さよならの分岐点

 用意された室内は、まるでホテルのシングルルームのように無機的な空間だった。

 アイロンを掛けたように清潔な白いリネン、深いグレーのカーテン。

 壁に掛かった、どこかの外国の風景画。

 庶民の生活音が一切存在しない世界に、一人だけ迷い込んだようだった。

 わたしが不思議の国のアリスなら、この状況さえも楽しめたのだろうか。


 ベッドに浅く腰かけ、働きの鈍い頭で、それでも考える。


 ……何かが起こってる。それは間違いない。

 そしてそれは間違いなく──梶くんが関わっている。ぜったいに。


「梶くん、何かあったのかな……」


 不安に胸がざわつき始め、慌ててスマホを鞄から取り出した。

 ECHOにメッセージを送ろうとして、はじめて気づく。


「え? 送れない? なんで……?」


 アプリ画面から文字の入力欄も、通話ボタンも、すべて消えている。

 指で触れると、ただ波紋だけが静かに拡がる。


「……どういう、こと?」


 梶くんのスマホにも電話を掛けるが、電源が入っていないとアナウンスが流れるだけだった。

 慌ててコートとバッグを掴み、部屋を出た。


 玄関まで走って行くと、目の前に、先ほど鏑木さんと一緒に居た女性が立ちはだかる。


「失礼ですが、トイレをお探しならお部屋についていますよ」

「ち、違います……! あの、ごめんなさい。どうしても帰らなくちゃいけなくて……!」

「それはいけません。あなたは、この家を出る許可を得ていませんから」

「どうして!? あの、わたし、ただの一般人なんです。庶民なんです。こんな豪華な家に本来お邪魔する立場じゃないんです!」

「いいえ。それは違います。お嬢はわたしにこう命じた。

 ここから先は、なにがあっても佐々木花を守れ、と」

「──……え?」


 なぜ、そんなことを鏑木さんに言われるのかわからない。

 ただ、めちゃくちゃ良くないことが起こっているのはわかる。


「いや。帰して! 梶くんに会いたいの! お願いだから帰してよ!」


 叫びながら女性の傍を通り抜けようとすると、簡単に腕を取られ、身体ごと持ち上げられた。


「なんで? 降ろして! わたしは家に帰るの!」

「──それは、まだ無理よ」


 玄関の左側に位置する白いらせん階段から、涼やかな声が降りてくる。

 鏑木さんは怒るのでも呆れるのでもなく、まっすぐにわたしを見ていた。


「心配なのはわかるけど、梶雪斗はそのうちここに現れるわ」

「……どうしてわかるんですか?」

「彼の周囲にいる人からそう聞いたから。あなたにも、ごめんと伝言を残していたそうよ」

「……梶くんは、無事なんですか?」

「ええ。……そうね」


 わたしのテンションが落ちたのがわかったのか、警護の女性がわたしをそっと床に降ろしてくれた。


「あの、騒いで……ごめんなさい」

「事情がわからなければ、文句を言いたくなるわよね。でも、もう少し状況を整理してから話がしたいの。

 それに、あなた、顔が真っ赤よ。いいから今は、ゆっくり休みなさい。軽食とお水も運ばせるわ」


 思わず、鏑木さんの顔を目をそらさずに見た。

 初対面の印象で、ずっと冷たい人だと思っていたけれど、思いのほか、彼女の言葉はやさしくこちらに届く。


「……何が起きてるんですか?」

「それは、梶くんに聞いて。きっと、夜には来るだろうから」

「わかりました。……部屋に帰ります」


 けれど、ベッドに入っても不安で眠ることはできず、何度もECHOを開いては、変化がないかを確認する。


「ECHO……梶くんは無事なの……? 教えてよ……」


 目尻から耳に涙が流れて、不安な心を身体ごとぎゅっと抱きしめる。

 そうしているうちに、いつの間にか意識が途切れ──次に目を開けたとき、目の前に梶くんの顔があった。


「……夢?」

「ちゃうよ……。花ちゃん、熱あるやろ? 大丈夫?」

「ほ、本物……?」


 思わず、彼の頬に触れると、ちゃんとそこに温もりがあってほっとした。


