知ってるよ、梶くん。
中に進んで最初に目に入ったのは、間接照明の柔らかい灯りと、ガラス張りの壁一面に広がる夜景だった。
部屋の広さは、当たり前だけれど、玄関の比ではない。
壁も、床も、家具も、どこをとってもモデルルームのような完璧に演出された部屋で、呆然とする。
一体どこに居場所を見つけたら良いのか、ここにひとりでいると、自分の輪郭が曖昧になっていく気さえした。
……これは、あれだ。
学生時代、体育館に一人でいると気分が落ち着かなくなる感じに近い。
「…………白湯、飲もうかな」
思考停止したまま固まって数分、最初に思ったのはそれだった。
そこからのわたしは、気持ちを完全に切り替えることにした。
そう、これはね。
KPOPアイドルが高級ホテルにバカンスに来て、好き勝手に遊ぶVlogコンテンツ。
つまり、わたしに求められているのは怯えることじゃなく、いかに「撮れ高」を上げるか。
そんなことを考え始めたら、ばかみたいに豪華なキッチンも、見たこともないドイツ製の調理器具も、梶くんが絶対に飲まなそうなフレーバーティーのスペシャルなセットも、ただの「道具」に見えてくる。
そこまで考えて、ああ、そうか、と納得した。
……この部屋は、梶くんが用意したんじゃないんだ。
あの革張りの黒いソファも、ピカピカしたダイニングテーブルも、壁面の大型テレビも、絶対に梶くんが好むものじゃない。
部屋全体が機能性よりも見栄えを優先していて、生活の気配がどこにもない。
きっと梶くんなら、この部屋を見てこう言うはず。
「……住みづらそうな部屋やなあ」
そう思ったら、なんだかおかしくて、肩の力が抜ける。
わたしは、目の前の梶くんを信じれば良いんだ、きっと。
もちろん、ここまでの部屋を会社に用意させてしまう、彼の事情はわからないし、問題の根は何も片付いていない。
だけど、梶くん本人から遠ざけられたことなんて一度もないのに、不必要に構えすぎるのも、きっと違う。
……などと言いながらも、明らかに高そうな白磁のカップに怖じ気づき、白湯を飲むのを諦めるところまでが、わたしである。
時計を見ると、時刻はまだ八時前。
梶くんはいつ帰ってくるのだろうか。
少し前にECHOに入れた「マンションで待ってます」は、既読になった形跡がない。
「……映画でも見ようかな」
大画面に少しだけ興奮したのも束の間。
静かな作品を選んだせいか、映画の音が、だんだん遠くなっていく。
ソファの肘置きに頭をもたれかけたまま、まばたきがゆっくり重くなる。
……今日は、もうだめだ。
どれだけ起きていたくても、眠気が先にわたしを連れていってしまう。
そのまま意識がゆっくり途切れて、世界が水の底みたいに静かになった。
どれくらい経ったのかわからない。
ソファが、すこしだけ沈んだ。
誰かが隣に腰をかけたときの、あの独特のゆらぎ。
そのあとで、身体がふわりと浮いた。
夢かな、と思った。
夢にしては、抱き上げられた腕の温度があまりにも確かだった。
かすかに目を開ける。
視界は滲んでいて、天井の照明が輪郭を失っているのに、梶くんの横顔だけが、不思議なくらいはっきり見えた。
呼ぼうとしても声が出ない。
息だけが喉元でふるえている。
「……ええから寝とき」
低い声が静かに落ちて、また意識が遠くへ行く。
ベッドに下ろされるとき、マットレスのやわらかさと、梶くんの温もりのあいだで、一瞬だけ浮遊する。
毛布がふわりとかかった。
肩まで、やさしく。
触れているのか触れていないのかわからないほどの静けさで。
明かりが落ちる。
額にそっと、あたたかいものが触れる。
足音すら立てずに、梶くんが部屋を出ていく。
それがわかるのに、声を掛ける力が出ない。
ドアが閉まるカチリという音が聞こえて、でも、淋しくはなかった。
なぜか、この部屋に来てはじめて、安心に包まれた気がした。
◇
まぶたを薄く開けると、朝の光が部屋の隅を淡く満たしていた。
天井の高い空間だからだろうか、光がゆっくりと層になって落ちてくる。
自宅とは違うシーツの感触と枕の沈み込みに、最初の一瞬、ここがどこなのか本当に思い出せなかった。
だけど、身体を動かそうとした瞬間、すぐ隣の温もりに触れて、泣きたくなるような安堵に心を満たされる。
静かな寝息を立てて寝ている梶くんを見ると、なんでこんなに嬉しくなるんだろう。
彼の肩に少しだけ頬を寄せて、その温度を分けてもらう。
自分の居場所を教えてくれるのは、言葉じゃなくて、こういう時間なのかもしれない。
そのまましばらく目を閉じて、ふと、自分がなぜか、ぶかぶかのTシャツとスウェットを着ていることに気づく。
……そうだ。昨日、映画を見たまま寝落ちして、ここに運ばれて……え? 梶くんに着替えさせられてる……?
