すべてを知らないわけじゃない

 連泊できる荷物をスーツケースに詰め込み、梶くんが呼んでくれたタクシーの座席に腰を落ち着けた頃には、朝なのに、既に疲れを感じていた。


「ここからなら、品川まで二十分もかからんやろ」

「そんなに近いんですね。タクシーで会社に行くことないから、時間が読めなくて……」


 始業時間には余裕で間に合いそうで、ほっとする。

 梶くんが鞄からカードキーを取り出して、「花ちゃん、はいこれ」とわたしの前に差し出した。


「……え? これって……」

「俺の部屋のルームキー。住所をAirDropで送るわ」

「えっ」


 驚いている間もなく、Otemachi Sky Towerというマンション名と住所が送られてきた。


「大手町スカイタワー……これってもしかしなくても、タワマンですか……?」

「あー、それな。たぶん、俺が抱える機密事項が多すぎて、下手な場所に住めへんねん」

「機密が多すぎるって、梶くん、スパイ映画の人みたいですね……」

「ははっ。そんなん言うんはこの世で花ちゃんくらいやろなあ」


 だから、うちの部屋じゃダメなんだ、きっと。

 ドラマでしか聞いたことのないタワーマンションに、機密をたくさん抱える梶くん。

 隣にいて、こうして手を握られていても、やっぱりどこか遠い世界の人という感じがして、現実感が希薄だった。

 昨日から、ずっとあまり良くない夢を見ているような気がする。


「……やから、って……花ちゃん、聞いてはる?」

「ふぇっ。あ! 聞いてなかったです。なんですか?」

「俺の帰宅時間が読めんから、このルームキーで先に部屋で待っといてほしい。コンシェルジュには話を通しておくし、風呂でも、冷蔵庫でも、全部自由に使ってええから」

「ええっ。家主がいない部屋に入るのは、ちょっと気が引けます……」


 それにコンシェルジュとか、人生で関わったことが一度もないし、響きだけでもう怖い。


「駅前でしばらく待ってるのはダメですか?」

「んー。時間が読めんし、夜遅くまで待たせるのは気ぃが進まんから。それに、花ちゃんが家で待っててくれはるなら、今日の仕事も頑張れそうやし……あかん?」

「……っ。その上目遣い、わざとですよね! もう! わかりました!

 でも、なるべく早く帰ってきてくださいね」

「よかった。そしたら花ちゃん、ちょお、スマホ貸して」

「スマホ……? いいですけど……」


 梶くんはわたしのスマホに何かを打ち込み、画面をわたしに向け、さくっと顔認証でアプリを落としている。


「それ……なんのアプリですか?」


 また何か、新しいアプリでも作ったのだろうか?


「……よし、これでええわ。ありがと」


 スマホを返されて確認すると、車のマークのアプリが増えている。


「これ……配車アプリ?」

「せやよ。これからは、帰宅するときはこれで毎日タクシーで帰って欲しい。俺の部屋に帰るときも、花ちゃんの部屋に帰るときも。支払いは俺のカードに飛ぶように設定したし」

「……は? 毎日って……ちょっと待って。そんな、悪いよ……!」

「悪ない。俺がそうしたいだけや。花ちゃんが安全でおるほうが大事やし」

「ええっ。梶くん、あまりに過保護だし、わたしだってちゃんと働いてるから、タクシーに乗るなら自分で払いますっ」

「いや、あかん。花ちゃんは無駄遣いを嫌うから、絶対に電車しか使おうとせえへんやろ」

「読まれてる!」

「せやろ。それが嫌なんや。はじめて会うた日も、花ちゃん、深夜の都営浅草線で寝てはったやん。あまりに無防備すぎて、びっくりしたんよね」

「やめて! そんな記憶掘り起こさないで!」

「花ちゃんは、普通の子ぉよりたぶん、危機意識が薄い。それに、周りがあんまり見えてへんから無防備すぎる。それ、俺にとっては全部心配事なんやって。

 花ちゃんが安全でないと、仕事が手につかんくなるから、ほんまにやめてほしい」

「……うう。ご、ごめんなさい」


 自分がそんなに心配を掛けているなんて思いもしなかった。

 けれど、指摘されたことに反論できるほど、危機意識なんて持っていない。

 待って。それって標準装備が基本なの?


「せやから、俺のためにも、タクシーで帰ってくれへん?」

「だからその顔しないで! もう! 乗れば良いんでしょ! わかりました!」

「帰ったらアプリの使用情報で確認するし、嘘ついたらお仕置きな」

「ふぁっ!? お、お仕置きってなに……?」


 梶くんがわたしの耳元に唇を近づけて、ごにょごにょと内緒話をした。


「ばっ! い、いま、朝ですよ!?」

「はははははっ。あー元気出た。もうすぐ花ちゃんの会社やね」

「ええっ。あ、運転手さん、その建物の陰で降ろしてください! 正面じゃなくて!」

「正面やとあかんの?」

「普通の会社員は、会社の前にタクシーを横付けなんてしないんです!」


 昼休み。おにぎりを片手に、梶くんのマンションを検索して、「ひっ」と思わずおかしな声が出た。


 ……こんなのもう、普通のマンションですらないじゃん……。


 大手町スカイタワーは、地上三十階建ての複合タワーだった。

 アペックスホールディングスから徒歩五分の距離にあり、低層階には大型商業テナント、中層階はオフィスフロア、高層階が居住区レジデンス

 買い物も病院もジムも美容院も、全部この建物でまかなえてしまう。


 え……ここ、入居者にドレスコードとか、ないよね?

 今日のシンプルな服で、コンシェルジュに止められたりしないだろうか。

 京都で梶くんが住んでいた部屋も、広くてきれいでおしゃれだったけど、ここはもう、次元が違う。

 ラノベのお約束、「実は彼氏が御曹司でした」的な展開を読むのは好きだけど、現実に起きたらただのホラーだ。


 ……シンデレラが王子様と結婚できたのは、きっとものすごく精神的に徳が高かったからだよ。

 わたしみたいな普通の庶民には、梶くんの立場は、理解したくてもできるかどうか、自信がない。


 小さくて形のない、置いていかれそうな影が、胸のどこかにふっと生まれた。

 梶くんの手の温かさは、いまこの瞬間も信じられる。

 それなのに、ひとつ何かを知るたびに、不安の種が静かに芽吹き出してしまう。


『梶雪斗という人の、なにを知っているの?』


 記憶の底に埋めたはずの鏑木さんの言葉が、急に蘇る。


 ……すべてを知らないわけじゃない。

 だけど、理解できていないことがあまりにも多すぎる。


 手のひらに持ったままのおにぎりは、妙に冷たく感じられて、それ以上食べる気になれなかった。

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