Side Kaji:呪いのような誓い

 虎ノ門ヒルズを出ると、一月の細い雨が、街灯の光をほどくように降っていた。周囲を見回すが、迎えの車が見当たらない。

 まあいいか、と、傘も持たず、そのまま駅へ向かって歩き出す。

 そのとき、濡れた舗道を滑るように、黒の高級ミニバンが横付けに停まった。

 雨粒がパラパラとボディを流れ落ち、ミラーがわずかに下がる。

 目が合うと、海堂は視線だけで「乗れ」と告げた。


「車、濡れますけど、ええやろか?」

「かまわん。風邪引くぞ。早くしろ。」


 車内は、外の雨音を切り取ったように静かだった。

 街道の真向かいに座り、シートベルトを締めると、わずかな振動とともに、黒い車体が滑るように走り出す。

 わずかな沈黙の後、海堂はこちらをまっすぐ見据えた。


「……それで、どうだった? 虎ノ門会談は」

「なんやねん、その会談。変な名前つけんねや」

「エリック・ゴールドマンは恐ろしい男だろう?」

「そやなあ。ずいぶん場慣れされてはるんやろねえ。

 人の顔を札束で叩くのが楽しくてしゃあないっちゅう態度をよう隠さんと。

 ……ほんま、嫌な笑顔やったわ」


 微笑みを携えながらも、その目は一ミリも動かない。

 青い瞳が、まるで照準のようにこちらを捉えて離さなかった。


「ウォール街の白い悪魔だからな」

「なんやねん、そのダサい二つ名」

「奴の通り名だ。あいつが関わって逃げ切れる企業は、今のところひとつもない」


 言外にアペックスの危機を滲ませながら、海堂は悔しそうな顔をする。


「馬鹿にしやがって。何が、昼飯前に二度は買える、だ!」

「海堂はん、あの盗聴防止システム潜り抜けたん? 案外やるやん」

「……その口の悪さ、大学の頃から変わらんな。お前だけだぞ。俺にそんな軽口叩けるのは」

「そやった? みんな、あんさんのこと『アペックスの最後の良心』やゆうて、からこうとるやんか」

「なにい? 誰だ、そんなこと言う奴は」

「……但馬のおっさんと、その周囲やね」

「おい! なんでお前が、但馬さんの発言を知ってるんだ」

「情報収集を俺に任せたんは、海堂はんやないどすか。いけず言わんといてくださいよ」

「……お前、どこまで情報を拾ってるんだ?」

「たいしたことないですよ。一応、自分や海堂さんの名前が社内で出た時は、自動感知するようになってるだけで」


 最近は鏑木絢香の情報も拾っているが、その件については口にしない。

 確信はないが、なんとなく、絢香自身も同じことをやっているに違いないと思っている。

 彼女の情報リーチは、素人のそれじゃない。


 呆れとも、微笑みともつかない顔で、海堂は目元を和らげた。


「真田が残したお前は、エイペックスの最後の守護神だな」

「うわっ。なんやそれ。変なあだ名つけんといてくださいよ」


 両腕をさすりながら拒んだ。

 そんな立場は欲しくもなければ、求めてもいない。

 だが、そのことを理解した上で、それでも海堂は言っている。

 守護神になってくれと。


 不意に、「梶くん」という花の声が耳元で響く。

 透き通る高い声が己の名を呼ぶたび、脳内の回路がわずかに書き換わる。

 セロトニンが満ちて、世界が淡い桃色に染まる。

 たまらない多幸感に脳がバグるのに、それが嫌じゃない自分が不思議だった。


 ……せやけど、これでほんまに終わるんやろか。


 脅せるだけ脅したが、あの底冷えのするような瞳の奥には、確かに執念の炎があった。

 一瞬、不安に負けそうになり、奥歯を噛み締めることで感情を胸の奥に固くしまい込む。そうしないと、誰彼構わず文句を言いたくなるからだ。


「お前、ゴールドマンに金の融点がどうのって言ってたよな。あれは、どういう意味だ? よく聞き取れなかったんだが」

「ん? 言葉のままですよ。あいつの暗号資産なら、朝飯前に溶かすくらい、俺ならできるよってに」


 海堂はゴクリと喉を鳴らした。

 だが、その顔を見て、思わず笑ってしまう。


「なんでそんな、化け物を見るような顔をしはるん?

