Side Kaji:信頼の問題
大手町、アペックスホールディングスの役員専用ラウンジに入るのは、一年ぶりだった。
扉を開けた瞬間、深い紺色のカーペットが足音を吸い込む。
壁一面の窓から、冬の光を含んだ東京湾が遠くに見えた。
会議用テーブルの表面だけが、静かに白く光っている。
窓際の席で、海堂が腕を組んでこちらを睨んでいる。
他には誰もいないことに、少なからずほっとした。
海堂はスーツの襟元が固く、表情には隠しようのない怒気が浮かんでいる。
開口一番、挨拶もなく「お前……報連相って知ってるか?」と唸るように質問された。
「……ああっ。言われてみたら、忘れてました。
なんやようわからんうちに、CTOになることになりまして。海堂常務におかれましては、これからもよろしゅう頼んます」
肩を竦め、ゆっくり椅子に腰を下ろす。
「そっちじゃない! 外資からの攻撃を、なぜ俺に真っ先に言わなかった」
重い空気がテーブルの上に落ちる。怒気の奥には、焦りの匂いが混じっていた。
外資の仕掛けが、役員階層でも掴みきれない速度で深部に入り込んでいるのだから、無理もない。
そうわかっていても、こちらにも譲れないものがあった。
「ああ、そっちですか。理由はふたつあるんやけど……良い方と悪い方、どっちから聞きます?」
「……悪い方からだ」
「へえ、意外やった。海堂さんは良いニュース派やと思うてたけど、ちゃうんやね」
指先でテーブルを軽く叩いてから、静かに続けた。
「んー……そやなあ。率直に言うて、いまの海堂さんが信頼に足るか、よお分からへんねん」
海堂の眉がわずかに動く。
「あんたは嘘はつかん人や。
けど、いざというときの判断基準が、俺に偏りすぎる。
ここから先、俺の彼女を何らかの社内事情に巻き込んだところで、あんたの胸はさして痛まんのやろ?」
花はなんの力も持たないただの社員だ。役員レベルの差し金など、彼女自身に防げるものではない。だからこそ、徹底して守る必要がある。
海堂が息を止めたように静まり返ったが、無視して続けた。
「……けど、それじゃ俺は困る。
せやさかい、今は距離を取るのがお互いのためやと判断した」
その言葉に、海堂の表情がようやく揺れた。
普段なら絶対に見せない困惑が、そこにある。
「……俺は、そこまでお前の信頼を損なったのか」
視線を外に向けたまま、低く言う。
「前に言うたはずや。これは、信頼の問題やって」
冬の日差しが、窓の外では確かに光っているのに、二人の間だけ、温度が違っていた。
「……言い分はよくわかった。彼女を決して巻き込まないよう、最大限留意する。だが端から、俺自身はそんなことを全く望んでいないことだけは、わかってほしい」
「……ええですよ。俺も、海堂さんを悪い人やなんて思うてへんし」
しばらくの沈黙のあと、海堂は「それで、良い理由ってなんだ?」と、目の前の椅子に座り直した。
「良い理由は、あんさんは鏑木絢香じゃないってことやね」
「……は?」
海堂の眉が、わずかに引きつった。
「言うとくけど、これ、今の俺の中では最大級の褒め言葉ですよ?」
「お前……容赦ないな……」
そのとき、背後の空気が、妙に静まり返った。
振り返ると、噂の本人が音もなく、こちらへ近づいてくる。
「……お疲れ様です。海堂常務。本日はありがとうございます」
「いや、鏑木室長も昨夜から大変だったと聞いているよ。ありがとう」
「職務ですから」
絢香は温度の見えない顔で、淡々と返す。
昨日知ったことだが、彼女はアペックス本社の技術戦略室を束ねる室長で、役員案件の実務をほとんど一手にさばいているらしい。
……偉そうな人間やなくて、偉い人やったんやね。
「ところで、お二人がそろっているということは、既にCTO就任の内示は終えたという認識でよろしいですか?」
「いや、梶が到着したばかりだから、これからだ」
