奇跡みたいなこと

 朝の五時、アラームが鳴らなくても自然に目が覚めた。

 胸の奥がまだ落ち着かなくて、浅い眠りのまま朝を迎えたのだとわかる。


 隣では梶くんが深く眠っていた。

 昨日の朝、京都から移動してきて、そのままずっと働いていたというのだから、よほど疲れているんだろう。


 起こさないようにベッドから抜け出し、熱いシャワーを浴びる。

 顔に当たる蒸気でようやく目が覚めてくる。

 鏡をのぞくと、まぶたの腫れが昨夜を物語っていた。


 保冷剤でしばらく目元を冷やしたあと、電気ポットのスイッチを押し、藍色と桜色のマグカップをふたつ、キッチンに並べる。

 小さな沸騰音が、静かな部屋にふわりと満ちていく。

 私のカップにだけ白湯を注ぎ、両手で包むように持ちながら、湯気を味わうように一口啜る。

 一息つくと、昨日の出来事がひとつひとつ浮かんできた。


 梶くんが昨夜、急いで駆けつけて、抱きしめてくれたことが嬉しかった。

 それでも、会議室で見た知らない男の人みたいな顔が、頭から消えなかった。

 ……何が真実で、何が嘘なのかわからない。

 だけど、彼の胸の温度も、やさしい眼差しも、こちらに届くときには全部本物だった。

 もしもあれが嘘だと言うなら──いっそ、すべて嘘のまま、わたしを抱きしめてほしいと思うほどに。


 窓の外はまだ夜のままで、冬の朝はこんなにも長くて静かなんだと知る。

 だけどその静けさが、昨夜の涙と、今日の不安の両方をそっと包んでくれているようだった。


 お米を研ぎ、小さくカットした昆布のだしを落として、炊飯器のスイッチを押す。

 鍋に水を張って火をつけ、野菜室から人参と玉ねぎ、じゃがいも。冷凍庫からは小分けにした豚肉を取り出す。

 今日は具だくさんの豚汁にしようと決めた。

 梶くんは昨日、まともに夕飯を食べていない気がするから……わたしもだけど。


 ふと外を見ると、窓の外では、雨が細かく降っている。

 真っ白な空の向こうに、冬の気配がかすかに沈んでいた。


 炊きたての白いごはんは、湯気が甘くてやさしい。

 温かさを逃がさないように、両手で包むようにして、おにぎりをひとつ、またひとつ。

 彼がおいしく食べられますように──そう願いながら、きれいな三角にする。


 無心でおにぎりを握っていると、背後から温もりが寄り添った。


「おはよお。花ちゃん、朝早くからご飯つくってくれはったん?」

「……おはよう。うん、梶くんがお腹空いてるかなって。……ごめんね、玄米は時間がかかるから、今日は白米だけど」

「めっちゃ嬉しい。シャワー借りてもええ?」

「うん。着替えも自由にクローゼットから取り出してね」


 うちには、梶くんが用意した彼の私服がいくつかある。

 クローゼットの端に並んだそれを見つけるたびに、この部屋に彼の気配が自然に混ざっていることが、今まではただ嬉しかった。

 だけど今日は、こんなに近くにいる彼を、果てしなく遠く感じる自分が、ひどく滑稽に思えた。


 このあと、どんな顔で、何を話すんだろう──。

 昨日は泣き疲れて、彼の腕に抱き寄せられたまま、息が落ち着いた瞬間に眠ってしまった。

 まるで赤ちゃんをあやすみたいに、背中をゆっくり撫でてくれていた感触だけが、かすかに残っている。

 あの続きの会話を、まだ交わせていない。


「あ……作りすぎた?」


 冷凍するときの癖で、三合もお米を炊いてしまった。無心で握ってるうちに、大量のおにぎりができあがる。

 ……今日のお弁当にしようかな。


 テーブルにラップをふんわり掛けたおにぎりを並べて、梶くん用の白湯を沸かす。準備を整えていると、ジャケットにタートルネック姿の梶くんが戻ってきた。


「あー……めっちゃおいしそう。朝から忙しかったやろ? ごめんな、手伝いもせんと寝てて」

「大丈夫だよ。たいしたものは作ってないし」

「なんか……いっぱいある」


 梶くんはテーブルに並んだおにぎりをひとつ手に取り、まるで宝物でも扱うみたいに、指先でそっと形を確かめていた。


「ごめん。ぼんやりしてたらたくさん作っちゃって。でも、食べられる量だけでいいからね。わたしがランチ代わりに包んで持って行くし」

「ええなあ。俺の分も包んでほしいわ」

「え……?」


 CTOがおにぎりをランチに……?

 そういう人って、よくわからないけど、ビジネスランチをするものなんじゃないのだろうか?

