5th Code:さよならの分岐点

そう信じて疑わなかった

※5th Cordは喪失と再生の入口を描く、少し重たい章です。ご注意ください。


 その日はなんとなく心がふわふわしていた。

 会社の窓から、一月の空に浮かぶ雨上がりの虹を見て、心が和んだ。

 定例ミーティングでは課長から、いつもの仕事ぶりを褒められて、お昼休みの社食では、いつも食べられない人気の日替わり定食の最後のひとつを食べられた。


 今日は良い日になるのだと、そう信じて疑わなかった。

 そのときまでは。


 午後からはインサイトプロジェクトの集まりで、本店に呼ばれていた。

 品川から大手町まで向かう電車の途中、ぼんやりとした頭で考える。


 ……鏑木さんと顔を合わせるの、正直気まずい。

 梶くんは誰にも話していないと言うけれど、なんとなく、直感で、彼女はわたしが彼と暮らし始めたことを、もう掴んでいるような気がする。


 そういう、すべてを把握しているような不気味さが、彼女にはある。

 そしてそれが、わたしにはすごく怖い。


 でももしかしたら、これが梶くんと付き合うことの本質なのかもしれない。

 彼の世界に関わるのなら、甘いところだけを吸って生きていくのは、きっと無理なんだ。

 なぜなら、彼の世界が甘いものではないと、漂ってくる気配でそう思うから。


 電車が揺れるたびに、身体がふらふらと揺れる。

 ……いけない。しっかりしなくては。

 隙を見せたら、きっと容赦なく噛みつかれる。

 わたしの中で、鏑木さんはすっかり蛇系の魔物に進化していた。


 だが、本社に着く頃には、今日の自分が、ちょっとおかしいほどふらついていることに気がついた。

 あれ? なんか、熱っぽい?


 化粧室で鏡を確認すると、頬が真っ赤になっている。慌ててマスクを取り出してはめた。

 ……インフルエンザじゃないよね?


 こんな機密度の高いプロジェクトで、勝手に欠席なんてできるはずがない。

 けれど、もしも感染性の高い病気なら、その場に長時間居ることは赦されない。

 休んだ方が良いのは間違いないけれど、プロジェクトメンバーとの連絡先の交換はまだしていない。

 いったい誰に連絡すれば良いのかわからず、とりあえずわたしはエレベーターに乗り、集合場所の会議室を目指した。


 打ち合わせ開始の二十分前、重い扉を開けると、まだほとんど人は居なかった。

 杉本さんが居ることを願っていたが、残念ながら、知っている顔は元彼の亮平だけだ。

 まだ、鏑木さんも姿が見えない。

 ……わかるよ。ラスボスキャラは最後に出るのがお約束だもんね。


 亮平の座っている席に近づくと、気配を察したのか、彼が気がついたように顔を上げた。


「……お前、なんか顔が赤くないか?」

「そうなの。……たぶん、熱があるみたいで。申し訳ないんだけど、早退するってプロマネに伝えてもらっていい?」

「ああ。一人で帰れるのか?」

「大丈夫。……ありがとう」

「あんまり無理するなよ」


 記憶にある限り、別れて以来、今日が一番やさしい亮平だった。

 なぜかわからないけど、それが思わずほろりとくるくらい、わたしには嬉しいことだった。


 たとえ少しの時間でも、自分が好きだった人を嫌なやつと思って生きていくのは、心が苦しい。

 そこから解放されたのは、素直に良いことだと思う。

 付き合い始めた頃の彼は、本当にやさしい人だったのだ。


 エントランスを抜けて外に出ると、外は霧雨が降っていた。

 頬を撫でる風がひんやりして気持ちが良い。


 リンクス総務部にも電話を掛け、体調不良で早退すると伝える。


 病院に行くにしても、保険証やお薬手帳が要るし、熱が何度あるかも確認したい。

 一時帰宅を決めて、タクシー乗り場に向かおうと、折り畳み傘を差す。


 傘を撫でるパラパラという雨音のリズムがやさしくて、ふと、今日はこのまま歩いて帰ろうかと思いつく。


 梶くんに頼まれた日から、ずっと指示通りタクシーを使っていたけれど、マンションまでは徒歩たった数分の距離。

 夜ならともかく、昼なら何も問題ないだろう。

 そもそも、特に何の脅威もないのにタクシーに乗る必要性が、よくわからないのも本音だった。


 雨音と一緒に、こつこつと歩道を打つヒールの音を聞きながら、ぼおっとした頭で、ゆっくり歩く。

 やっぱりちょっと、熱が高いのかもしれない。

 身体の動きが鈍く、頭もぼんやりとする。


 ──そのとき、背後で何かがどさっと倒れる音がした。


 不審に思い、振り返った瞬間、視界がワンテンポ遅れて像を結ぶ。

 そこには、なぜか鏑木さんが立っていた。


 状況が飲み込めないまま彼女を上から下まで見つめると、足下には、大柄な男性が寝転がっている。

 いったい何が起きているのか、脳内が疑問符だらけになったまま、口を開いた。


「え……? あの、だ、大丈夫ですか!? きゅ、救急車!?」

「要らないわ。呼ぶなら警察だから」


 そう言って、彼女はその男性に英語で話しかけた。


"Tell me who sent you.

