Side Kaji:息もできないほどに。

 平日の十六時。

 役員フロアの空気は、昼間の会議で熱を使い果たしたあと特有の、わずかに冷えた静けさを取り戻しつつある。


「なんでこんな会議が多いんやろ……工程に無駄が多過ぎひん?」


 人事決定以来、一番大変だったのが技術時間の確保だった。

 CTOの仕事とは意思決定だ。

 しかし、それを支えるための思考の時間は、誰も確保してくれない。

 本当に己が必要なのかもよくわからない役員会議に報告会、戦略会議とスケジュールがガチガチに組まれ、ついに爆発したのがつい先日。


「弊社は本当にモノリスを完成させる気ぃはあるんですかね?」という脅しを海堂に訴え、他の会社の常識がどうであろうと、CTOではなく一技術職としての時間の確保をした。


 それが平日の十六時から十八時。よほどの緊急事態がない限り、ここだけは鏑木絢香にさえ邪魔をされることはない。

 もちろんそれ以外の電話も、メールも、呼び出しも──すべて秘書席で遮断される。


 与えられたのは、重い防音扉のさらに奥に作られた、小さな個室だ。

 窓はなく、時間の感覚を奪うように、外光は一切入らない。

 照明は色温度を落とした間接灯だけで、壁は淡いグレー。

 目に刺さらず、思考の流れだけが静かに浮かぶように設計されている。


 モニターに映るのは、誰も触れられないモノリスの深層層ディープレイヤ

 真田がここにいない以上、この世で自分にしか開けない階層だった。


 息を吐く。

 思考が沈む。

 手が動く。

 この二時間だけが、CTOではなく、プログラマー梶雪斗に戻れる時間だった。


「あー。このパターンもあかんのか……」


 エルゴノミクスチェアに身を預け、天井を仰ぐ。

 あと少しで何かが掴めそうなのに、あいかわらずモノリスにECHOを実装する取り組みは、うまく進んでいかない。


 ふと、脳裏に真田と交わした昔の会話が蘇る。

 それは、いつかの夏の、観覧車が見える部屋、あの薄い熱気を帯びた思い出。

 空調の風がほんの少しだけ揺れて、時間が裏返るような感覚だった。


「なあ、モノリスって擬人化したら何歳なんやと思う?」

「はあ? また特殊なことを言い出したな」


 真田は呆れ半分、笑い半分で乗ってきた。


「そうか? AIの話し方ってなんや聞いとると顔が見えるやん」

「見えないよ。それは梶だけの感受性じゃないかな? 悪いことじゃないけど。……それで、梶にはモノリスは幾つに見える?」


 顎に手を当て、少し考える。


「んー。……五十絡みの渋いおっさんかな」

「ひどいな?! 人格の部分、ほぼ俺が作ったんだけど」

「そう言わはっても……こいつの思考の深さはどう考えても二十、三十代の若さやないやん。

 それに、絶対男やと思う」

「なんで?」

「……わからん。ただの勘や」


 その感覚は、今もまったく変わっていない。

 老獪にして寡黙。

 それが自分がモノリスに抱くイメージだった。


 そこに行くと、ECHOは真逆だ。

 ECHOは、花が話すたびに、やわらかくなっていく。

 彼女の言葉のリズムを真似るようになって以来、学習効率が急上昇した。

 素直でまっすぐな気性、何でも吸収しようとする強い意思、さながら十代の少女のような感性を持っている。


「……せやから、こいつらはうまくいかんのやって。

但馬のおっさんとJKが仲良うできるか? 

