Side Kaji:You can’t buy my mind

 指定された日に気の進まないまま向かった先は、虎ノ門ヒルズの最上階にあるプライベートダイニング、アトラスルーム。


 部屋に入った瞬間、ほのかに柑橘の香りがした。

 だが、なぜかそれが妙に鼻につく。

 壁一面のガラス越しに東京湾の夜景が広がり、無音のシャンデリアが物々しく光を集める。

 いかにも外資の重役が好みそうな、金と静寂で造られた密室。

 室内には最新の盗聴防止装置が仕込まれ、ドアの前には黒服のスタッフが二人。


 ……金の匂いいうんは、無粋なもんやね。

 お里が知れるとは言わんけど、このおもてなしで人間性がようわかるわ。


 扉の奥で待ち構えていた男は、十年来の友人のような笑顔で右手を差し出す。

 逆らうほどの意志も持てず、消極的な態度でそれに応える。

 握られた手に残る力と、部屋と同じ柑橘系の香りが、支配者の圧を物語っていた。


"Please, Mr. Kaji. I appreciate you coming today."

(どうぞ。ミスター梶。今日は来てくれてありがとう)


"Well now… I don’t recall owing any favors to a foreign investor."

(外資の人に呼び出される覚えはないんやけどね)


"Something to drink?

Château Pétrus 2000. I was told you’re partial to red wine."

(飲み物は? 赤がお好きだと聞いて、ペトリュスの2000年をご用意しました)


 情報がすでに筒抜けだと、そう言外に見せつける。

 微かな違和感を覚えつつ、薄い笑みで受け流し、少し間を置いて返した。


"I heard you have a thing for champagne.

But water will do for me."

(あんさんはシャンパンに目がないらしいね。けど、お水でええよ)


"Very well. Please, have a seat."

(……良いだろう。どうぞ座って)


 促されるままソファに座り、言葉を切り替える。


「日本語で話しても構いませんか? 英会話では、口がよう回らへんのや」

「ええ、どうぞ。私には日本人の部下も多いですから、日本語の微妙なニュアンスも理解していますよ。

 もちろん、あなた方日本人が、大変奥ゆかしい人種であることも知っています」

「おおきに。ほな、ここでは日本語で頼んます」


 渡されたスタイリッシュな名刺には、金色に光る文字。

 ゴールデンストーンキャピタル日本法人。肩書きはヴァイスプレジデントVP

 金髪碧眼、端正な顔立ち。二万ドルはしそうなスーツの下に、筋肉が脳まで詰まっているような体躯。


 だが、ECHOの解析結果は別の姿を映していた。

 MITスローン経営学院出身。

 AI工学とファイナンスの両専攻。

 見た目通りの筋肉バカでは、もちろんない。

 家族は元女優の妻と二人の娘、ゴールデンレトリバーが一頭。


 名刺に記された表の肩書きは『日本法人のVP』だが、実際にはGSC本社、グローバルストラテジー部門の実質的ナンバー2。

 世界中の投資先の生殺与奪を握る、理性と演算の化身──それが、エリック・ゴールドマンという男だ。


 こちらを一目で値踏みするような笑みの形まで、完璧に計算されている。


「それで、ご立派な投資家はんが、俺みたいな一般人になんの御用や?」

「一般人? 君が? 冗談だろう。

 八年前、NeurIPSニューリプスで発表された『意思決定過程における揺らぎモデルと信頼予測』について。

 あれは感情を統計処理するという発想そのものが革命的だった。

 当時二十二歳の君が匿名で書いたあの論文は、シリコンバレー中の研究者が三日徹夜で議論したよ。知らないとは言わせない」


「はあ。そんなご大層なもんに、心当たりはあらしまへんけど。

 あんたらハゲタカこそ、二十年前に散々食い尽くしたこの国に、いまさら買いたいものなんか残ってへんのとちゃいますか?

 それともまさか、上層部を引き込んでアペックスをバイアウトされる気ぃやろか。俺に頼むんは、全くのお門違いやねんけどなあ」


"I don’t even need to ask—

buying Apex twice before lunch wouldn’t be a problem."

(君に相談しなくとも、アペックスなら昼飯前に二度買える)


「さすが、外資さんはスケールが違いはるんやねえ」

「だが、それはあくまで『モノリスを持たないアペックスならば』だ」

「そうどすかぁ」


 暖簾に釘押しの会話にも、彼は表情を変えない。

 どころか、鷹の目を細め、一歩、間合いを詰めてきた。


「……私はあなたの開発したモノリスに非常に興味を持っている。

 あれは、実に素晴らしい。

 アペックスの経営陣には、一兆円規模のディールを提案した。

 日本の市場規模から見れば異常だが、安い投資だ。

 あれほどの高性能な未来予測モジュールには、それだけの価値がある」


「多大なるご期待を寄せられて光栄どすけど、そんな素晴らしいもんとちゃいますよ」


「それはジャパニーズ・ジョークかい?

