Side Kaji:もう安全じゃない

 マンションに戻る頃には、外の温度は氷点下近くまで落ちていた。

 つい一時間前のことが、いつか見た悪夢のようなフィクションに思えたが、部屋の灯りをつけると、ようやく現実感が戻ってきた。


 鞄を置き、クラッシュしたモニターデバイスをそっと机に置いた。

 外注の端末らしい無骨さ。

 電源を入れても、白い画面が一瞬光って沈黙するだけ。

 いったい、彼らにどこまで読まれたのか、まずは状況を把握する必要がある。

 だが改竄ログは一切残っていない。

 人間には不可能な、綺麗すぎるクラッシュだった。


 額に手を当て、深いため息をつく。


「……こんなんどう考えても……狙い撃ちやろ」


 あのクラッシュでアペックスが被害を受けた金額を思うと、頭が痛い。

 それでも、海堂にすぐ連絡する気にはなれなかった。


 海堂は正しい判断をする。

 けれど今、求めるのはそれではなく、事実を冷静に読む目だった。


 嫌いな女の名前が脳裏をよぎる。

 できたら、もう彼女には関わりたくない。

 けれど、同時に嫌というほどわかっている。

 この局面に必要な人材が誰なのかを。


 ──外資の手口を読むのは、海堂より鏑木絢香の方が圧倒的に早い。

  何より、アペックス全体を俯瞰して、最善を選べる人間。


 ……一番頼りたくないのに、腹が立つほど頼りになるってどないやねん。


 コートのポケットからスマホを取り出した。

 開くのは、通常のメッセージアプリではない。

 先月末に、絢香が会社経由で送りつけてきた、暗号化チャットのアイコンが小さく光っている。

 絶対に使わないと思っていたホットラインを、ここに来て、使わざるを得なくなっている現実に苛立つ。

 だが、今はすべて飲み込むしかなかった。


 数度の呼び出し音のあと、涼やかな声が落ちる。


「……鏑木です」

「あー……なんやよう分からんけど……近々、アペックスに概算で五千万近い請求書が届くんやないかと思うんで、その報告です」


 一瞬、息を呑む気配。

 けれど次に返ってきた声は、氷のように落ち着いていた。


「……聞くわ」


 海堂なら三十分は説教と愚痴を食らう場面だが、演算が速くてほっとする。

 軽く咳払いをして、今日起きたことを順番に報告し始めた。


 すべての説明を終えると、ホットラインの向こうで、わずかな沈黙が落ちた。

 いつもの、余計な音が一切ない絢香の無音。

 これは、彼女が一秒で百の選択肢を切り捨てていくときの癖だ。


「……なるほど。そういう攻め方ね」


 吐息のように落ちた声が、背筋を冷たくする。


「まず確認させて。あなたの説明の通りなら──今回のクラッシュは、侵入でも不正アクセスでもなく、アプリケーション層(L7)を突いた変形型DDOS。……違うかしら?」

「……はあ、よくご存じで」


 ……この女、プログラマーやなかったよな?

