Side Kaji:なぜ失念していたのか

 年が明けて一月。

 仕事始めと同時に、鏑木絢香から緊急招集がかかった。


 海堂とともに呼び出されたのは、防音が徹底された役員専用の会議室。

 入室前に、すべての通信機器を専用の金庫へ預けないと入れない部屋だ。

 窓から入る薄い冬光が、磨き上げられた机の面で静かに広がり、外の寒さとは別の冷えを生んでいた。


 壁一面のスクリーンには、モノリスのダッシュボードと、いくつかの線グラフ。

 テーブルの上には紙の資料が揃えられているのに、誰も触ろうとしない。

 海堂が、無駄のない手つきでペンを回しながら口を開いた。

 その仕草だけで、室内の空気が一段沈む。


「鏑木室長。午前の予定を飛ばすほどの緊急事態とは何か、早速本題に入らせて欲しい」

「申し訳ありません。その前に、梶CTOに、まずはモノリスの現状確認をさせてください」

「現状は、未来予測モジュールの再学習を一時停止中。既存の重みは凍結して、出力はダッシュボード用途に限定。

 人事評価システムとの連動は、いったん全部切っとります」


 空気の密度が普段と違うのを感じ取り、いつもの軽口をやめて淡々と答えた。


「未来予測エンジン自体は、生きているのね」


 絢香が、資料に視線を落としたまま言う。

 抑揚の薄い声なのに、わずかな単語の選び方で、どこまで把握しているかが透けて見える。


「エンジンは残してる。消したら二度と同じものは作れへん。

 せやけど、人間の意思決定に直接介入できるラインは、全部殺してある」

「Liberty Scoreのコードは?」

「人が人を追い込む方向に働くやつは、ほぼ無効化した。

 Balance側のロジックと、倫理チェックだけ残してる」


 モノリスは、人間の努力と判断を支えるために作られた、ふたつのスコアを基盤にした構造体だ。

 倫理モジュールを使い、社員の努力を見える化するバランススコア。

 予測&効率モジュールを使い、組織の効率性を引き上げるためのリバティスコア。


 そこに未来予測モジュールを接続した結果、モノリスの価値が跳ね上がり、同時に、外資に狙われるほどに危険度が増した。

 絢香の資料には、そう書かれている。


 ……ほんまは、こんな綺麗な言葉だけで済む話やないんやけど。


 結局、開発の途中でモノリスには観測の歪みが生まれ、現在は密かにECHOとの接続可能性を探っている段階にある。

 成果は──まだだ。


 だが、ECHOについては会社には一言も漏らすつもりはなかった。

 花の声を、本来ありえない深度まで吸い上げてしまった──その一点で、ECHOはもう企業の資産ではない。

 個人の心の領域へ踏み込み、寄り添い、学習してしまった以上、たとえ海堂相手であっても説明しようがない。


 海堂が小さく息をついた。


「……それで、モノリスの開発はいま、どこまで進んだ? お前の技術者としての勘で構わない。数値で答えてくれ」

「……せやな。現時点で、95点。歪みの原因と、それに対する対処法は把握できた。ただし、残りの5点が解決しなければ、実質0点と同じやね」

「……その残りの5点は、どうやって解決するの?」


 絢香の冷ややかな声が、鼓膜を刺してくる。


「あらゆる手段を試し中、としか言えへん」

「聞き方を変えるわね。その5点を解決することは、技術者として可能か不可能か、どっち?」

「……可能やと思ってる」

「言い切れるの?」

「──勘や。俺の脳は間違いなくいけると踏んでる。せやけど、その答えを見つけるための鍵が、まだどこにも落ちてへんだけや」


 絶対の自信ではない。

 だが、自分の脳が己を裏切ったことは一度もない──ずっとそうやって生きてきたからこそ、自然に口をついて出た言葉だった。


 しばらく沈黙が落ちる。

 空調の音だけが、遠くでかすかに鳴っていた。


 やがて、海堂がペンを机に置く。


「……よし。モノリスについては、このままお前に全権を任せる。それでいいな、鏑木室長」

「海堂常務がそう判断されるのであれば、わたしに否やはございません」

「任せたぞ、梶」


 ほっと一息つけそうな雰囲気を、絢香がさらりとぶった切る。


「じゃあ次は、外資の件ね」


 現在の外資とアペックスの状況を示す紙の資料をこちらに配布した。

 目を通すと、この数年で、ゴールデンストーンキャピタル《GSC》が金にものを言わせ、アペックスの子会社を買いあさっているのが、一目瞭然だった。

 逆に、この事実を表に出していない上層部の努力がうかがえる。


 すると、B5サイズの黒革の手帖から、絢香が無言のまま一枚の厚紙を取り出し、テーブルに置いた。

 白に近い薄い銀色のカード。控えめなエンボス加工。

 右下に、小さく"Golden Stone Capital"のロゴが浮かんでいる。


「……なんやこれ」

「あなた宛ての招待状よ。昨夜届いたの」


 テーブルの上に置かれたカードには、日付、時間、場所がきっちりと印字されていた。

 そして、当然のように記載された自分の名前。


「……ずいぶん丁寧な呼び出しやな」


 カードを指で持ち上げて眺めると、海堂が苦い笑いを漏らした。


「どちらかというと、礼儀正しい脅しだな」

「今まで届いたメールは全部スルーしてきたんやけど」

「……これが届いた以上、もう逃げられないわね。無視すればおそらく、今後はアペックス本体への買収も辞さないでしょう。

 但馬専務が交渉を一任されているけれど、状況は決して良くないの」

「……はあ、会わへん選択肢は、ないんですかね」

「あなたの首の上に付いているのは、スイカか何かなの?」

「ちょっと聞いただけやろ」


 海堂が、机に両肘をついて指を組む。


「向こうから名指しで、梶雪斗を指定してきた時点で、逃げる余地はないからな。……こうなると、お前をCTOに任命するところまでが、エリック・ゴールドマンの読みだった可能性がある」

