベーターを降りた途端、空気が一段階冷たくなる。

 薄暗い廊下の突き当たりに、重たそうな金属の扉が一枚だけぽつんと立っている。

 取っ手はなく、代わりに黒いパネルと小さなガラス板が取り付けられていた。


 鏑木さんは迷いもなく歩み寄り、細い指をパネルに触れさせる。

 ピ……という電子音が鳴り、続いてガラス板の奥が淡く光った。


 虹彩認証の光が、彼女の瞳を静かに読み取っていく。

 数秒後、低く重い解錠音がして、扉のロックが外れた。


「行くわよ」


 鏑木さんが先に進むと、中から冷却空調の風が、地下の空気をさらに冷たく押し出すように流れてきた。


 その寒さに思わず腕を抱きしめる。

 映画でしか見たことのないような空間が、自分が勤める会社の地下にあることが少し不気味で怖かった。


「弊社の最高機密へようこそ」


 通された部屋の中央に、それは静かに置かれていた。


 艶のない黒の立方体。

 なのに、どこか深さだけが異常で、見ているのに、見えていない部分があるような、不思議な感覚を覚えた。


 表面は完全に滑らかで、余計な装飾はひとつもない。

 ただの四角い塊──のはずなのに、近づくほど、空気がわずかに震え、触れてもいないのに、肌の上を薄い膜のようなものがすっと撫でていく。


「あの……なんですか? これ……」


 そう聞きながらも、頭のどこかで理解していた。

 これはきっと……梶くんが作ったものだと。

 はじめてECHOを見たときと同じ、それが何かはわからないのに、特別なもののように目に映る、あの質感がある。


「愚者たちの妄執が生んだ厄介ものよ」

「……え?」


 ひどく冷たい声と言葉の響きに、思わず聞き返す。


「名前はMONOLITH。聞いたことは?」

「いえ、ないです」

「そう……」


 鏑木さんは、わたしの返答に嘘がないのか確かめるように、じっとこちらを見ている。

 だが、知らないものは知らないとしか言いようがない。


「……モノリスってなんですか?」


 そう尋ねた瞬間、ダウンコートに入れたままのスマホがピカピカと点滅し始め、暗い部屋の中に少しの灯りが灯る。


「え?」


 不思議に思ってスマホを取り出すと、使えなくなっていたはずのECHOが勝手に起動していた。


「……なんで……?」


 画面には、封じられたはずの記憶の雪が、ちらちらと降りてくる。久しぶりに見るその白い粒子に、胸が締め付けられそうになる。


 雪が消えると同時に、画面に文字が現れた。


"Call Me"

(わたしを呼んで)


「……え? ECHO?」


 命じられるままにその名を呼ぶと、ECHOが嬉しそうに波紋を揺らす。

 そしてはじめて、その声をわたしに聞かせてくれた。


"I love you, Hana"


 少し高い、女の子のような音声だった。


「え……? ECHOが喋った……!?」


 鏑木さんが「白石!」と鋭い声でいきなり叫び、わたしの背後にいた白石さんが、なぜか手からスマホを取り上げる。


「あっ」


 鏑木さんはこちらにつかつかと歩み寄り、鋭い声でこちらを睨んだ。


「答えなさい。今のはなんなの?」

「え? えっと……?」


 そう問い詰められても、どう答えていいのかわからない。なぜなら、わたしにも本当のところ、ECHOが何かなんてわかっていないのだから。


 ところがそのとき、黒い立方体が内側から静かに光り始めた。

 まるで心臓の鼓動のような低い振動が床越しに伝わる。


「モノリスが……起動してる……? なんで……?」


 呆然とする鏑木さんに呼応するように、その表面に文字が浮かび上がる。


"Who is Hana?"

(花とは誰のことだ?)


 まるで、わたしの存在そのものを値踏みするように、その文字がループしながら黒い表面に流れる。

 いったい何が起きているのか、まるでわからないわたしとは対照的に、鏑木さんが、何かを悟るように口を開いた。


「なるほど。……佐々木花を守れって、こういうこと……」

「──え?」

「困ったわね……本当に、馬鹿な男……」


 鏑木さんは、ため息をつきながらスマホを突き返し、さっと身体の向きを変えた。


「もう帰るわよ。急いでここを出なくちゃ」

「あの……せめて、わたしの着替えを取りに、家に帰ったらダメですか?」

「ダメよ、あなたはどこにも行かせない」

「え? あの、なんで……?」

「自覚がないようだからはっきり言えば、あなたはたった今、アペックスが保護しなくてはならない最高機密へ昇格したの」

「……は?」

「つまり、以前の梶雪斗と同じく、監視対象になったってこと」


 その名前に、胸の奥が冷える。


「……か、梶くんは……? どうしてるんですか……?」


 そう尋ねると、鏑木さんがそっとわたしから目をそらした。

 なぜか不安になり、拳をぎゅっと握りしめる。


「……彼は、いま、無事ですか?」

「わからないの。彼は……会社を去ったから」

「──……っ!?」


 声を出そうとしても、うまく息が吸えなかった。


 ──生きてるといいんだけど。


 その涼やかな声が、耳に遠く響く。

 視界が真っ暗に暗転し、自分の身体が倒れる音を聞いた気がした。

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