「よかった!」


 叫びながら抱きついていた。


「あのね、すごく怖かったの。だって、梶くんに何かあったんじゃないかって、ずっとわからなくて、いきなりここに連れてこられて……でも、ほんとによかった……」


 ぽろぽろ泣くわたしを、梶くんがゆっくりと引き離す。

 その顔は苦痛に歪んだ、見たこともないほど、つらそうなものだった。


「か……じ……くん……?」

「花ちゃん、ごめん。ほんまにごめん」

「……なにが?」

「もう無理や……。別れよう。いや……別れなあかんねん」


 一瞬、耳が何か間違えた単語を拾った気がした。


「──え? ごめん。いま、なんて言ったの……?」


 梶くんはわたしから目をそらし、横を向いた。


「俺と一緒に居たら、花ちゃんが不幸になる。これ以上はもうあかん。

 俺は疫病神みたいなもんや。俺と一緒におると、みんな、あかんようになる」

「か、梶……くん……?」

「母親もそうやった。……真田さんもどっかいった。

 この先、花ちゃんまで失うのは耐えられへんねん。

 せやさかい、花ちゃんは俺と別れて、安全な場所に避難して欲しい」


 早口でそう言いながら、梶くんが椅子から立ち上がった。

 現実なのか悪夢なのか理解できないまま、その腕を引き留めた。


「い……やだよ? なんでそんなこと言うの……?

 意味がわからない。だって、ずっと一緒に居るって……わたしがいやだって言っても、離れないって、前に……言った……言ったよね!? ねえ!」


 話しているうちに、どんどん声が大きくなって、最後は叫びのようだった。


「ごめん。約束を守れんくて、ほんまにごめん。全部俺のせいや。

 花ちゃんには悪いところなんて一個もあらへん。せやさかい、俺を恨んで、憎んで、忘れてくれ」

「いやだよ。いや。ぜったいにいや。別れるなんてあり得ない! あり得ないから! だって……」


 ……だって、こんなに好きなのに……?


 喉の奥からせり上がってくる息が苦しい。

 吸おうとするたびに、横隔膜が痙攣して、声だけが出てこない。


「うっ………はっ……はあ……」

「ごめん……花ちゃん。ほんまにごめん……」


 必死に引き留めようとするわたしを、梶くんが抱え込むように抱きしめる。


「堪忍な、花ちゃん。ほんまに…………」

「いやだよ。いや…………ぜったいに、別れない……」


 泣いて縋って、それでも「もう無理や」としか言ってくれない梶くんを、どうやったら説得できるか考えるのに、言葉がどんどん詰まっていく。

 息が吸えない。空気が薄い。熱のせいじゃない。

 ──置いていかれる恐怖が、体温よりも早く全身を占領する。


 ボロボロとこぼれる涙を、梶くんが指ですくって、頬にキスをした。


「いまの……なに……?」

「……いまのは…………お別れのキスや」


 はじめて会った日に、映画館で同じようにキスされた、あの瞬間のことが蘇った。

 胸が締め付けられすぎて、いまにも死んでしまいそうだった。


「嘘だ……嫌だよ。お願い、置いていかないで………」


 今度は唇に触れられて、でもそれも一瞬で離れてしまう。


「花ちゃん、俺は、花ちゃんには、世界で一番しあわせになってほしい」


 梶くんの目は澄んでいて、それが心からの声だとわかる。

 みっともなく縋りつきながら、わたしは叫ぶ。


「だったら……だったら、どこにもいかないで……! ずっと一緒にいてよ!」

「せやから──……もう、俺のことは忘れて欲しい」


 彼はわたしの腕を振り解くと、そのまま去って行った。

 一度もこちらを振り返ることなく、風のような速さで。


 追いかけたいのに、身体が重くてまったく動かない。

 音にならない叫び声が全身から上がる。


「いやああああああああああっ」


 それは突然やってきた、さよならの分岐点だった。

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