 俺をこんなふうにしたんは、海堂はんやないですか」

「俺が……なにを?」

「大企業の潤沢な資金を使うて、とんでもないリソースで俺を囲い込んで、ただの院生だった俺を、ずぶずぶに甘やかしてくれた。

 今の俺があるんは、間違いなく海堂さんと、真田さんのおかげです。

 せやから、そんな顔されたないわ。あんただけには」


 海堂の表情が揺れる。短い沈黙の後、小声で続けた。


「……頼みがあるんです」

「なんや」

「俺を……化け物にせんといてください」

「……は?」

「やろうと思えば、俺はゴールドマンの金を溶かす程度、いつでもできる。

 せやけど、それだけはやったらあかんのです。

 それは、人道にもとる行為や。俺は、子どもの頃にじいちゃんと約束した。

 俺の能力は、世のため人のために使うんやって」


 海堂が真剣な目でこちらを見ていた。それに縋るように言葉を続ける。


「せやから、命じんといてください。『あいつを潰せ』って。

 それは、俺の仕事やない。俺はただのプログラマーや。

 モノリスは作る。けど、悪事に手ぇは貸さん。

 ……たとえ、アペックスがそれで潰れても──」


 言葉が止まり、車内の空気が濃くなる。

 海堂はまっすぐにこちらを見つめたあと、長いため息を吐いた。


「……わかってる。お前にそこまで言わせて、本当に済まない。

 あいつは、俺たちがなんとかする。だから、お前はモノリスに集中してくれ。……それだけで十分や」


 しばらくはお互いに無言のまま、窓の外に視線を移した。

 もうすぐ花に会えると思うと、それだけで少し気持ちが緩む。


 内堀通りに右折した瞬間だった。

 都心のざわめきが一段階だけ音量を落とし、コンクリートの谷に、ひやりとした静気が満ちる。

 その静寂を裂くように、コートの右ポケットでスマホがふっと明滅した。

 通知音はない。

 ただ、光だけが脈打つ。


 ……なんや?


 胸の奥がざわつく。

 嫌な予感だけが、事実よりも先に喉へ落ちてきた。


 スマホを取り出した瞬間、ECHOのアプリが自動的に立ち上がった。


 画面が、小さな心臓みたいに震えている。

 白い光が揺れて、文字が雪崩のように流れては現れて消える。


《Unauthorized Pattern Detected》

(未認証パターン検知)

《Name Leak Risk : HANA》

(識別名リークの危険:花)

《External Access / Prediction Vector Trace》

(外部アクセスの痕跡/予測ベクトルへの追跡検出)