「そうですね。……でも、そうしないと梶くんを守ることもまた、できなかった」

「それで、俺はこの招待状を持って、どう対応すればええんですかね。台本とかあります?」

「あなたが話していいのは、自分の履歴書の範囲まで。経歴、過去のプロジェクト、公開されている論文。それ以外は、沈黙していなさい」

「まあ、黙っとくのは得意分野やけど」


 苦笑すると、絢香の目だけが少し細くなる。


「あなたの好奇心は、時々、自傷行為に見えるのよ。面白そうだからといって、首を突っ込みすぎないこと。そして、相手を絶対に挑発しないこと。

 おそらくゴールドマンは、金にものを言わせてあなたを買収にくるでしょうけど、簡単に口車に乗せられないように」

「乗るわけないやろ。ガキの使いちゃうねんからに」

「どうかしら?」


 海堂が、そこで話をまとめるように口を開いた。


「とりあえず、明日中にも場所の下見と動線の確認をこっちでやる。

 当日は警備と監査チームも裏で付ける。だが、行くのはお前一人だ。……わかるな?」

「まるで護送やね」

「その通りだ。向こうにとっても、お前は口座残高付きの人質みたいなもんだからな」


 そう断言されると、ますます逃げたくなる。


 会議が終わると、海堂は別の案件に向かうため、すぐに席を立った。

 絢香は資料をきっちり揃え、まとめてシュレッダーに掛けてから、最後にもう一度振り返る。


「……招待状の写しは、こちらで保管しておくわ。

 あなたがどこに連れて行かれたのかは、記録しておかないとね」

「物騒な言い方しはりますねえ。まるで誘拐される前提みたいやな」

「そうなったときのための、保険よ」

「……責任者なんか、ほんまなるもんやないなあ」

「それについては、同感だわ」

「あ、そうや。鏑木さんに折り入って、ひとつだけ頼みがあるんやけど」

「……聞くわ」

「もしもの話なんやけど──……」


 絢香としばらく話し、なんとか望む結果を得られほっとする。


 防音が徹底された会議室を出ると、廊下の空気は一気に軽くなった。

 扉のすぐ横で控えていた杉本が、こちらに気がつき静かに一礼する。

 余計な詮索をするでもなく、こちらを見すぎることもなく、「必要ならお呼び下さい」という距離で立っている。


 ……ほんま、この人を秘書にできたんは、就任以来最大の幸運やんなあ。


 何かを察しても、表に出さない理性。

 触れてはいけない領域を本能的に理解して、すっと引いてくれる賢さ。

 機密に踏み込むことがどういう結末を招くか、情シスとして骨身に染みている人間だけが持てる沈黙の美徳。


 秘書を選べと言われたときは、正直辟易したが、彼になら安心して任せられる。


「待たせてごめんなあ」

「いいえ。待つのも仕事ですし、控え室で仕事も進みましたから」

「さすがやねえ。ほな、戻ろか」


 二人でエレベーターを降り、役員フロアに戻る。

 扉を開けて、与えられた個室のシンプルな佇まいに安堵する。

 就任当初のノイズだらけの環境を、杉本がこちらの希望どおりに予算内で整えてくれたのだ。この仕事の速さも、彼を気に入る理由のひとつだった。


「梶さん。先日は志穂に過分なご配慮をありがとうございました」

「……何の話やっけ?」

「志穂が花さんの服や靴を見立てたお礼に、プレミアムチケットを融通してくださいましたよね」

「ああ、そやった。むしろ、こっちがお礼を言いたい立場やし、気にせんといて」


