この先の人生で

 ──知ってるよ、梶くん。


 鏑木さんがいきなり現れたあの日から、ときどき泣きそうな顔で、わたしを見るようになったよね。


 でもそれを口にしたら、なぜか梶くんが離れていきそうで、どうしても言葉にできなかった。

 だからつい、誤魔化した。自分の不安も、見えない恐怖も。


 本当は、CTOの肩書きやタワマンが怖いんじゃないの。

 あなたが、ある日いきなり手の届かない人になりそうなのが怖いんだよ。

 だって、わたしではその場所に追いつけない。


「ほら、また泣くやん」

「……泣いてないもん」


 梶くんが指で涙をすくい、「嘘が下手すぎる」と少し笑った。

 笑っているのに、泣きそうな顔だった。

 それが怖くて、ますます涙があふれ出す。


「俺、昨日からずっと言いたかったんやけど……」

「──なに、を……?」


 喉がきゅっと詰まって、声じゃなくて空気だけが漏れた。


 ……別れたいって言われたらどうしよう。


 わたしの背中に回される手は、こんなにもやさしい。

 彼の胸は暖かいままだ。

 ……だけど、怖い。


「……花ちゃん、なにしてはるん?」

「しょ、衝撃に備えて……耳を塞いでます……」

「なんでやねん。ちゃんと聞いてほしいんやけど」

「わ、別れ話なら……聞きたくないいい……」


 両手首を捕まれて、再びわたしの顔が梶くんの手によって挟まれる。


「別れ話なんか誰がするかい!」

「ち、ちがうの……?」

「俺が言いたかったんは、花ちゃん、俺と一緒に暮らさへんかなって」

「へ……?」


 涙が引っ込み、もう一回、「……へ?」と尋ねた。


「せやから、この部屋で一緒に暮らさへん?」

「この部屋って……この部屋?」


 脳の情報処理が追いついて、言葉の意味を理解した頃、今度はさーっと血の気が引いた。

 慌てて梶くんの胸を押して、ぶんぶんと首を振る。


「む、無理だよ! ぜったい無理!」


 耳まで熱くなって、パニックみたいに手が動く。


「なんであかんの?」

「だって、ここ、会社の物件だし!」

「会社の物件で同棲したらあかんって、契約書には書いてないし、大丈夫やって」

「こ、ここ現代ダンジョンじゃん!」

「それが何かはわからんけど、花ちゃんのお花畑発動はいつものことやもんな」

「コンビニが遠すぎるし!」

「欲しいものは全部デリバリーで頼めば届くし、買い物行きたいならここの地下にコンビニとスーパーがあるよ」


 梶くんの押しがいつもよりさらに強くて、うまく思考がまとまらない。

 そうだ!


「無理だよ! だってあんなきれいなシューズクロークに、わたしの安い靴なんて並べたくないもん!」

「そしたら今から、花ちゃんの靴買いに行こ。俺がぜんぶ買うから、好きなの選んだらええやん」

「は……?」

「せやから、一緒に暮らそ。な?」


 梶くんの視線が、かすかに震えていた。

 軽い気持ちで言っているわけじゃないことは、わかる。

 少し俯いて、一生懸命、自分がなぜ断りたいと思うのか、その理由に向き合ってみた。

 ……だけど、頭の中の引き出しを全部ひっくり返して探しても、出てくる理由はどうでもいいことばかりだ。

 最後は迷いながらも、わたしは「うん」と頷いた。


 ……なぜなら、結局のところそれは、別れ話よりもずっと素敵な提案だったから。



 そのあと、梶くんはぽつぽつと、昔の話をし始めた。


「……つまり、鏑木さんは、梶くんの先輩の恋人ってこと?」

「元恋人やな。……その先輩はいま……アメリカに転勤してはるし」

「そう、なんだ……」

「せやけど、その人がアメリカに転勤するきっかけを作ったのが、鏑木さんによれば、俺がやったみたいで……だから彼女は、俺のことをめっちゃ恨んではるんやないかと思う。しゃあないけど」


 その言葉を聞いて、鏑木さんが梶くんのことを悪し様に言った、夕方の会議室を思い出した。

 あのときは、わたしを牽制するためにあえて強い言葉を使っているのだと思っていたけれど、違ったのだろうか。


 だけど──と、わたしは強く思う。


「その先輩がアメリカに行った事情はわからないけど、それは、別に梶くんの責任ではないですよね。

 というか、ぜったいに梶くんのせいじゃないですよ」


 梶くんが、驚いた顔を浮かべた。


「……なんでそう思うん?」

「え? だって、梶くん、アメリカですよ!」

「……ん?」

「アメリカって、日本にないって知ってます!?」

「し、知ってる……たぶん、花ちゃんよりは……」

「アメリカなんて、すごく遠いじゃないですか。それに、言葉も違うし、食べ物だって物価だって日本とは違うし。知り合いもきっと日本より少ないだろうし」

「……せやな」

「でしょう? だから、そんな遠い場所に行くってことは、本人が行きたいから行ったに決まってますって。

 だって、誰かのせいにして行くには、かかる労力がすごすぎますし」

「……なるほど。さすが花ちゃんやね。その発想はなかった……」


 そう言ったあと、梶くんが肩をふるわせて、「はははははっ」と笑い出した。


「あーおもろ……なんやろ。花ちゃんと話すと、良い意味で悩みが消えるわ」


 なんとなく、からかわれてる感じではあるけど、梶くんの悩みが消えるなら、まあ良いか。


「あ、でもね。もう一個、そう思う根拠がありますよ」

「……そうなん?」

「その先輩って、ずっと前に梶くんが話してくれた人でしょ?」

「俺……真田さんのこと話したことあった?」

「お名前は存じませんけど、DMで、はじめて映画の話をしたときに、話してくれた人じゃないんですか?

