最優先順位が、花
スカイタワーから徒歩数分で、木格子の向こうに小さなお店が見えた。
入口の上、控えめな真鍮のプレートに「出汁と葡萄」という文字がある。
今日の志穂さんのおすすめは、おでんとワインの落ち着いた雰囲気のバル。
曇りガラスの扉の向こうでは、白い湯気がふわりと立ちのぼり、カウンターにはワイングラスがいくつも吊られている。
店内は木の香りと、ほんのりとした出汁の香りが零れていて、身体がほっと緩んだ。
「ここ、すごく素敵……」
「花はこういう雰囲気、好きだと思ったのよ」
案内されたのは奥にある半個室。
木格子のパーテンションでゆるく区切られた空間は、壁に埋め込まれた間接照明が琥珀色に淡く光っていて、冬の夜でも息が落ち着くほど静かだった。
「へえ。風情があるお店やね」という梶くんの一言に、志穂さんがほんの少し満足げに微笑んだ。
杉本さんに促されるまま、奥の席へ梶くんとわたしが、向かい側に二人が並ぶ。志穂さんはタイミングを読みながら、メニューをこちらへ差し出した。
……すごい。よくわからないけど、このカップルにめちゃくちゃ接待されてる感がある。
「梶さんはお酒は嗜まれるんですか?」
「んー。あんまり外では飲まんようにしてるんやけど……」
「わたしもたくさんは飲まないから、一緒に選びません?」
「せやな。そしたら花ちゃんが選んだのをちょっともらうわ」
「梶くんは赤ワイン、好きですよね?」
「じゃあ……そうね。ガメイはどうかしら? おでんの出汁とも相性が良いし、花にも飲みやすいと思うから」
「さすが志穂さん! それにします」
杉本さんが少し遠慮したように、メニューを示した。
「このノンアルコールのスパークリングワイン、どうですかね? 最初の一杯に。貴重な機会だから、乾杯の代わりにしたいんですけど」
「そうね。この辛口タイプの小ボトルなら、四人で分けあえばちょうど良いかも」
「辛口は助かるわ。……花ちゃん、飲める? シャンメリーやないけど」
「……梶くん。わたし、小学生じゃないんですけど……」
志穂さんが口元を抑えて軽く吹き出し、杉本さんはそっと目をそらした。
最初に運ばれてきたおでんの盛り合わせは、湯気の立つ白い浅鉢だった。
かつおと昆布の香りがふわりと鼻に抜け、思わず背筋がゆるむ。
透明に澄んだ出汁の中で、大根は箸を当てるだけで輪郭がふるりと揺れ、半熟卵はつやつやと光っている。
梶くんが、菜箸でゆっくりと餅巾着を持ち上げた。
だしをたっぷり吸って、ふくらみが心なしか揺れている。
「……わあ、おいしそう……」
わたしが思わず呟くと、梶くんが冗談めかした声で言ってくる。
「これ、花ちゃんに似てはらへん? ぷくっとしてて、やわらかそうで」
「似てません!」
即答したのに、志穂さんが吹き出した。
「わかります。花を食べ物に例えるなら、こういう、うまみを吸ってふわっとした質感だと思う」
「解釈一致するのはやめて……」
志穂さんは笑いながら、おたまをそっと鍋の中に沈めた。
ふくらんだ大根を少し押すように揺らすと、じゅわっとだしが染みているのが分かる。
「それなら志穂は……このだし巻き卵かな」
「え? どういう意味?」
杉本さんの言葉に、志穂さんが少しだけ眉を上げる。
彼は、真剣なのか照れているのか分からない声で続けた。
「やさしいのに芯があって、素材の味で勝負ができるタイプ。それに飾らなくても、ちゃんと美味しいから」
「……な、何言ってるのよ。人前で」
志穂さんが恥ずかしげに目を伏せる。その耳が、ほんの少し赤かった。
……杉本さん。あなた、少女漫画の登場人物か何かですか?
