Side Kaji:招かれざる客
十月の京都の夜は、街灯の光までが少し冷たい。
窓の外を走る車はほとんどなく、遠くの交差点の信号が静かに色を変える音だけが、薄く部屋へ届いていた。
夜の熱をすっかり手放した部屋は少し冷えていて、机の端に置きっぱなしの白湯は、気づかぬあいだにぬるくなっていた。
静けさが反作用するのか、胸の奥が騒ぐような、説明のつかない気配を感じる。
ネットワークのトレースログを流し見ながら、マグカップを指で軽く叩く。
反射的な癖みたいなものだ。
夏にはじめて気がついた、名前のないパケット。
解析を進めても、一向に足跡がつかめないままだった。
ただ、その頻度はじわりと増えてきている。
社内VPNの出口でも、個人端末でも、どこにも不審なアクセスは引っかかっていない。
「……そんなん、できるはずないやろ……」
小さなぼやきが虚空に溶けた。
異常が残らないという異常。
TCPでもUDPでもなく、プロトコルが特定できない。
……いや、そもそも、パケットの形すら存在しない。
そしてログは、すべて「0.00ms」を返す。
それは人の手では絶対に到達できない精度だった。
そこにいたことすら痕跡を残さない影のような挙動に、指先が、ほんのかすかに震える。
「……またか」
画面の端に、波紋のような崩れが生まれ、一瞬だけ、静的ノイズが走る。
ピクセルが描いた線はすぐに消えた。
ECHOの反応ログには何も残らない。
モノリスのセキュリティ監視網にも痕跡ゼロ。
透明アクセスの送信元がどこなのか──考えなくても、答えはひとつだ。
今までの軽い探りとは違う。
明らかな本気の匂いがして、背筋に汗が伝った。
「
この数年、アペックスの中枢を狙い続けている外資系投資会社。
呆然としていると、机の上のスマホがかすかに震えたように見える。
反射的に手を伸ばすが──画面には何も残っていない。
差出人、送信元ポート、内容、履歴。すべて存在しなかったことになっている。
「……こんなんシャレにならんやん」
喉の奥が乾く。
白い揺らぎは、確かにこう告げていた。
『お前を見ている』
音もなく、呼吸のように。
ほんのわずかな気配だけを残して。
十一月。
いくつかの違和感と不穏な足音に、ひたひたと日常を侵され始めた頃、さらなる嵐がやってきた。
鏑木絢香。
招かれざる客という言葉が、アペックスで一番似合う女。
「……困ったときは来ていいって、言ったの、あなたよね?」という、記憶に欠片も残っていない言葉とともに、彼女は突然現れた。
よりにもよって、花が自宅にいる日を狙ったかのように。
この女に花を近づけたくない。
自分の脳が、瞬時にそう判断した。
不安そうな花を部屋に残し、マンションのエントランスホールへ移動することに決める。
「……残念。彼女を紹介もしてもらえないのね」
「あんさんと俺の間に、そんな義理が必要ですかね」
何が楽しいのか、くすくす笑う彼女を伴い、エレベーターに乗り込む。
あまりに苦手なタイプすぎて、必要以上に距離を取りたくなる。
……世の中で一番いけずな女性は志津さんやと思うとったけど、まさかの優勝候補がここにおったわ。ほんまなんやねん、この女。
マンションのエントランスに降りると、冷たい外気が、肺の奥をゆっくり冷やした。
湿気を含む冷気がコンクリートの隙間を這うように入り込み、建物の影は夜の輪郭を濃くしている。
ここは企業の福利厚生で借り上げている物件だけあって、それなりに豪奢だ。
石張りの床に、間接照明。
壁際には応接用のソファが二つ。
控えめに香るアロマディフューザーの匂いが、妙に人工的で落ち着かない。
奥の席を勧めると、彼女は姿勢良く腰掛け、コートを折りたたんで膝に掛けた。
斜め向かいの椅子に浅く腰掛け、ため息をひとつ吐く。
「……それで、わざわざ京都くんだりまでやってくる理由は?」