よくは理解していなかったが、海堂がここにいるのは、文句を言うためではなく、常務役員としての務めだったようだ。
海堂はそこから、完全に常務としての表情に切り替え、形式的ではあるがCTO就任の打診、現在の外資からの攻撃状況の聴取、注意喚起を執り行った。
最後に、一段難しい顔をする。
「あー……わかっていると思うが、CTOになると以前とは比べものにならないほど、機密が増える。当然ながら、佐々木さんへの情報制限は意識してもらう必要があるわけだが……」
「ははっ。指摘されるまでもないですよ。どんだけ俺が守秘義務に縛られてるか、一番ご存じなんは海堂常務やないですか」
「わかった。それじゃ最後になるが、お前は本当にこの道を選んでいいんだな?」
「……どういう意味ですか?」
「つまり、政治的な覚悟があるかを問うている。
CTOになれば、事実上アペックスの執行役員待遇だ。環境のすべてが、一社員時代とはかけ離れたものになるだろう。
お前には専任秘書の他、このビルの役員専用フロアに個室も与えられるし、スケジュール管理も秘書の仕事だ。自由気ままに働くことは難しい。
そして、当然与えられる職務内容が大きく変わる」
思わず鏑木を振り返った。
「……やっぱり断ってもええですかね?」
「そうですね。無理です」
「……決断の早さがおかしいやろ」
「海堂常務。内示をありがとうございました。梶さん。新任CTOとして、まず統制手続きを経ていただく必要があります。こちらをご確認ください」
……話聞く気ゼロかい。
「こちらが役員イントラ、権限設定申請、各プロジェクトの機密レベルです。
モノリス関連はあなたの判断優先。ただし、社外監査については私が窓口になります」
タブレットを受け取った瞬間、その情報量の多さに、一瞬思考が止まる。
……何やこれ、京都時代の十倍は重いやんけ。
彼女は感情のない顔で、淡々と説明を続けた。
「……ところで、これから社長室に行ってもらうつもりだったんですけど、あなたの服装、なんのつもりなの?」
「なんのって……早朝に叩き起こされて、引っ越し強要されて、新幹線に間に合うよう走らされて、今ここにおんのやけど。
「……役員ラウンジへ招集をかけられて、ジーンズにパーカー姿って。残念ながら、ここはシリコンバレーじゃないの。今後は自覚を持ってちょうだい」
絢香は呆れた顔で、CEO付きの秘書と通信を繋ぐ。
それからしばらく三人で、外資への対応について話し合っていると、扉が静かに開き、後藤田が姿を見せた。
それまで張りつめていた空気が、彼の足音ひとつでほどける。
「……初日からCEOに足を運ばせるってさすがだよなあ」
「CEOの前でぼやきは不敬やろ、海堂常務」
後藤田の顔を見るのは一年ぶりだった。
記憶よりも少し疲れて見えるのは、もしかしなくとも昨日のクラッシュに原因があるのかもしれない。
冬の日差しを背に立つ姿は、海堂や絢香とは違う種類の静けさをまとっていた。
しかし、気のせいかもしれないが、彼の秘書たちがこちらを睨んでいるように見えて落ち着かない。
もしかしてCEOが役員ラウンジに自ら降りてくること自体が異例なのだろうか。
だとしたら、文句はあの氷の魔女に伝えて欲しい。
「梶くん。本日付で、CTO職を任命する」
差し出された電子辞令を受け取る。
後藤田の声には、感情を煽らずに相手を包む間があった。
こちらに向けられる眼差しの穏やかさが、なぜか、亡くなった祖父に重なり、急に胸が苦しくなる。
祖父も、人を見る目が温かい人だった。
後藤田の人となりが、彼を思い起こさせるのだろうか。
「君の今後の成果を楽しみにしている。どうか、力を遺憾なく発揮してくれ」
海堂と絢香が静かに立ち会う中、丁寧に頭を下げ、その手を無意識に強く握り返した。
「……お言葉、拝命いたします」
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