恥ずかしさで顔が熱くなりながら、寝落ち、もうしない、ぜったい! と心に誓っていると、背中に腕が回された。
「……花ちゃん、もう起きたん?」
呼吸が耳元に落ちてくる。
寝起きの低くて掠れた声がやさしくて、少し恥ずかしい。
「ご、ごめん、昨日寝ちゃってた……」
「なんで? ええやん。寝とかなあかん時に寝られるんは大事やし」
ゆるく抱きしめられたまま、しばらく呼吸を合わせる。
そこで、はっと気づいた。
いや、わたし、昨日お風呂に入ってないし! 顔も洗ってないですし!
「か、梶くん……。ごめん。シャワー使っていい……?」
「ああ、せやな。場所とか使い方、わかる?」
「えっ。ここって、そんな特殊な機能付きシャワーなの?」
「ちゃうちゃう。特別なことはないけど、花ちゃんはときどき、おかしなことを言いだしはるから、聞いただけや」
「……そんなことないもん」
「それが、かわええんやけどね」
梶くんの甘い声に潜む何かに気がついて、わたしは慌てて身を起こした。
だめだ! ここにいたら流される気がする!
「シャワー! お借りしますので!」
「それ、俺も一緒に使うてもいい?」
「だめ! ぜったい!」
リビングに置いたままにしていたスーツケースを片手に、場所を教えてもらったバスルームへ向かう。
白い木目のドアを開けた瞬間、思わず息をのんだ。
ガラス張りの浴室。
どう使うかもわからないミストサウナ。
光を受けて淡く輝く、白い人造大理石のバスタブ。
無駄に広いシャワーブース。
以前のわたしなら、きっと怯んでいた。
だけど、ダンジョン攻略に成功した今なら言える、このセリフ!
「うん。タワマンならそうでないとね!」
熱いシャワーで完全に目を覚まし、髪を乾かしてリビングに戻ると、キッチンからだしの匂いがふわりと漂ってくる。
カウンターの向こうで梶くんの背中が動いていた。
小さな鍋に白い湯気が立っている。
「……ご飯、作ってくれたの?」
「作ったって言えるほどのことはしてへんけど、昨日は花ちゃんが作ってくれたし、そのお礼やね。そこに座って待っといて」
示されたカウンターにはすでに、焼き鮭にだし巻き卵、ほうれん草のおひたし。
わたし用に小さく盛られた、湯気の立つご飯が並んでいる。
……待って。だし巻き卵の巻き方がプロ過ぎない?