「いきなり本題? 久しぶりに会うのに、ずいぶんと冷たいのね」
「さっきから、誤解を招くような発言はやめてもらってええですか?」
顔を合わせるのは数年ぶりだが、絢香は真田の元恋人で、学生時代から面識はある。
だが、会う度に遠回しな毒を吐いてくる彼女を、当時から天敵のように感じていた。
……真田さんの女の趣味、ほんまようわからんわ。
「誤解なんて。知らない仲じゃないのにひどいのね」
「鏑木さんの口から、嫌み以外の言葉を聞いた覚えがないんやけど」
「……そういうところ、変わらないわね。
梶くんって、いくつになっても子供みたい。ずっと世界の中心が自分みたいな顔をしてる。
……もしかして、頭が良すぎるとバカになるのかしら?」
相変わらず、涼しい顔で毒を吐く。
ただ、その笑みは温度を持たない。
こちらの心拍の乱れだけを静かに観察しているみたいだった。
「……用件が嫌味を言うだけなら、もう帰ってもええですか?」
「あら……残念。嫌味を言いに来たんじゃないわ」
「そしたら本題をどうぞ」
長引けば、花が心配をする。
家を出る直前の、彼女の青白い表情を思い出し、胸が痛んだ。
「……今日はね、警告を入れに来たの。電話やメールじゃ、あなたの本音を見極められないから」
その言葉に、即時に脳が警戒モードに入る。
絢香が少し目線を上げてこちらを見ただけで、空気が微かに張り詰めたように感じた。
「最近……異変を感じているんじゃないかしら?」
「異変……? 何の話や」
不意を突かれて、表情をごまかせた自信がない。
それをあざ笑うように、赤い唇の端が上がる。
「あなたって、本当に嘘が下手よね。顔に全部書いてあるわ」
うんざりして目を伏せたくなる。
けれど、誤魔化せないのなら逆に、情報を引き出す方が得策だと切り替える。
「……異変なんて感じてへんし、警告もいらんのやけど」
天邪鬼な彼女は、追えば逃げる。
だからこそ引く姿勢が大事だった。
絢香は視線をふっと逸らし、エントランスのガラス越しに、濡れたように光る街路樹を見た。
「……大事な子ができたのね」
核心を突かれたように、喉が詰まった。
彼女の話し方のパターンはわかりきっているはずなのに、安易に隙を突かれた己を腹立たしく思う。
今夜、花を彼女に見せるべきではなかった。
慎重になるべき場面で手を抜いたことに、数分前の自分を呪いたくなる。
「……鏑木さんに関係あらへんやろ」
「あるわよ」
彼女の瞳が、一瞬で怒りに燃える。
「さっきの子が──あなたに巻き込まれるのは、嫌なの。
……わたしみたいな犠牲者は、何人も作るべきじゃない。そう思わない?」
「犠牲者って……」
そんな言い方をされるほどのことをした覚えがない。
彼女は睫毛をわずかに震わせ、すぐに表情を戻した。
「あなたがモノリスを諦めない限り、圭は日本に戻ってこないわ」
「……は?」
「ねえ、いつになったらモノリスは完成するの?
それは本当にできるの?
上層部がみんな、あなたを疑っているの、気づいてる?」
突然、畳み掛けられて、怒りに自分を見失った。
「……何の話や。モノリスを凍結したんは、但馬専務やろ。
こっちは不自由な環境で一人、京都に閉じ込められて、契約書でガチガチに手足を縛られて、これ以上どないせえっちゅうねん」
「だったら最初に……! 諦めたら良かったじゃない!」
空間を切り裂くように、はじめて絢香が声を荒げた。
「なんで、三年前に圭が消えたとき、あなたはそれを引き継いだの?
あなたが上層部に希望を見せるから、みんながモノリスから離れられなくなってしまったことがわからない?」
人を惑わす魔女のような仮面が剥がれ落ち、濡れた瞳できつく睨まれる。
今まで誰からも投げられたことのない指摘に、ドラマの裏側を覗いたような息苦しさを感じた。
「この夢物語はいつまで続くの?