Or I’ll hand you over to the police myself."

(雇い主はだれ? それとも警察に突き出されたい?)


 そのとき、突如、背後から女性の声がした。


「お嬢。周辺はクリア。……この男はこちらで預かっていいですか?」

「……そうね。たいした情報は持っていないだろうけど、知ってることは全部教えてもらわないと」


 背が高く、引き締まった身体の女性が、鏑木さんと何かを話している。

 だが、それが、まるで映画のような遠い世界のことみたいに聞こえ、耳に入ってこない。


 理解が追いつかないわたしに、鏑木さんは「さ、行きましょうか」と当たり前のように声を掛けた。


「え? あの、どこへですか……?」

「わたしの家よ」

「は? いや、あの、わたし、今日は熱があって仕事はちょっと……」


 言い淀むわたしに、彼女は唐突に言葉を投げた。


「約九万人よ」

「へ? なにが……ですか?」

「日本の一年間の行方不明者の数」

「……は?」

「警察が万能だとでも思ってる?

 事件性がないとね、警察は一歩も動くことができないの。

 つまり、今ここで、あなたが誰かにさらわれても、警察は捜査なんてしてくれない。

 あなたはただの行方不明者になるの。九万とんで一人目のね」


 ぽかんとしたまま、後ろ手に縛られている先ほどの外国人らしき男性を見る。

 心臓が俄に騒ぎ始め、思わず、二歩後ろに下がった。


「……え? あの、わたしがさらわれるんですか?

 ……誰に? っていうか、なんのために……?」


 足が震えそうになり、とっさに近くの外灯に手を置いた。

 鏑木さんは表情を変えることはなく、淡々と頷く。


「そうよね。疑問に持つのは当然だわ」


 そう言いながらも、彼女は逃がさないとでも言うように、がっちりとわたしの左腕を組んだ。

 華奢に見えるのに、どうやっても抜けられないような、不思議な力強さだった。


「あ、あの……?」

「でもその話は、お外ではできないのよ、佐々木さん。

 わかったら、さっさと車に乗ってくれない?」


 何もわからないまま、有無を言わせずに黒いレクサスのセダンの後部座席に乗せられた。


 静かな車内を、雨音が満たしている。

 隣に座る鏑木さんは、無言でずっとスマホに何かを打ち込んでは、しかめ面をしたり、たまに「ちっ」という舌打ちが入る。


 触れてはならない何かを見た気分で、そっと視線を窓に向けた。

 車は滑らかな動きで、庶民には近づくことも赦されないような松濤エリアに入っていく。

 その頃には、もしかしたらわたしはいま、高熱で悪い夢を見ているだけなんじゃないかという、諦めにも似た感情に支配されつつあった。


 だって、そうでなかったら、あまりにも状況がおかしすぎる。


「着いたわよ」


 ぼんやりしていると、鏑木さんに声を掛けられ、慌ててドアを開けた。

 目の前にあるのは、思わず息をのむほどの無音の館だった。


 二階建てではあるけれど、どこか中規模の美術館みたいに見える。

 直線を基調にしたデザインで、飾り気は一切ない。にもかかわらず、圧倒的に洗練されている。


「……すごい」


 そうじゃないかとは思っていたけれど、この人、正真正銘のお嬢様なんだ……。

 タワマン生活で少しは免疫がついた……わけはなく、レベルの違うセレブの存在にびくびくしながら、わたしは鏑木さんの後ろに続いて門をくぐり、家の中に入った。


「熱があるって言ったわね。いま、主治医を呼ぶから、その角の客間で待っていて。部屋着もクローゼットに用意してあるから、好きなものを選んで着てちょうだい。着替えたら、そのままベッドで寝てていいわ」

「はあ……ありがとうございます……?」


 お礼を言わないといけない場面なのだろうけど、連れてこられた理由もわからなければ、ここに留まる理由もわからない。

 だけど、鏑木さんの厳しげな表情が、質問の余地を与えてはくれなかった。

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