「……あかん……!」


 喉が勝手に震えた。

 次の瞬間には、もう叫んでいた。


「海堂さん!」

「なんだ、どうした?」

「鏑木絢香をいますぐ呼び出してください!」

「は? なんでや?」

「ええから早く! あの人に今すぐ花を緊急確保しろって指示を頼んます! あとで全部説明するさかいに」


 制御できない焦りが、声の奥ににじむ。

 ECHOの光が、まるで悪夢を警告するように明滅し続けている。


 シートベルトを外し、震える手で端末の操作を始める。

 指がブレてうまく動かない苛立ちに、舌打ちが混じる。


 海堂がどこかに電話を飛ばす声が聞こえるが、もう耳に入らない。


 震える息を押し殺し、ECHOの裏面にある開発者モードを呼び出した。

 本来なら二段階認証なしには開けない領域だが、緊急フラグが立ったのか、画面のロックが溶けるように崩れた。


「……ECHO、聞こえるか。応答せえ」


 小さな振動が返る。

 それだけで胸が締め付けられる。


「ええか……今から優先遮断や。

 外部の予測ベクトルを全部切断する。

 花の名前は、もう二度と外に漏らさせん。わかったな」


 白い光がふっと揺れ、肯くように瞬いた。

 滑るように指を走らせ、画面にコマンドが流れ続ける。


《ECHO_core.sec_layer_04 / Disable》

(ECHO中核の第4セキュリティ層を無効化)


《PredictionVector >> Disconnect All Channels》

(未来予測ベクトルへの全通信経路を遮断)


《Snowfall_Shield / Deploy》

(スノーフォールシールドを展開)


《Alias Mode : HANA → null*》

(aliasを削除。識別名HANAの痕跡をゼロ化)


 この操作により、花の言語波形が特定されないための独自の防御機構が働き、彼女の名前がECHO内のログから一時的に消え、誰にも閲覧できなくなる。


 次に、もっと危険な領域へ指が滑った。


「……ごめんな、ECHO。

 これやったら……お前の学習が一時的に退化する。せやけど、花を守るためや。耐えてくれ」


 深呼吸ひとつ。

 指先に力を込める。


《ECHO_core / Amber Lockdown Mode》

《感情反応アルゴリズム:一時凍結》

《共鳴ログ:暗号化(snow_crypt)》

《外部アクセス:全面拒否》


 スマホがかすかに悲鳴を上げるように震え、ECHOが泣いているように見えた。


「……堪忍な。花ちゃんを守ったら、すぐ戻すよってに」


 心臓が脈打つのを感じながら、最後のコマンドを叩き込む。


《Emergency Shell "Hana’s Shadow" 起動》

(緊急保護シェル:花のシャドウを起動)


 花のデータ波形を「影」で上書きし、外部から見えるECHO内部の『花』を別人として偽装する。

 ECHOが花を守るために作られた、最終防衛プログラムだった。


 画面が一瞬、雪のように真っ白に弾け、次の瞬間、すべての光が静かに閉じた。


 スマホは、ただの冷たい板のように沈黙している。


 はじめてECHOを作った日や、彼女にそれを送った日。

 他愛のない日常を彩った数々の記憶が、なぜか走馬灯のように脳裏に流れて、胸が痛む。

 拳を握ったまま顔を上げると、海堂が呆然とした顔でこちらを見ていた。


「……お前、いったい何を作って……いや、あとでいい。

 すまん。リンクスに確認したが、今日は佐々木さんはアペックス本店にいるらしく……」


 言葉の途中で海堂のスマホが震えた。


「どうだった? 捕まったか? ……はあ? 行方不明?」


 その言葉に、耳を疑った。


「なんでや、業務時間中やろ」


 話の途中で海堂からスマホを取り上げて、「どういうことや!」と思わず叫んだ。電話の向こうでは、慌てた男の声がする。


「ええっ? あ、えっと……ですから、佐々木さんは社内に姿が見えなくて──」


 ブチッと電話を切り、花に電話を掛けるが、コールが鳴っても出る気配はない。

 運転手に「大手町スカイタワーへ行ってくれ!」と力の限り叫ぶ。


 ……あかん! やめろ。やめてくれ!


 絶望と焦燥の間で、視界が炭に染まったように暗くなっていく。

 なんでそう思うのかは、わからない。

 ただ、取り返しの付かない何かが起こっていることだけがわかる。


 ──花にもし何かあったら──……俺はあいつを赦さへん。

 あの男を、絶対に、社会的に破滅させたる。


 震える拳を握りしめ、呪いのような誓いを立てた。

 人生でずっとお守りにしてきた祖父の声は、もう、そのときには聞こえなくなっていた。

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