 梶くんに映画の面白さを教えてくれた人でしょ?」

「……なんでわかったん?」

「だって、梶くんから先輩って単語が出たの、そのときだけだし。

 あと……なんとなく、そのときの梶くんの話し方が、すごく大事な人の話をしてる感じだったから」


 ……本当は、すごく懐かしそうな語りぶりに、元恋人なのかなって邪推をしたけど、そこは黙っておく。


「せやけど、それがさっきの話とどう繋がるん?」

「それはね、梶くんは、すごく個人的なこだわりが、たくさんある人じゃないですか。

 着るもの、食べるもの、飲むもの、それに言葉もいつも、すごく気をつけて、選んで話をする人。でしょ?

 だからね、そんなにいろんなこだわりを持つ梶くんの大事な先輩が、素敵な人じゃないわけないなって思うんですよ」

「……せやな。素敵っていうか、ええ人やった……」

「……ですよね!

 だから、先輩がどういう事情でアメリカに行くことを選んだとしても、それを梶くんのせいにするような人なら、きっと最初から、梶くんはその先輩と仲良くはならないんじゃないかなって……」


 そう言った瞬間、梶くんの瞳が大きく見開かれ、少し揺れた。


「か、梶く……ひゃあっ」


 急にソファに押し倒されて、おかしな声が出た。

 押し倒されたといっても、梶くんが左手で後頭部をカバーしてくれていたので痛みはないが、のしかかられた重みで息が苦しい。


「か、梶くん……お、重いです……よ?」


 そう声を掛けようと背中を叩いたとき、彼の身体が小刻みに震えているのがわかった。

 声を押し殺すように肩が震えていて、胸が詰まって何も言えなかった。

 泣いているというより、痛みに耐えているみたいだ。

 呼吸がひゅっと詰まるたびに、彼が今まで抱えてきたつらさが伝わってくるようで、わたしも息苦しくなる。


 こんなふうに泣く人なんだと、初めて知った。

 まるで必死にすがるように抱きしめられて、その指先までも、声にならない痛みを叫んでいるようだった。


 広くて大きな背中を、ただずっと撫で続けた。

 彼の胸に残る苦しみが、少しでも和らぐようにと、心から願いながら。


「…………ごめん」


 しばらくしてから、やっと呼吸が落ち着いたのか、梶くんがぽつりと呟いた。


「謝ることなんて、なにもなかったよ」

「……重かったやろ?」

「梶くんの重みなら、大歓迎だもん」

「そっか……」


 梶くんは自分が起き上がるついでのように、わたしの身体を持ち上げてくれた。

 さっきまで触れ合っていた体温が急に離れて、少し肌寒さを感じる。

 それに気がついたのか、梶くんが大きなブランケットを持ってきて、ふたりでソファに並んで包まった。


 梶くんの涙の跡が、まだ頬に残っている。

 たまらないせつなさが込み上げて、どう伝えたらちゃんと、彼に気持ちが届くのかを考えた。

 わたしは、梶くんが痛い思いをするのも、苦しい思いをするのも、どうにも耐えられない。

 なぜなら──


「わたしね……ずっと思ってたんですけど」

「うん」

「この先の人生で、梶くんより好きになれる人は、もう現れないと思う」


 繋いだ手をぎゅっと握る。

 梶くんがはっとしたように、わたしの顔を見つめる。

 驚いたような、なにかの痛みに耐えているような表情だった。


「……人生でこんなに好きになった人は梶くんだけだし、これ以上好きになれる人には、二度と会える気がしないの」


 梶くんの手からも、同じくらいの強さが返ってくる。


「だからね。何があっても、わたしは一生梶くんが好きだよ。

 梶くんが、どんな秘密を抱えても、それがなんであっても、きっと変わらずに、好きなままだと思う。

 ……だから、梶くんがわたしを要らないって思わない限り、ずっとそばにいたい」

「…………そんなん……思うわけないやん……」

「……うん。良かった……」


 お互いに少し泣いて、しばらくの沈黙のあと、梶くんが言った。


「俺も……俺は…………もし花ちゃんが俺を嫌いやって言っても、手を離す自信がない……」

「言うわけないじゃん! そんなこと!」


 顔を見合わせて、ただ唇が触れ合うだけのキスをした。

 甘くてしょっぱい、胸がぎゅっと苦しくなるような味がする。


 広いリビングが、ふたりの呼吸だけで静かに満たされていた。

 この静けさが、永遠に続けばいいのにと思った。

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