 その一瞬の思考を読んだのだろうか。

 梶くんは眉を下げて笑った。


「……あかんかった?」

「あかんくないけど……その、いいのかなって……わ、わからなくて……」


 何が、とは言えなかった。

 だけど、前ならすんなり受け入れられた言葉ひとつにさえ、こんなに不安になる。泣かないように何度か瞬きをしていると、急に手を握られた。


「俺のおにぎりは、花ちゃんがずっと握ってくれはるって言うたやん。……あれ、嘘やった?」

「う、嘘じゃないよ……」


 涙腺が一瞬で決壊して、その刹那、梶くんが椅子から立ち上がる音がした。

 ぎゅっと抱き寄せられて、彼のジャケットに涙が触れないように両手で顔を隠す。


「ごめんなあ……俺のせいで、たくさん傷つけて……」


 違う。あなたのせいじゃない。

 そう言いたいのに、自分でも何に傷ついているのか、うまく言葉にはできなかった。

 何も言えずに必死に首を振ると、梶くんがそっとわたしの肩に手を置いた。


「言えへんことが多くて、ほんまにごめん……。でもそれは仕事のことだけで、それ以外のすべては、隠すようなことはなんもないよ。

 花ちゃんには絶対に嘘をつきたくないし、黙るしかないことも多いけど、不安はちゃんと受け止めるから、我慢せんで欲しい」

「き……昨日……っ」

「うん、昨日はほんまにごめんなあ」

「そうじゃなくて……梶さんが、しっ……CTOって知って……わたし、知らなくて……」

「そらそやね。だって、俺がCTOになったの昨日やし」


 その言葉に、思わず顔を上げて彼を見た。


「……そう、なの……?」

「せやよ。一昨日まではただの京都のサポートセンターの一社員やったのに、おっかない人がいきなり、俺をCTOにします言うて、勝手にマンション引き払われて、ほんまええ迷惑やったわ」

「……ええっ?」


 驚きすぎて、涙が引いてしまった。

 でも梶くんの顔は、嘘を言っているようにはとても見えない。

 どちらかというと、何もかも諦めた子犬みたいだ。


「……うちの人事って、そんなに急なんですか?」

「んー。俺にもよおわからんけど、そうした方が都合がええっていう上の判断なんやろね」

「じゃあ……わたし……梶くんの彼女のままで、い、いられ……」


 言葉を言い終える前に、キスで唇が塞がれた。

 顔を梶くんの大きな両手で掴まれて、逃げ場がないほどに求められる。

 それは言葉よりも雄弁な答えで、息もできないほどに、心の奥が満たされる。


「なんで俺が花ちゃんを手放すって思うんや……冗談でもやめてくれ……」

「ご、ごめんなさい……」

「ちゃう。そんなことを花に言わせる、俺が悪い。花ちゃんは謝る必要なんてあらへんさかいに、ほんま、堪忍な」


 梶くんはしばらくわたしの身体をぎゅっと抱きしめたままで、重いため息をついた。


「はあ……会社、行きたないなあ……」

「……っふふ」

「あ、やっと笑うてくれた?」

「だって、梶くんが子供みたいだから、可愛くて」

「俺もうすぐ30になるんやけど……」

「うん。子供みたいな梶くんが……だ……」


 ──大好きだよ。

 そう言いたいのに、急に胸がいっぱいになって、うまくは伝えられなかった。


 好きな人に、ただ好きだと伝えられることが、こんなにも奇跡みたいなことだと、今まではわかっていなかったから。



 おにぎりをそれぞれのランチ用に包む。梶くんの希望で、彼だけスープジャーに豚汁を容れた。

 泣きすぎて再びボロボロになってしまった顔を、コンシーラーとチークで整え、丸ぶちの細いフレーム眼鏡を掛けて誤魔化してみる。


「……かわええ! 何それ、めっちゃかわええやん。花ちゃん、眼鏡似合うなあ」

「……梶くんのそれ、小学生の女の子に言ってるみたいで嬉しくないです」

「そんなことないって」


 ……絶対にそうだよ。だってはじめて会ったときと同じ顔してるし。

 童顔なのは佐々木家のDNAのせいだもん。


「あーかわええなあ。連れて帰りたい。……せやっ。花ちゃん、今日うちに泊まらへん?」

「うち? 梶くんの部屋ってことですか?」

「明日土曜やし、今夜から一緒に過ごせたら嬉しいんやけど……」


 行ってみたい。

 でも、梶くんの部屋ってことは、もしかしなくても会社が用意した物件なのではないだろうか?

 ……なんとなく、鏑木さんの顔が頭に浮かんで、あまり気が進まない。

 あの人が知ったら、また何か言われそうで身が竦みそうになる。


「それって、会社の用意したマンションってことですよね? ちょっと、恐れ多くて行きづらいです。……うちでまた会う、じゃダメですか?」

「んー。それでもええんやけど、セキュリティ的にはちょっとまずいんよね」

「セキュリティ……?」


 その言葉に、小さな違和感を感じた。

 オートロックがあるだけじゃ、ダメってことなんだろうか?


「確かに会社が用意した部屋やけど、別に他の役員が住んでるわけやないし、会社の人と顔を合わせることもないよってに、心配せんでええよ」

「そう……なんですか?」

「うん。それに、まだ生活用品もそろえてないし、週末はできたら買い物に付き合うてほしいし」

「……っ。そ、それは……ちょっと行きたいかも」


 そう誘われると、気持ちが緩んでしまう。

 生活用品と週末の買い物なんて、同棲を始める恋人みたいだ。


「せやろ? 花ちゃん、生活雑貨見るのほんま好きやもんね。やっと遠距離解消したし、おそろいの食器とか買いに行かへん?」

「……行く……」

「よし、そしたら三日分泊まりの準備して。タクシー呼ぶから、会社まで送ってくし、荷物多くてもええよ」

「ええっ!」


 ……もしかしたら、CTOって電車とか乗っちゃいけないって契約書にあるのかな? 雲の上すぎて、イメージがつかめない。

 っていうか、泊まる日数も増えてない?


「わたしは自分で電車で行くから、大丈夫だよ!」

「なんでなん……? 俺はほんのちょっとでも一緒にいたいのに、花ちゃんは違うん?」

「……っ。その上目遣い、止めて!」


 気がついたら全部丸め込まれ、この週末はずっと梶くんの部屋で過ごすことになった。


 さっきまで胸を占めていた不安は、まだ完全には消えていない。

 だけど──目の前で笑う梶くんと、こうしてくだらないやり取りをしていると、怖いことも、難しいことも、ひとつずつ乗り越えられそうな気がした。

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