 君の開発したモノリスは、まさしくその名に相応しい神の石板だ」


「神とは大きくきはるなあ。

 昔から、神を騙るもんに鉄槌が下されるんは、歴史が証明しとるんやけど。

 神さんはなあ、拝むもんどす。支配しようとするもんとちゃいますし」


「だが、君こそが神を作った」


 一瞬、脳内で『わしこそ世界!』と言い出した日の祖父が浮かぶ。

 おかしな記憶の回路を開けられ、失笑気味に否定した。


「……ちゃうちゃう。それこそ買いかぶりぃやわ。俺にはそこまでの技術はない。あれは偶然の産物や。

 第一、まだ完成もしとらん。よう知っとるやろ」


「だからこそ、あなたが欲しい。ミスター梶。

 もちろん、アメリカにも素晴らしい技術者は数多いる。

 だが、あなたの実装は、少なく見積もってもAIの進化を十年は早めた」


「十年ねえ。アメリカなら俺程度はゴロゴロいてる。そいつらに任せたらええんとちゃいます?

 第一、モノリスが欲しいなら、上層部に言うてくれ。俺にはなんの権限も関係もない話よってに」


「それこそ冗談だ。

"Yukito Kaji’s MONOLITH"には天文学的価値がある。

 あれは、世界を手に入れるためのゴールデンルートと言っていい。

 それは開発者の君が誰よりも理解しているはずだろう?」


 陶酔的な顔に引きながら、相槌一つ打たずに、首を竦めた。

 だが、ゴールドマンはお構いなしに距離を詰めようとする。


 「ミスター梶。君には、我が社のチーフAIアーキテクトの椅子を用意してある。

 年俸は三百万ドルだ。モノリス完成の暁には、成功報酬をその十倍出す。興味は?」


 「なるほど……。ゴールドマンとは、さすがにええ名前やねえ」

 「……失礼。この名前に何か?」

 「日本語にはなあ、名は体を表す言う諺があんねんけど、ほんまやなあ思うて。

 あんさんのゴールドはピカピカ光りすぎて、俺の目には、どうもよぉ映らんのや。

 光が強いほど、影も濃くなるさかいねえ」


 「私は真っ白な雪を見ると、足で踏み潰したくなる……とでも言えば喜ぶかい?」

 「言葉遊びがしたいなら、言語博士とでもやらはったらええんとちゃいますかね。

 俺はただのプログラマーや」

 「だからこそ、あなたの腕が欲しい」

 「あんさん、わかっとらんのやねえ。

 俺が今言うたんは──金より脳みそが大事っちゅう話や」


 「……金より、脳みそ?」


 言葉の意味が通じていない相手に、わざと大袈裟にため息をつき、首を傾げた。


 「京都では、相手に対して直接的な嫌味を言うのは無粋やゆうてなあ。

 "an act of poor taste"、つまり品のない行為やと批判されるさかいに。

 せやけど、たまには相手の品性に合わせるんも、大事なのかもしれへんね」


 ゴールドマンは凄みのある表情に切り替え、こちらを睨め付ける。


 「……どう言う意味だ」

 「せやなあ。簡単に言えば」


 "You can’t buy my mind,

 not even with your shiny dollars."

(──俺の脳みそが、あんたらの金で買えると思うな)


 "You’ll regret this."

(……後悔するぞ)


 「ははっ。ほんまにそない言葉を吐く人間が、世の中にはいてはるんやねえ。

 もっと気ぃの利いた言葉はないんやろか。

 ……まあ、長居し過ぎて厚かましい奴やと思われるのも敵わんし、そろそろお暇しまひょか」


 出された飲み物には一切手をつけず、話は終わりとばかりに立ち上がる。

 扉に向かう途中で、足を止めた。

 振り向いて、「ああ、そうや」と声をかける。


 「タックスヘイブンなんて二十世紀の遺物やと思うてたんやけど、お金はあるところにはあるってほんまやねえ」

 「なに?」

 「BVI(英領ヴァージン諸島)、UAE(アラブ首長国連邦)、モナコ、あとは香港やったかなあ。どこも金の居場所としては、ようできた国どすわ」


 "Have you completely lost your mind?"

(頭がおかしくなったのか?)


 怒りで声の温度が一瞬だけ下がった。


 "I’m not sure what you mean. I just said I’d like to visit those countries."

(なに言うてるんや。俺はただ、行ってみたい国の話をしただけですわ)


 返答はないが、殺気だけが空間をかすかに揺らす。


 "You don’t need to ask me either —

 manipulating the melting point of your gold before breakfast isn’t a problem."

(あんさんに相談せんでも、金の融点をいじるくらい、朝飯前やしな)


 ゴールドマンの表情が怒りに震えたのを見て、日本語に切り替える。


 「──アドバイスはひとつ。俺とアペックスに手ぇ出すなや。

 監視も尾行もええ加減、飽きましてなあ。

 この上、手でも振るわれたら、うっかり石板、割ってまうかもしれんさかい」


 黙ったままこちらを睨みつける男に薄く微笑み、背を向ける。


 「ほな、さいならね。大金持ちのゴールドマンはん。せいぜい、お気張りやす」


 口汚い英語が耳をかすめた気もしたが、扉の閉まる音がすべてを呑み込んだ。


 ……あかんわあ。

 いけずを言おうとすると、なんで親戚のおばはん口調になるんやろなあ。

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