 あかん。考えたら負けや。


「OK。じゃあ、答えだけ言うわね」


 彼女の声は、氷の縁をなぞるみたいに温度がない。


「これはね、梶くん。

 技術で勝つ気がない相手の手口よ。

 あなたのロジックも、コードも、解析力も──彼らは、最初から問題にすらしていない」


 喉の奥が、わずかに乾く。


「勝つ気がない……? ほな、何が目的なんや」

「おそらく、折りにきたのよ。あなたを」


 瞬きの音すら消える。


「外資の投資部門が、こういうやり方をするのはひとつだけ。

 あなたの技術力を測るためじゃない。

 あなたの防衛ラインと報告ラインを測りにきてるの。

 つまり、あなた自身が何者であるかを」


 胸の奥で、気づきたくなかった何かがひっそり動く。


「……じゃあ、今日の負荷の量も、落ち方も、全部──」

「ええ。計算されてるわ。落ちるギリギリを狙ってる。

 破壊しない攻撃は、向こうの常套手段なの」


 絢香の声が、ほんの少しだけ深くなる。


「クラッシュは目的じゃない。

 あなたが何者で、誰にその報告をするか、そしてその結果を探るのが、本当の目的」

「なんやねんそれ……そんなことのために、あっちは数億近い金を飛ばしたんか。……正気やないやろ」

「……そうね。その通りよ。でも、今日の梶くんは満点回答だから、安心して。

 あなたは他でもないわたしに、真っ先に連絡した。それで十分」


 言葉の意味が、ゆっくり冷たく沈む。


「外資は、あなたを囲いにきてる。

 モノリスを手に入れる前に──まず、あなたの判断回路をハックする気ね」

「……なんやそれ」

「悔しいけど、エリック・ゴールドマンは賢いわ。

 あなたの脆いところを一発で突いてきてる。

 金と、権限と、プレッシャー。

 あなたが一番苦手にしていて、一番弱いところ」


 絢香が一度、息を吸う音がした。


「梶くん。相手はね、あなたのコードじゃなくて、あなたの心の防御壁を壊しにきてる。

 ……だから言ったじゃない。巻き込む前に、大事な彼女とは別れた方が良いって」


 かすかに、指先が震えた。

 彼女は冗談を好むタイプの人間ではない。

 だけど、これが本気なら、あまりにも軽口過ぎる。


「でも安心して。被害を受けた以上、これからは、こちらも以前より堂々と対応できる」

「……なんでそんな落ち着いてんねん、怖すぎるわ」

「慣れてるからかしら。……それに、能力の高い相手と対峙するほど、自分の引き出しも増えるじゃない?

 それが楽しいのかもしれないわね」

「そ、それはよかった……ですね?」


 ……あかん。脳が処理落ちする。

 ほんま、なんで真田さんはこんな恐ろしい女と何年も付き合うとったんや。


 少しの沈黙のあと、氷点下の水面みたいな声が落ちてきた。


「……梶くん。ひとつだけ確認させて」

「はあ、どうぞ」

「あなた、今回の件について自己判断で隠匿する選択肢を、一度でも取る気はあった?」

「はあ? アホ言わんといてください。こんな桁の損失、隠せるわけないやん」

「そう。じゃあ、次の仕事はもっと簡単よ。──責任を取ってもらうだけだから」

「は?」


 何を言われたのか、すぐには理解できなかった。

 というより、理解できるような言い方を、彼女がするはずもなかった。


「明日、あなたをアペックスの最高技術責任者に任命します。

 正式な辞令も、権限移譲も、そのための人事手続きも全部、実はかなり前から動かしていたの。

 あとは、あなたの承諾待ちだっただけで」

「……はあっ? なんの冗談や」

「言っておくけど、拒否権はゼロよ。

 それとも義務を放棄して、負債を負うの?

 五千万を自分でかぶる気はないでしょう?」


 絢香の声は微塵も揺れない。

 こちらの抗議を遮るように淡々と言葉を重ねた。


「外資の攻撃は会社への攻撃でもあり、あなた個人への評価でもある。

 この二つが重なったとき──アペックスはその技術者を守る義務を負うのよ。

 守る手段はひとつ。

 つまり、昇格と権限付与。

 あなたを会社そのものにすること」


 喉奥で、乾いた音が鳴った。


「……それ、守るいうより、盾にしてるだけとちゃいますか?」

「違うわね。盾にしても折れない技術者だから、ここまで引き上げるのよ」

「……………」

「自分の頭脳に感謝して、明後日、役員専用フロアに来てくれるかしら?

 後藤田社長と但馬専務にも、話は通しておくから。

 あなたがどんなに嫌がっても、これは会社の決定よ」


 彼女はそこまで言ったあと、ほんの少しだけ声を和らげた。


「海堂常務にも報告が必要かしら?」

「……いや、そこは自分でするんで結構ですわ」

「そう。じゃ、切るわね。お疲れさま」


 あっけないほど即座に通話が切れ、部屋に静寂が戻る。


「……今日のこれ、最初から最後まで、この人のシナリオやないよな……?」


 疑問に答えるものは、この場にはいない。

 机の端で待機していたECHOが、「わかんない」と言いたげに、かすかに耳を震わせた。


 だが、鏑木絢香に本当の意味で驚かされたのは、その翌日だった。


 早朝、午前六時にインターホンが数度鳴った。

 眠気と疲労の残る頭で、スマホを操作してモニター越しに対応する。


「……どちらさんどすか?」


『こんにちはー。ライオン引越センターです! この度はおまかせ単身パックでご依頼をいただきまして──』

「は?」

『お荷物はこちらで全部詰めますので、貴重品だけお手元に──』

「いや……え? 引っ越し?」


 玄関の前では作業員が慣れた動きで台車を整え、床はあっという間に養生テープで保護されていく。


 ……こんなん、考えんでもわかるわ。犯人はいつも一人やろ。


 スマホが震えた。

 見たくもないホットラインのアイコンが光り、メッセージが届く。


― 梶くん。起きてる?


