もうどこにもいないのに
はっと目を覚ますと、部屋の中は真っ暗だった。
ここがどこで、自分が何をしているのか思い出そうとした瞬間、数時間前の梶くんの言葉が蘇り、涙腺が崩壊する。
誰かお願い。ぜんぶ夢だって言って。
あんなのは嘘だって、梶くんはどこにも行かないって。
お願いだからそう言って。
誰に向けて祈っているのか、自分でもわからないのに、ひたすらに強く願うことをやめられない。
それが、どれだけ意味のないことかは理解していても、必死に誰かに縋りつかないと、頭がおかしくなりそうだった。
梶くんは、嘘をつかない。
わたしを大好きだと言いながら、それでも去らなくてはならない何かがきっとあって、だけど、わたしはひとつも納得できていないまま──ただ心を殺される。
「……っ、ん、ぐ……ぅ……」
両手で口元を押さえても、声にならない嗚咽が漏れる。
昨日のこの時間までは確かにあった光が、すべて闇に呑み込まれて、自分がいったいこの先にどうやって生きていけばいいのかさえ、もうわからなくなっていた。
スマホに示された時刻は、午前三時を過ぎていた。
外の空気を吸いたくて周囲を見回し、この部屋にベランダがあることに気がつく。
立ち上がった瞬間、足の裏から血の気が引いていくのがわかった。
ふらつく身体のまま、窓を開け、夜風に吹かれた。
コンクリートの床に、裸足のまま降り立つと、足下が頼りないほど冷えて、確かにこれは現実に起きていることなのだと理解する。
夢じゃない。
そうであって欲しかったけど、本当に梶くんは、どこかに行ってしまった。
灰色の雲がかかった一月の夜空は、星も月も見えない。
まだ梶くんの顔も知らなくて、それなのにただ焦がれていた過去に、こうやってよく、ベランダから西の空を見た。
この遠い空の下のどこかで、確かに彼が生活をしていて、いま、この瞬間も、仕事をしたり、ご飯を食べたり、何かを考えたりしているんだろう。
そんな空想をすることが、なぜかとても楽しかった。
彼のことを考えている時間は、彼と繋がっている時間だと思えた。
一度も会ったことがなくても、わたしは確かに恋をしていて、その想いが日々の自分を元気づけてくれた。
あの頃のわたしが、いまのわたしを見たらなんて言うんだろう。
梶さんと付き合えたの!? って、バカみたいに喜んだりするんだろうか。
そのあとに起きたすべての出来事が、どれだけの奇跡か理解できるのは、きっと、ベランダで空を眺めていた、あの頃のわたしだけだ。
そこが限界だった。
膝からゆっくりと崩れ落ち、両手をコンクリートについてうずくまる。
呼吸が浅くて、肺の奥まで空気が届かない。
全身から涙があふれ出て、このまま消えてなくなりたいと思った。
彼がいない世界を生きることに、果たして、何か意味があるのだろうか。
冷たい風に吹かれながら、答えのない問いを、空に投げた。
受け止めて返してくれる人は、もうどこにもいないのに。
◇
あの日から、時間の感覚が消えた。
寝ても寝ても眠いのに、体は重くて起き上がれない。
お腹は空かないし、何をしても溢れる涙が止められない。
誰も何も言わないのをいいことに、初めて無断で会社を休んだ。
自分がそんなことをできる人間だと、はじめて知った。
そうやって、気づけば一週間か十日ほど過ぎていた。
一体今日が何日で、何曜日なのかもわからなくなり始めた頃、夜九時過ぎ、鏑木さんがわたしが間借りしている部屋を訪れた。
白いタートルネックにグレーのペンシルスカートというシンプルな服装なのに、纏う空気だけは鋭い。
彼女はわたしを一瞥し、眉を潜めるように言った。
「……さすがに、痩せたわね。食べてないのかしら?」
「すみません……あまり、食欲がなくて……」
「困ったわね。これから出かけるのに、起き上がれそう?」
「……出かける? どこにですか?」
「ああ、そうだ。それより先に伝えることがあるの。あなたに新しい辞令が出たわ」
「じれい……?」
言葉にしてから、それが辞令だと思いつき、余計に意味がわからない。
無断欠勤を理由に首になったと言われる方が、まだわかる。
「わたし……首にならないんですか?」
「ええ。いまのところはね」
「いまのところ……。あの、わたしは総務ではなくなるんですか?」
「そうよ。正確には、あなたは先週からすでに、本店の技術戦略室付・特別業務担当に異動になっているの。
つまり、わたしの配下に置くわ」
「……は?」
聞いたこともない部署の、聞いたこともない担当に異動するだけでも恐ろしいのに、鏑木さんの配下だなんて、とても無理だ。
「あの……無理です、わたし……総務しか経験ないし、技術職でもないし、特別業務なんてとても無理です」
「残念だけど、あなたに拒否権はないのよ。これは、あなたを守るための最善措置なの」
その言葉に、怖さより先に、腹が立った。
「守るってなんですか!? わたしはそんな、誰かに守ってもらわないといけないVIPでもなんでもない、ただの平社員です。
いつまでこの家にいないといけないの? お世話になっておいて言うことじゃないけど、いい加減、自分の家に帰りたいです」
身体に力が入らず、いまいち迫力には欠けるが、鏑木さんという恐ろしい存在に対して、やっと言いたいことを言えて胸がすっとした。
ところが、冷ややかな視線を投げられて、発作的に身体が震える。
「帰るって、どこに……?」
「え……?」
「戸越銀座の賃貸のマンション?」
