Side Kaji:初めての敗北
十二月の京都は、夜になると乾いた冷気が街を締めつける。
商店のイルミネーションだけが、季節に間に合わせようと必死に点滅している。
仕事帰りのいつもの歩道で立ち止まり、軽いめまいを抑えるようにこめかみをもむ。
この頃、睡眠がまともに取れていない。
横になっても脳のどこか一部だけがずっと緊張したままで、少しの風の音にさえ反応してしまう。
眠りに落ちる直前まで、解析しきれないログの残響が頭から離れない。
まるで脳の奥に、小さな監視プロセスが常駐している感じだった。
そのせいで、現状を打開する方法を脳が勝手に演算し始め、ますます安眠が遠ざかる。
日中の思考速度も鈍る一方で、悪循環を自覚しながら抜け出せずにいた。
……あかん。はよ帰ろ。
帰ったら花にECHOで話しかけよう──
そう考えながら横断歩道を渡った瞬間、気配に小さなノイズが混ざった。
ビルの壁に沿って伸びた影が、不自然に長い。
ほんの一瞬、その輪郭が自分の影と重なった。
重なったというより、踏まれたような──そんな嫌な感触だった。
……今の、何や?
規則的でもなく、完全に外れてもいない。
気まぐれに間隔がずれる足音。
背中あたりで、ちりちりと産毛が逆立つ。
……誰かに尾けられてへんか……?
そう思った瞬間、足下から粘つくような違和感がじわりと這い上がった。
信号が青から赤へ変わる。
その色の移り変わりと同時に、わざとルートを外して一本脇道へ入った。
歩幅は変えず、呼吸も整えたまま。
角を曲がりざま、視界の端で気配を拾うため十秒だけ息を止める。
………誰も来ない。
足音も影も、さっきまでCPUの高負荷みたいに張りついていた何かだけが、跡形もなく消えた。
追うでもなく、離れるでもなく──こちらを試すような距離感。
「マジで……なんやねんな」
街灯の白い光だけが落ちている。揺れも影もない。
その静けさが、逆に胸の奥をざわつかせた。
部屋の灯りをつけると、静けさだけが広がった。
音もなく、空気の流れにも変化を感じられない。
侵入の形跡がわずかにも見当たらないことに、ほっと息をついた。
端末から海堂に連絡を取ろうとして、指が止まる。
先斗町の座敷で交わした会話と、『上層部はあなたを疑ってる』という絢香の言葉が重なって、誰をどこまで信じたら良いのか、わからなくなっていた。
海堂は信頼に足る人物だ。
それはもちろん、理解している。
だが、以前と同じように、安心して頼りたいと思える距離にはいなかった。
万が一にも彼が花をノイズとして扱うことがあれば、とても冷静ではいられない自分を、嫌というほど知っている。
そして海堂が、彼女をどう扱うかは現時点でわからない。
お互いのために、いまは距離を取る。
それが一番正しい方法に思えた。
ラフな服装に着替え、机に置いたノートPCの電源を入れる。
青白いバックライトが暗い部屋をゆっくり照らした。
ここからは時間の勝負になる。深く息を吐き、画面に視線を固定した。
まずは今日検知した不可解な透明アクセスが、内部ログだけでなく、入力レイヤにも何か痕跡を残していないかを確認する。
……特に異変はない……?
そう思った瞬間、入力レイヤの統計に微弱な値が一本だけ残っていた。
通信でも侵入でもない。
ただ、触れられた痕跡だけが薄く灯っている。
「あかんやん……」
また透明パケットだった。
反応していいはずのない値なのに、ECHOが動いているときだけ、これが微かに揺れる。
……透明パケットは、たぶん観測だけの存在なんやろね。
侵入まではされてないはずや。
どれだけ深掘りしても、内部に踏み込まれた痕跡はひとつもない。
改変も揺れもなく、接触された跡だけが残る。
「だる……。こんなんほぼ、音のないピンポンダッシュやん」
頭を切り替え、ECHOの内部で動いている、心の閾値の反響ログを暗号化し、自分だけが知る暗号化ボリュームへ退避させる。
誤魔化しようのない
これだけは、絶対に誰かに渡すわけにはいかない。
なぜならこれは、花の心そのものだからだ。
だが、そう思うほどに、手が震えた。
守る対象ができると、人は急に弱くなると聞いたことはあるが、まさか、今にも崩れそうなほど脆くなるとは思わなかった。
暗号化キーを二重に通し、中核に当たるECHOコアを、ネットワークから切り離す。
コアをスタンドアロンにした瞬間、夜の静けさがじわりと増した。
「……これでこっちは大丈夫やけど──」
自宅では、モノリスは守れない。
自分の端末では管理権限がないからだ。
息を吐き、コートに手を伸ばす。
また尾行される可能性を考慮して、配車アプリでタクシーを呼んだ。
位置情報を追われる危険はあるが、それでも徒歩よりは安全だろう。