すると、それを見ていた梶くんが、わたしの服の袖をつんつんと引っ張った。
「……俺も杉本くん見習って、ここで花ちゃん口説いてもええかな?」
「ぜったいだめ!」
他愛のない会話と、おでんとワインという意外によく合う組み合わせを堪能しながら、ゆっくりと夜は深まっていく。
志穂さんはわたしと梶くんがすごくお似合いだと喜んでくれて、そのことが胸が詰まるくらい嬉しかった。
自分は梶くんには相応しくないんじゃないかと、心の奥に少しだけ抱えていた不安を見透かされたようで、友達のありがたさが身に沁みた。
梶くんと杉本さんは、技術用語を交えて何か盛り上がっていて、梶くんが他の人と話すとき、あんなふうに真面目な顔になったり、少年のように笑うところを見るのも新鮮で、嬉しかった。
そろそろお開きにしようか。
そんな一言を誰かが言うタイミングを見計らい始めたとき、梶くんが意外なことを言い出した。
「──杉本くん、いま、抱えてる案件なんかある?」
「いまですか? 年内はないですよ。年明けからは忙しくなりますが」
「そしたら、今のうちやな」
「……何がですか?」
「スカウトのタイミング」
「スカウト?」
「せや。悪いんやけど、情シス部から俺の秘書にジョブチェンしてもろうてええかな?」
「……は?」
杉本さんが、言われてる言葉を理解できないという顔で固まった。
もちろん、わたしと志穂さんも呆気にとられながら、行く末を見守っている。
「CTO付きの専任秘書が、今すぐどうしても必要なんやけど、色目を使う女性も頭が固い男性も要らんし、面接した全員が俺とはまったく合わんくてなあ。ほんま困るんよね。
まあ、こっちも秘書に求める条件が細かすぎて、あかんのやけど」
「……失礼ですが、梶CTOが秘書に求める条件とは?」
「梶でええよ。CTO呼ばれんの、好きやないし。
条件は、せやなあ……。俺が求めるのは、第一にノイズにならないこと。
杉本くんは、ここを真っ先にクリアしてはる。
今日かて、場の空気を眺めて、出しゃばるところと引っ込むところをずっと読みながら会話しとったやろ。
ああいう気遣いができはる人、そうは居てない」
「いえ、そんなことは……」
「それから、俺と同じ目線、もしくは少し下がってもいいから、対等にブレストができること。これは技術職にしか頼めんけど、杉本くんなら十分合格ラインやった」
その言葉に、杉本さんの顔がぱっと明るくなる。
「他にもいくつかあるけど、杉本くんなら能力的に問題ない。
職位もL2なら、十分CTO付き秘書としてやっていけるやろうし。
……ただ、最後に一番重要なことがある。
正直、これができないなら、どれだけ優秀であっても即、首にするほど、俺がどうしても譲れん条件や」
梶くんの真剣な表情に、杉本さんがはっとした。
「あのそれ……機密事項じゃないんですか? この場で話していいのでしょうか?」
「問題あらへんよ。本人もそこにいてはるし」
「本人……?」
「せや。俺が秘書に求める、一番譲れない絶対的な条件。
……それは、俺にとっての最優先順位が、花ちゃんやって理解できることなんよね」
……梶くんがおかしなことを言い出して、杉本さんが「……は?」と言う顔をした。
もちろん、わたしはワインのせいではなく顔が赤くなり、志穂さんが目を見開いて少し興奮気味に頷いている。
「ちょっと! なんなの、めちゃくちゃ愛されてるじゃない!」
そう小声で言われても、恥ずかしくて返す言葉も思い浮かばない。
「コードを書くとき、杉本くんは集中するためにしてること、なんかある?」
「集中のため、ですか……? そうですね。いくつかありますよ。
通知は基本全部オフにして、必要なウインドウしか開かないとか……」
「つまり、環境ノイズを遮断するってことやろ?」
「そうですね、はい」
「俺もおんなじや。ノイズに邪魔されると、脳がバグる。せやさかい、ノイズ除去は最適な作業環境の必須条件になる」
「……つまり、『何を優先して動くべきか』を誤る人間は、梶さんの仕事にノイズを生む、という理解で合ってますか?」
「さすがやね。その通りや。あんたは今日、花ちゃんをちゃんと大事に扱うてくれた。それは、俺の彼女やからない。
あんたの彼女の大切な友人やから、花ちゃんを尊重してくれた。
……これ以上、信頼できる人間は、あの会社にはそう見つからへんと俺は思う」
「……なるほど。人柄を見て頂けるのは、素直に嬉しいです」
「それで、どうやろ? 秘書、引き受けてもらえるんかな?」
「……大変ありがたいですが、私の一存で決められることではないので、上と相談が必須になります」
杉本さんが申し訳なさそうにすると、梶くんはスマホを取り出した。
「それなら問題あらへん。大事なのは杉本くんの意志だけや。やる気があるか、ないか」
「それなら……はい。あります。秘書経験はないですが、梶さんの下で働けるのは光栄ですし、自分にとっても得がたい経験になると思いますから」
「ん。ありがとお。そしたら、聞いてみるわ」
「え? 私の上司にですか……?」
梶くんは無言のまま、スマホで誰かにメールを打ち始めた。すると、十分もかからずに、小さな通知音が入る。
「ん。オッケーやって。あんさん、優秀なんやね。上が『了解』だけで済ますってことは、経歴がきれいっちゅう証拠やからな」
「あの……上って誰ですか……?」
「んー。聞かんほうがええよ。関わらん方がしあわせってあるしね」
だけど、その言葉とは裏腹に、この場の誰もが解釈を一致させていた。
「鏑木絢香……」
志穂さんが、ちょっとだけ遠い目をして、そう呟いた。
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