Side Kaji:ただ失いたくない

 花の部屋からタクシーで出勤した金曜日。

 CTO就任二日目。

 朝一番に鏑木絢香がやってきて、今日の予定を読み上げる。


「あれ? 昨日の秘書さんは?」

「あなたの下には付きたくないそうよ。忙しいときにパワハラはやめてもらえないかしら?」

「そんなんしたっけ……?」


 もしかして名刺を壁にぶん投げたときのことか? と思い返す。

 ……誰のせいやねん。

 そうは思うものの、自分の非が明確なため、そっと目をそらした。


 彼女は地図でも読むような無機質な口調で、淡々とタブレットを指し示す。


「これが、あなたのアクセス権限一覧。今日から社内のほぼすべてに入れるようになります。ただし、同時に、すべての行動ログは監査に残りますので、ご留意を」

「まあ、そうやろねえ」

「ログを消せば何とかなると思わないでちょうだいね」

「……何の話やろ」


 ……あかん。大昔に花の社員情報を抜き出したことがバレてるわ。

 いったい彼女の裏に、どんな凄腕の技術者がいるのか、それとも勘が働くタイプなのか、敵に回すのが面倒過ぎる。


「……ああ、それと」


 指先が、資料の左端を滑る。


「こちらが専任秘書候補者の一覧です」

「……候補者ねえ」


 資料を開いた瞬間、げんなりした。

 情報を読めばわかる。話が合いそうなタイプが一人もいない。

 絢香が淡々と説明を続ける。


「彼らの業務は、スケジュール管理、文書決裁の代理処理、外資対応の一次フィルタ、それから──」

「……できたら、AIみたいな秘書がええんやけど」


 空気が数ミリだけ止まった。絢香がゆっくりと顔を上げる。


「AIみたいな秘書、とは?」

「頭脳は優秀。俺とブレストが可能で、察しが良くて、リマインド機能も完備してて、感情を揺らさへん……そういうやつやな。

 複雑なコードを読むのは簡単やけど、人の心の機微は、俺には難しすぎるんよね」

「つまり、感情というノイズを避けたい……という理解でよろしいですか?」

「避けたいというか……俺には扱えへんだけや。誰かの表情や声色で判断するん、昔から苦手やし、仕事に集中したいときに、人間に煩わされたくない。

 そんな環境でコードなんてよう書けんし」

「それ以外の希望は?」

「……俺が安心できるんは、嘘をつかん人間か、嘘をつきようがない存在のどっちかや。せやさかい、そういう人を探して欲しい」


 彼女は、静かな呼吸でタブレットを閉じた。


「わかりました。では、最適な秘書を選定しておきます。あなたの言う、ノイズの少ない方を」

「よろしゅう頼んます」


 しかし、午後に面接に来た候補者たちは、いずれも期待外れで、五分も持たずに面接を終えた。

 絢香からは、怒りのホットラインが届く。


「全員ダメってどういうこと?」

「どうもこうも、言うたやん。コード書くのにノイズになる人間はいらんて。

 異様に気を遣う人間も、色目を使う人も、尊大な態度のMBA卒も、俺とは合わんのやって」

「じゃあ、あなたに合う秘書って何なの?」

「せやさかい、AIみたいな人が……」

「それはどこにいるのよ。いるなら連れてきてちょうだい」


 そう言って、一方的に通話が切られた。


「AIやないけど、花ちゃんが俺の秘書やったらやる気出るんやけどなあ……」


 そんなことを提案したら、再びゴミを見る目で見られるに違いない。

 そこまで考えて、今朝のタクシーでの花を思い出し、心がちょっと浮ついた。


「……なんであんなかわええんやろ。山形が生んだ奇跡過ぎるわ」


 だが、問題は一向に片付いていない。

 彼女が住んでいるマンションは、住みやすさや通勤を考えれば問題ないが、夜道があまりに静かすぎるのが以前から気にはなっていた。

 何とか丸め込んでタクシー通勤を了承させたが、おそらく一週間もしないうちに「やっぱりもったいないです!」と文句を言い出すだろう。


 ……一緒に暮らしたらあかんのかな。


 彼女の安全が脅かされるという懸念が、既にノイズそのものだった。

 そう考えると居ても立ってもいられず、机の引き出しにあるファイルから、絢香に渡された契約書を取り出し読み返す。

 住居に関する条文には、「会社から支給された住宅については、機密保持のため適切な管理を行うこと」としか書かれていない。


 ……うん。抽象的すぎて、どうとでも解釈できるやつやな。