「……そっ……れ、は……」
家の場所まで知られていることに、恐怖を覚えて言い淀む。
「それとも、梶雪斗と暮らしたスカイタワー?」
「──……っ」
頭の中に、あのモデルルームのようなリビングが浮かぶ。
一緒に並んで立っても十分な広さのあるキッチンに、空に浮かんでいるみたいな分厚いマットレスのベッド。
くっついて映画を見た黒皮のソファ。
でもそこはもう、わたしが帰っていい場所じゃない。
「……えれるわけ……ないじゃないですか……」
視界がぼやけて、鏑木さんの顔がゆがんで見えた。
瞬時に泣き崩れ、そんな自分が情けなくても、隠す余裕もない。
「──そうね。ちょっと意地悪を言っただけなの。ごめんなさい」
素直に謝られると、立つ瀬がない。
傍から見ても、彼女はあまりに大人で、わたしは恥ずかしいほど子供のように感じた。
「わたしが言いたかったのはね、そのどちらの場所も、既に外資の監視下に置かれているだろうから、あなたは帰れないってことなの」
「……外資?」
外資というのは、外資系企業という意味だろうか。
意味はわからないのに、背筋の奥がぞわっとした。
「先日、あなたを尾行していた男はね、こう言っていたわ。
梶雪斗の恋人を連れてこいと依頼された、と」
……そういえば、そんなことがあった。
あの日はあまりに多くのことが起きすぎて、自分をつけ回そうとする人がこの世にいたという事実が、記憶の彼方に飛んでいた。
というよりも、いま、耳で聞いてもまったくピンとこない。
「あの……わたしを尾行して、どうするんですか……?」
「いい質問ね。その話をするために、今からあなたをある場所へ連れて行くつもりなの。
五分で暖かい服に着替えて、玄関を出てちょうだい。……それと、これを飲んで。あなた、顔色が真っ白よ」
鏑木さんは手に持っていたバッグからゼリー飲料を取り出し、わたしの手に持たせた。
ぼんやりしたまま、その蓋をはずそうとするが、思いのほか手に力が入らず、開けることができない。
彼女は小さくため息をつくと、さっと奪い取り、蓋を開けた状態で再度わたしの手に置いた。
「身体がつらいときに申し訳ないけど、なるべく急いで。
歩けなかったら車椅子を用意するから、遠慮はしなくていいわ」
ゼリーを飲みながら部屋を出て行く鏑木さんを見送り、ぼんやりと思った。
あんなにも美しく、堂々とした人なら、恋人と別れても泣いたりしないのだろうか。
それとも、彼女でも、涙に暮れる夜があったりするのだろうか。
目尻の涙を拭い、ゆっくりとベッドから降りた。
どこに連れて行かれるのかは、わからない。
だけど、そこにはきっと、わたしが知らない世界があるのだろうという予感だけがある。
クローゼットにあった、白いセーターにジーンズ、ファーがついたダウンコートは、びっくりするほどすべてわたしのサイズだった。
いったいいつの間に用意してくれたのかもわからない。
足下は、チョコレート色のムートンのブーツ。
ここに来たときに巻いていた、梶くんとおそろいのマフラーが目に入ったけれど、見ないふりをして、そっとクローゼットを閉めた。
玄関を出ると、街灯の光が黒い車体に鈍く反射していた。
レクサスのドアを、傍に立っていた警備の女性が開けてくれる。
彼女は白石さんという名前で、わたしが寝込んでいた間も、ご飯やタオルを運んでくれたり、スマホの充電器を貸してくれたり、無口だけど親切な人だった。
車内には既に鏑木さんがいて、暖房がちょうどいい温度に調節されていた。
彼女はわたしに気がつくと、「はい、これ」とバインダーに挟まれた書類を手渡した。
「……なんですか、これ?」
「機密保持契約書よ。いまから行く場所で、あなたが見たもの、聞いたこと、知ったこと、すべて他言無用なの。言いたいこと、わかるかしら?」
ごくり、と喉が鳴った。
インサイトプロジェクトのときも、機密に触れる大変さを少し見た気がしたが、目の前の書類は、もっと重い何かを含んでいるように見える。
「……サインしないと、どうなりますか?」
「そうね。最悪の場合、消されるかも」
「けっ……?」
慌てて書類にサインをしようと手を伸ばすと、なぜか、彼女はバインダーを持つ手に力を込めた。
「冗談よ。そんなわけないでしょ。単に、あなたをここで降ろすだけ。
──どっちがいい? せっかくだから、選ばせてあげるわ、あなたに」
「……何をですか?」
「このまま、何ひとつ知らずに梶雪斗を忘れるか。
それとも、秘密を知って彼の重みを理解するか。……どちらがいい?」
鼓動がどくんと音を立て、俄かに胸が騒ぎ出す。
鏑木さんの美しい唇が、まるで悪魔のように囁く。
「ちなみに──……わたしのおすすめは、前者よ。秘密なんて本当はね、何ひとつ知らない方がいいの。その方が、苦しまずに生きていける」
何を知らされるのか、わからない。
そして、なぜか足が震えそうになるほど、怖くもある。
だけど、答えは最初から決まっていた。
「契約書、書きます。……お願いだから、連れて行ってください」
梶くんに繋がる手がかりならば、それがたとえ今にも切れそうな蜘蛛の糸であっても──わたしは掴みたかった。
あのやさしい笑顔が、記憶から消えない限り、何度でもきっと、掴みにいく。
愛情を示すためではなく、ただ、そうしたいから。
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