 花に似合う服や靴を、今よりも高価格帯で選んで欲しいとひそかに依頼を出したところ、志穂は事情を察し、かなり細かく提案してくれた。

 そのお礼に、杉本経由でクラシックコンサートのチケットとギフト券を送ったのだ。


「これ、志穂から。花さんが好きなメーカーの和三盆のフィナンシェです。良かったらお二人でお召し上がりください」

「はあ、ほんまあんたの彼女、気がきく子やねえ」


 カップルそろって仕事ができる、頼もしい存在だと思う。


「いえ。こちらこそ、本当にありがとうございました。今後もシーズンごとのご依頼をお待ちしています、と言っていましたよ」

「ははは。そら頼もしいわ。またよろしくって言うといて」

「はい」

「……杉本くんて、あの彼女といつから付き合うてはるん?」


 ふと気になって、聞いてみた。


「二年前ですかね」

「へえ。長いんやねえ」

「そうでもないですよ。もっと長く付き合った子もいたし。……でも結婚したいって思ったのは、彼女が初めてですね」


その単語を脳が拾い上げ、興奮気味に詰め寄った。


「……結婚!? いま、結婚て言うた?」

「は、はい……」

「杉本くん、結婚しはるん?」

「あ、はい。あの……春に結婚式を控えています」

「結婚、ええねえ。……それ、どうやってするんやっけ?」

「は?」


 今までの人生でまったく意識したことのない、結婚というワードの衝撃はすさまじく、一気に脳が桃色に染まっていくのを感じた。

 いかに傷つけずに済むかばかり気を回して、どうやって守るかまでは頭が回っていなかったせいだ。


 ……せやけど、結婚したら、一緒の家に住むんも、花ちゃんを守るんも、全部が正しい選択になる。

 誰にも文句言われへんし、花ちゃんを守ることが自分の役目になる。


 結婚。

 そんな素晴らしい制度が世の中にはあることを、なぜ失念していたのか。

 それこそが、自分と花の未来を約束するための最適解のような気がして、気持ちがどんどん昂ぶっていく。


「俺も結婚したい。今すぐしたい。花ちゃん、俺と結婚してくれると思う?」

「い、いや……それは、本人に聞いた方がよろしいかと……」


そう言われてはっとした。

断られる可能性を、まったく考えていなかったからだ。


「あかん。今から連絡して聞いてみるわ」


 スマホを取り出すと、杉本が急に慌てだした。


「ええっ? 今? いや、あの! 失礼ながら、結婚を打診するなら、指輪とか、シチュエーションとか、いろいろ検討されてからの方が……」


 なるほど。一理ある、と頷いた。


「せやね。結婚いうたら指輪やんなあ。そしたら今日、買いに行こかなあ」

「いえっ、大変申し訳ございません。今週はスケジュール的に難しいかと……」

「だるう。ほんま、なるもんやないなあ、CTOとか。ほな週末に行ってくるかあ……指輪ってどこで買ったらええん?」

「ええっと、うちの彼女が詳しいので……花さんの好みを確認し、ご報告差し上げます。あの……花さんの指輪の号数などはご存じですか?」

「……知らん。ってか、号数ってなんやっけ?」

「かしこまりました。さりげなく志穂に探らせますね」

「ありがとお。あんさん、ほんま頼りになる秘書やねえ」

「ははは……」

「結婚かあ。……結婚ってめっちゃええやん。誰が考えたんやろ?」


 杉本はしばらく沈黙した後、「……古代の人……でしょうか……」と難しい顔で返事をした。

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