絶対にわたしより上手。
「こんなの……十分すぎるよ。ありがとう」
「ご飯はレンチンで悪いんやけど」
「問題ないよ! 嬉しい!」
梶くんは、なめこと豆腐のお味噌汁をトレイに載せて、わたしの前にそっと置いた。
「いただきます」と手を合わせて、お味噌汁を一口。
「……出汁が美味しい。ほっとする……」
お腹が空いていたため、あっという間に食べ終えてしまった。
食後に玄米茶を用意して、ソファに並んで座った。
梶くんと一緒だと、この高価なソファも怖くなくなる。
「梶くんって、本当にできないことないよね」
「それはないやろ。普通にあるって」
「え? 例えば、何ができないの?」
「んー。マルチタスクはまったくできん。これはもう、俺の脳の特質上、なんともならんやろなあ」
「意外! 並列で何でも処理しそうなのに」
「ないない。深く戻るのは得意やけど、広く浅くはあかん。
花ちゃんは、きっと俺よりずっと器用やろ。仕事やったら、同時にいろんなことできるんやない?」
「……望んでるわけじゃなくて、うちは、複数の問題が同時多発しがちな部署なんですよ。でも、マルチタスクが得意な女性は多い気がする。うちの課長とか」
「その向き不向きは、性差やないんよね。マルチタスクは、ワーキングメモリと注意配分、処理速度、あとはストレス耐性が強い人に向いてる」
その言葉を聞いて、ふと心に影が差した。
「それって鏑木さんみたいに……ですか?」
その名前が口をついて出たのは、意図じゃなくて反射だった。
言った瞬間、自分の声に自分がいちばん驚いた。
……違う、名前を出すつもりなんてなかったのに。
梶くんの少し驚いた、固い顔。
この人にそんな顔をさせる女性がいること。
それを己の迂闊な発言で知らされてしまったこと。
……そのすべてが痛い。
「……ごめんなさい。変なこと言って。あ、お茶淹れ直しますね」
立ち上がろうとした腕を引っ張られ、後ろに傾きそうになるわたしを、梶くんが抱きしめた。
「……あの人になんか言われはったん?」
「……言われてない」
「ぜったい嘘やん。そんなら、なんで泣きそうな顔しはるん?」
……泣きそうなのは、鏑木さんの存在が怖いからだ。
だけどそれを口にするのも、梶さんと彼女の関係を改めて聞くのも、どちらも嫌だった。
「花ちゃん、ちょお、こっち向いて」
ひょいっとわたしを持ち上げて、強制的に身体が梶くんの正面に回される。
俯いて誤魔化そうとすると、今度は両手で顔を掴まれる。
だけど、彼の表情を見てはっとした。
「……なんで、そんな顔……するの?」
真正面から見る梶くんは、なぜか、わたしよりも苦しそうだった。
「……どんな顔? 自分じゃ見えんし、わからんのやけど」
「すごく、つらそうな顔……」
梶くんは重いため息をついて、何かを振り切るように首を振った。
「教えてほしいんやけど……花ちゃんには、いまの俺はどう見える?」
「梶くんは……やさしくて、あったかくて、わたしを大事にしてくれて、大好きな人……」
「でも?」
「……でも……秘密があって、それは教えてもらえない。
あと、わたしの同期のはずだけど……すごく偉い人……違った?」
わたしの言葉の途中で、梶くんが苦みに堪えるような顔をした。
「……違わんけど、別に俺は偉い人やないよ。でも、花ちゃんに言えんことは、たくさんある。それはほんまに……ごめん」
「ううん。あのね、わたしは、秘密を知りたいわけじゃないよ」
「そうなん?」
「うん。秘密ならわたしにもあるし」
「そうなん……? 知りたいから教えて」
「え、やだよ。教えられないから秘密なのに!」
……本当はそんなものないけど、梶くんのつらそうな顔を見ていたら、笑って誤魔化した方が、この場が楽になるんじゃないかと思った。
でも梶くんは、騙されてはくれなかった。
わたしの背中に両腕を回して、ぎゅっと強く抱きしめられる。
「俺、花ちゃんのそういうとこ、めっちゃ好きや。
いつも俺の感情を気に掛けて、気遣うやろ。ほんまにやさしくて、ええ子やなあって思う。
けどもう、嫌なんや。俺のことで、花ちゃんを泣かすんが」
「……わたしは……梶くんが苦しそうなのが、もっと嫌だよ」
──知ってるよ、梶くん。
鏑木さんがいきなり現れたあの日から、ときどき泣きそうな顔で、わたしを見るようになったよね。
そのたびにわたしは、今にも別れ話をされそうで、ずっと怖かった。
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