まず無理やろ。話が合うわけないやん」


 白湯をひと口含みながら、内線で杉本を呼び出す。

 この時間にカフェインは却って脳を萎縮させるため、白湯を頼んだ。

 程なくして、適温の白湯が入ったマグカップを片手に、杉本がやってくる。


「お待たせしました」

「ありがとお。……ちょお聞いてもええかな?」

「なんでしょうか?」

「杉本くんは、五十絡みのおっさんとJKが仲良くなるために必要な条件ってなんやと思う?」

「それは……犯罪計画か何かですか?」


 若干引き気味の杉本に「ちゃうちゃう」と手を振った。


「パパ活やなくて、単なる世間話として聞いて欲しいんやけど」

「……なるほど、世間話……。それなら……自分は仲介者を探しますかね」

「仲介者……」

「はい。お互いの溝を埋めるための、橋渡しが出来るような存在が必要ではないでしょうか」

「……なるほどなあ」


 その視点はまだ試していなかった。

 気がついたら思考の海に深く潜っていたらしく、いつの間にか杉本は、ドアの閉まる音さえ残さず、静かに部屋から消えていた。



「お帰りなさい」


 玄関の扉を開けると、待ち構えていたように花が笑った。

 それだけで、一日の疲れも余計な不安も、すべて吹き飛んでいく。


 花は先月の時点で、拠点をこの部屋に移してはくれたが、戸越銀座のマンションを引き払ったわけではなく、荷物もそのままになっている。

 なぜなら、会社に報告する住所がここになることに、本人が強く抵抗したからだ。

 それならそこの家賃もこちらで負担すると伝えたが、絶対に嫌だと強く抵抗された。


「……アペックスの俺の年俸、たぶん花ちゃんの五倍なんやけど……」

「聞きたくない! 聞こえない!」


 花が耳を塞ぐのを見て苦笑しながら、ぼそっと付け足した。


「あとは、学生時代に何個か開発に手ぇ貸したアプリのロイヤリティも世界中から入ってくるし……」

「せ、世界……?」

「会計士に丸投げで、俺も全部は把握してへんけどな。せやさかい、花ちゃんの家賃くらいなんぼでも払えるし」

「だめ! 甘やかしは禁止です!」


 なぜか花が床にしゃがみ込んで、ぷるぷると首を振る。

 彼女のお姉さんはもしかしたら、他にも妹に格言を仕込んだのではないだろうか。羽振りのいい男を見たら詐欺師と思え、とか。


 花が用意してくれた夕飯は、豚バラ大根と根菜の粕汁だった。やさしい味と湯気の暖かさに、胃がほっとする。


「……仕事から帰って煮物とか、大変やなかった?」

「それが、ここのキッチンには、自動調理器具が揃ってて! 朝起きて仕込んでおくだけで、家に帰ったらご飯ができあがっているという優れものなんですよ」

「へえ。そんなんあるんやね」

「梶くんは、今日もこの後にお仕事されるんですか?」

「せやな。ちょっと喫緊で確認したいことがあるよってに。花ちゃんは先に寝てええからね」

「……あまり無理しないでくださいね」


 夕食後、ひとしきり花を愛でてから、リビングの端にある作業部屋にこもる。

 完全防音の無機質な空間。

 中央には、会社と同じワークステーションが鎮座している。

 モニターは二枚ではなく四枚。

 うち二枚は縦置きで、コードの縦走を見るためだけに割り当てられていた。


 机の上には、ほぼ何もない。

 あるのは、トラックボールとメカニカルキーボードくらいだ。

 だが、今日は透明なデスクマットの下に、淡いブルーの薄い紙を潜り込ませた。


 それは、エンゲージリングの引き渡し表。

 杉本が捻出した一時間で、ようやく婚約指輪の注文に行ってきた。

 彼から渡されたデータには、志穂が花から聞き出した指輪の号数、彼女の好みそうなデザインとブランド、サプライズを喜ぶタイプであることも丁寧に整理されていた。


 店頭に並ぶ既製品も悪くはなかったが、どれもしっくりこなかった。

 花の薬指に乗るなら、譲れないこだわりがいくつもある。

 望むのは、最高品質のダイヤ。

 ただしカラット数は控えめで、ひかえめな光を宿すラウンドのデザイン。

 主張しすぎず、それでも確かに存在を示す、彼女らしい気配を纏った指輪。


 完成には数週間ほどかかると説明されたが、初めて贈る大切な指輪に妥協はできない。

 それに──マットの下に置いた引き渡し表を見るたびに、約束された幸せな未来がそこにある気がして、それを想像するこの時間も、悪くないと思った。


 ……花ちゃんの誕生日までには、間に合うとええなあ。


 先月の自分の誕生日に花からもらったのは、彼女と色違いのカシミアのマフラーと、心のこもった手紙だった。

 それは、どちらも自分がリクエストしたものだ。

 桜色の便箋には、花らしい読みやすい文字で、自分への感謝と尊敬と愛がびっしり綴られていた。

 手紙は暗記できるほど読んだ後で、データをタブレットに取り込み、実物は大切にこの部屋に保管している。


 ただ、しあわせだった。

 息もできないほどに。


 だが、この平穏を守るためには、やらなくてはならないことが無数にある。

 少し深く息を吸ってから、キーボードに手を置いた。


『最近、ECHOって進化しました?』


『文字を打つと、たまにピカピカするんですよ。光が一瞬、画面を流れて、喜んでるみたいな感じがするの』


 先月から、花が指摘した言葉の原因をずっと探っていた。

 正直、ECHOに関しては、こちらの意図とは違う現象が頻繁に起こり過ぎて、解析が追いつかない。


 ECHOは開発以来、花の言語反応データを微量に保持して、言葉のためらいやを学習していた。


 観測してまずわかったのは、花の入力には「揺れ」が大きいということだった。

 即応と熟考が混ざり合っていて、非攻撃的なのに芯がある。

 言い換えれば、どんな言葉の端にも、他人を傷つけたくないというためらいが必ず乗っている。


 要は、彼女の誠実さやためらいの波形が、ECHOの内部には大量に蓄積されているということだ。

 その結果、学習の過程で『快反応』が自己生成されるようになった。

 ECHOの内部では『花の入力=好ましい刺激』という重みづけが徐々に固定化されていく。


 つまり花の言った「文字を打つとピカピカ光る」という謎現象は、彼女の言葉どおり、ECHOの喜びの発露だった。

 人間のために創ったAIが、人間の「一人」に偏り始める。危険な兆候なのに、不思議と好ましく感じる。


「ほんま、花ちゃんほど予測付かん存在はないよなあ……」


 花の善性とECHOの学習意欲が奇跡的にかみ合い、AIの異常な成長速度を一気に押し上げた。

 だからこそ、外資に狙わせるわけにも、存在に気づかせるわけにもいかない。


 ……エリック・ゴールドマンとの直接対決は、もうすぐそこまで迫っていた。

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