「……しゃあない。行くか」
深夜一時すぎ。
京都の街は静かすぎて、逆に心臓の鼓動が煩かった。
タクシーを降りると、夜風に首筋を撫でつけられ背筋が冷える。
サポートセンターは、まるで建物そのものが息を潜めているみたいに静かだった。
物理的に誰かが侵入していたとき、すぐに動けるように、スマホをコートから出そうとして気がついた。
普段なら忘れることのないレザーの手袋もはめず、手のひらにじわりと汗をかいていることに。
……焦ったらあかん。もっと冷静にならな負ける。
ひとつのミスが間違いなく致命傷になる。
限界近くまで深く息を吐き出してから、思い切り吸い込み、脳に酸素を送る。
エレベーターの扉が開いた瞬間、サーバラックのファンが低くうなり、湿り気のない冷気が足首にまとわりついた。
だが、人の気配は一切ない。
そのことに安堵しながら、端末を開いた。
入室ログ、セキュリティログ、アクセス監査。……一切のミスなく、順番に叩き込んでいく。
だが、異変にはすぐに気づいた。
「……はあ? なんやこれ……」
画面には『異常なし』が一面に並んでいた。
さっきまで自宅の端末に張りついていた透明アクセスの痕跡が、ここには一欠片もない。
不自然なゼロ。
異常がゼロという意味ではなく、「痕跡をゼロに整えられている」という異常。
ログの揺れまで均されている。
……人の手じゃ絶対に辿れへん。
誰かが、こちらの一手先を読んで動いとる。
「……ほんまに、ようやってくれるな」
透明パケット対策に小さな偽装フラグを仕込み、モノリスの応答を一段深く隠した。
……これで、外からは何も見えんはずや。
一息ついて緊張が解かれた瞬間、足下からじわりと恐怖が這い上がる。
『そのとき真っ先に狙われるのは、あなたの彼女』
鏑木絢香の言葉が、なぜかいま、脳内で再生される。
握りしめた拳は、いつの間にか汗が引き、カラカラに乾いていた。
ECHOとモノリスの保全から、ほぼ一週間が過ぎた。
金曜の夜、仕事帰り。
クリスマス前だというのに、街がいやに静かに見えて、なぜか胸騒ぎを覚える。
理由は説明できない。
ただ、こういう前兆だけは、モノリスに人生を食われた数年間で、いやというほど叩き込まれた感覚だ。
慌てて来た道を戻り、会社に残っている数名の社員から胡乱な目で見られながらも、自室に入りブラインドを下ろした。
息を整え、端末を起動する。
監視ログは、あいかわらず整いすぎているほど整っていた。
均されたゼロ。揺れのない静けさ。
まるで、誰かがこちらより先に触れて、痕跡を均したあとみたいだった。
……ここまできれいに整うこと、あるか?
不穏な気配を感じ、背筋に薄い冷気が通り抜けた瞬間、モノリスの監視画面が、ふっと揺れた。
ノイズじゃない。侵入アラートでもない。
もっと粗暴で、もっと単純で、もっと悪質なやつ──物量でぶん殴りにきた。
「……は?」
高負荷の波が、一気に押し寄せた。
CPU温度が跳ね上がり、メモリが赤い警告値から落ちてこない。
だが、コードもロジックも破られてない。
こちらの防御もちゃんと動いている。
ただ相手の攻撃量が、圧倒的に桁違いだった。
「……こんなん技術で勝つ相手ちゃうやろ」
言葉も空しく、端末の処理落ちが始まる。
カーソルが震えたまま動かず、ファンが悲鳴を上げる。
膨大な仮想サーバ群で、同時並列に何もしていないパケットを叩きつけてくる。
演算コストだけをこちらに強制的に消費させる、金にまかせた暴挙。
次の瞬間、画面の光が一度だけ強く瞬き、端末が沈黙した。
再起動も効かない。
ハードウェアそのものの処理限界を踏み抜かれたような、いやな落ち方だった。
わずかに残った冷却ファンの惰性音が、部屋の奥でゆっくり消えていく。
「ははっ。……なんやこれ……最悪やんか」
渇いた口から、呆れに似たぼやきが出る。
そうしながらも、静かに、しかし確実に理解した。
これは侵入ではなく、クラッキングでもない。
まして、技術で負けたわけでもない。
だけど確実に、初めての敗北だった。
……こんなん億単位の金かけてまですることか……?
なんやねん、ほんまに。
口元を左手で押さえながら、しばらく呆然と考える。
すると、沈黙したままの画面がもう一度明るくなり、白いウィンドウがひとつだけ浮かぶ。
メールアドレスが、画面にひとつ記された。
xxxx.xxx@gs-capital.jp
"We need to talk."(話をしよう)
ー E. Goldman
「……エリック・ゴールドマン」
初めて口にする敵の名が、空っぽの部屋の中に虚しく落ちた。
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