 これなら、花を自宅に引き込んだとしても、咎められることはないだろう。

 問題は、どうやったらあのガードの堅い彼女に同棲を納得させるか、だ。

 脳内にいくつかパターンを投げながら、静かな部屋でゆっくりと仕事を開始した。


 夜、十時過ぎ、家に着くと花はソファで身を縮めて眠っていた。

 その姿を見るだけで、胸に灯る思いがある。

 まろびた頬を少しつついてみると、もぞもぞとくすぐったそうに身をよじる。

 その愛らしさに、永遠に眺めていたいという欲求がわき上がった。


 与えられた部屋の中は、無駄に豪華な家具に装飾品。

 会社と同じく、とても脳が落ち着ける環境ではない。

 それなのに、花が一人居るだけで、突然そこが自分の居場所なのだとはっきりとわかる。


 ──家に帰って誰かおるって、こんな安心することやったんか。


 思い返してみれば、父の帰宅を待つことはあっても、誰かが自分の帰りを待ってくれるのは、祖父が亡くなった二十年前が最後だった。


 急に何かが込み上げ、気がついたときには、頬を涙が伝っていた。


「……なんやねん、これ……。いよいよ脳が本格的にバグったんかな……」


 この気持ちの正体が何かはわからない。

 ただ、花を失いたくないという思いだけが胸を占めて、いっそこのままこの家に閉じ込められたら、どんなに安心するだろうと思う。


 ……でもそうじゃないんよな。

 この子の意思で、俺を選んで欲しい。

 そうやなかったら、意味がない。


 この気持ちが恋なのか執着なのかは、最早どうでもいい。

 ただ失いたくない。

 そう、強く思った。



 午後三時の光は、窓の向こうからゆっくりと差し込んで、薄いカーテンをひとつ通るたびに、輪郭を丸くしていた。

 夕暮れにはまだ早い、けれど真昼ほど明るくもない光は、どこか淡くて、寝室全体が、静かにきらめく乳白色の空気で満たされている。


 静かに寝息を立てている花の髪を撫でながら、幸福の余韻に浸っていた。


『アメリカって、日本にないって知ってます!?』


「ふっ」


 唐突に、さっきのおかしな花語録を思い出し、つい笑ってしまう。

 人生で初めて、アメリカが日本にはないと強く諭された、貴重な経験だった。


 真田がなぜ日本を去ったのか。

 それは、あえて己に問いかけることを避けた疑問だった。知れば必ず、心が苦しくなるとわかっていたからだ。

 海堂にも強く問いただすことはできなかったし、彼も言いたがらなかった。


 だからこそ、鏑木絢香にお前のせいだと言われたとき、口では嘘だと反論しながらも、心では納得してしまった。


「……せやのに、花ちゃんは簡単に飛び越えてくるもんなあ。誰も敵わへんて、ほんまに」


 花は、基本的に人を悪く言うことがない。

 そういう家庭で育ったのか、本人の持って生まれた資質かはわからないが、一緒に居ると癒やされるのは、彼女のすがすがしいほどの善性によるものだと思っている。


 人の悪口を言わないのは自分も同じだが、出発点が違う。

 花は人の良い面を信じてそうするが、自分はそうではないとわかっている。


「俺の場合は、単に怖いだけやもんなあ……」


 人を傷つけるのも、それによって自分が傷つくのも、苦しい。

 だったら、すべて黙って丸く収めた方が、ずっと楽だった。

 それなのに、花は口癖のように言うのだ。

『梶くんはやさしい人』だと。それは、出会う前からそうだった。


 その光に触れるたびに、自分自身が良いものに生まれ変わったような気がして、どんどん離れられなくなっていく。


 ……ほんまは単に怖がりで、臆病なだけのつまらん男やのに、なんでこの子は俺を選んでくれるんやろ。


『何があっても、わたしは一生梶くんが好きだよ』


 これ以上美しい言葉が、この世界に果たしてあるのだろうか。

 子供の頃から、無意識に願い続け、それでも与えられなかったすべてを、彼女だけが与えてくれる。

 これが奇跡でないのなら、いったい何だというのだろう。


「あー……離れたないなあ。このまま全部、俺のもんになったらええのに……」


 今だけは、すべて忘れたかった。


 会社も、モノリスも、ECHOも、それにまつわる煩わしいすべてを。

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