「いや起こされとんのや……」


 渋々開くと、一行だけ表示されていた。


― 京都の部屋は今日中に引き払って。荷物は東京の社宅へ直送依頼済み。


「……は?」


 顔を洗う暇すらなく、目が完全に覚めた。


 作業員たちはこちらの反応など関係ないとばかりに、手際良すぎる速度で次々と段ボールを積み上げていく。


 スマホが再び震えた。


― 家具は最低限だけ東京に送る。生活用品は全部こちらで新調するから心配しないで。

 あなたの時間は高い。荷造りするなら仕事してちょうだい。


 ……なんやこの庶民感ゼロの文章。

 そういやこの人、ほんまもんのお嬢様なんやっけ。


― あなたの京都での生活圏は、もう安全じゃない。

 外資の観測パケットは、地理情報も含めて収集されてる。

 昨日の時点で、京都からの移動は必須です。


「……はあぁぁ……」


 頭を抱えてしゃがみ込むと、ライオン引越センターの作業員が笑顔で言う。


「ご安心ください! この物量ならそんなに時間はかかりませんから!」


 その明るさが、逆に刺さる。

 さらに追い打ちの通知が届く。


― 午前九時台京都駅発ののぞみを取ってあります。

 あなたのSuicaは自動チャージ上限を引き上げておいたから使えるわ。

 正午前には東京に着くから、そのまま本店の役員ラウンジへ来て。

 引越しの立会人は、サポートセンターから若手社員を派遣したから安心して。



「……いや、こっちを不安にさせとんの、完全にあんたやろ……」


 悪い夢じゃないのかと思いながら返信する。


― あんた……昨日の時点でどこまで準備して……。


― 全部よ。あなたが私に連絡した瞬間に、この予定が決まったの。

 そういうものでしょ、危機管理って。

 それにね、CTOが地方拠点に常駐とか、あり得ないのよ。

 昨日のクラッシュの後処理は山ほどあるし、さっさと東京で仕事して。



 返す言葉がなかった。


 大型家具がほとんど運び出された後の部屋は、驚くほどがらんとしていて、思い出ごと塗りつぶされていく気分だった。

 花と一緒に過ごすために買ったダークグレーのソファも、彼女のためにそろえた食器も、まるで過去の清算のように部屋から消えていく。


 ……せや。花ちゃんに連絡せな。


 この状況におけるせめてもの救いは、彼女と物理的距離が近づくことだけだ。

 引越センターの作業員が飛ばす指示の声だけが、妙に明るくて、今の自分にはひどく場違いだった。


 新幹線のホームに立つと、冬の風が頬を刺した。

 車内に戻って席に沈む頃には、京都の街がもう遠ざかっている。

 東京へ戻るのは既定路線ではあった。だが、ここまで速まるのは予定になかった。


 七条のホテル群、河川敷、枯れた田畑。

 景色が線になっていくほど、息苦しさが濃くなった。

 スマホに視線を落とし、ため息をつく。

 早朝届いていた、追加メール。


― あなたが東京へ向かっていることは、まだ機密。彼女にも言わないこと。


 ……どこまで先読んどんねん、この人。


 ECHOで花に話しかけようとした、その瞬間を狙われた。

 監視カメラでもあるのかと疑うくらい、タイミングがえげつない。


 ここ数日、花とはまともに話せていない。

 彼女から届くメッセージは、「今日のランチはエネルギーバーだけです」という他愛ないものばかりで、こちらは短い返事しか返せていなかった。


 声を掛けたい。安心させたい。

 けれど──今なにかを話せば、どこかに嘘が必要になる。

 それだけは嫌だった。


 窓の外では、冬枯れの山がゆっくり遠ざかっていく。

 東京が近づくほど、空の色が濃く、暗くなっているように見えた。

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