教えてよ。あなたにはその責任があるはずだわ。
だって、モノリスの基幹部を作ったのは圭じゃない。あなたでしょう?」
「……ちゃう。あれは、真田さんがおらんかったら、ようつくれんかった」
「圭は、そう言ってなかったわ」
「……うそや」
「いいえ。嘘じゃない。彼はあなたと自分の技術者としての才能の違いに絶望して、日本を去ったんだもの」
──……もしかしたらと、思ったことはあった。
けれど、勘違いで済ませたかった。
それなのに、彼女の強い意思が、こちらを解放してくれない。
絢香は、声の温度を変えずに続ける。
「あの彼女とも、早めに離れたほうがいい。
あなたがどう思っても、あの子はそのうち、確実に巻き込まれるわ」
「巻き込まれるって……」
「あなたは中央にいないから、気づいていないのかしら?
アペックスは今、かなり追い詰められている状態よ。
そして爆撃地の中心にいるのが、モノリス。
……わかる? あなたが作ったものが、会社に何をもたらしたか」
耳障りな鼓動の音が頭に響く。
首を振って、静かにそれを否定した。
「モノリスを作ると決めたのは会社の判断、それを止めたんも俺やない。
何度もう言うけど、俺は、ただの技術者や」
「ただの技術者? 笑わせないで。
遅かれ早かれ、あなたはきっとGSCに引きずり出されるわ。
そして、そのとき真っ先に狙われるのは、あなたの彼女。
なんでか、わかる?」
冷たい夜気がエントランスに一筋すべり込む。
返す言葉が思い浮かばず、かといって真正面から彼女の瞳を受け止める勇気もなく、ローテーブルの木目をじっと見つめた。
「情報を扱う人間なら、あなたの弱点はひとつしかないってすぐに気がつくからよ。
あなたが大事にしているものは、この世にそれほど多くない。
……違うかしら?
少なくとも、わたしがGSCの人間なら、間違いなくそう判断するわ」
膝の上で握りしめた拳に、じんわりと汗をかく。
ずっと前から気づいていたことを、それでも誰かに指摘されるのはきつかった。
「……じゃあ、警告はしたから」
そう言い残し、鏑木絢香は夜の闇へ消えていった。
雨粒の匂いと、うっすら揺れる影だけを残して。
しばらく動けず、乾いた空間にため息が落ちる。
「……なんやねん。ほんまに」
……早く部屋に戻って、花の顔を見たい。
そう思うのに、なぜか足が動かなかった。
部屋の前まで戻ると、外の冷気で冷えた指先が少し震えた。
キーを差し込み、そっと扉を開ける。
その瞬間、暖かい空気が、ふわっと頬に触れた。
「……あっ」
リビングの方から、花がぱっと顔を上げる。
薄いニットに小さなブランケットを膝に掛けて、ソファの端にちょこんと座っていた。
「ごめんなさい……暖かいほうが、外から帰ってきたときほっとするかなと思って、勝手に暖房をつけちゃいました。だめでしたか……?」
多少強めの暖房の匂いが部屋に満ちていて、花は落ち着かない様子で両手をぎゅっと握りしめている。
「いや、ええよ。ありがとう。……助かったわ」
声が思ったより掠れていて、自分で驚く。
花は、安心したように小さく息を吐いた。
「よかった……。わたしも、ちょっと寒かったから」
緩んだ肩が揺れて、その拍子にニットの端が少し滑り落ちる。
「お茶でも淹れますか?
あ、白湯のが良いのかな」
きっと、本音では鏑木絢香について聞きたいに違いないのに、あえてその話題を避けようとしているのが伝わってきた。
立ち上がり、キッチンへ向かおうとする彼女の腕を取り、そのまま強く抱きしめる。
「……寒かった」
「ほんとだ……。身体が冷えてる……」
奥歯を噛みしめて、泣きそうなほどの心細さを胸の中に押し込める。
この温もりを失うなんて、とても考えられない。
……これは俺のわがままなんかな。
じいちゃんでも誰でもええから、教えてくれや。
ときどき、自分がいま、何のために戦ってるんか、ようわからんくなる。
「大丈夫ですよ」
「──え?」
心を見透かされたような返事に、動揺してつい声が大きくなった。
「震えるくらい寒いんでしょ?
くっついてればきっと、すぐに暖かくなるから、しばらくぎゅっとしてあげる」
そう言って、彼女はソファまで手を引いて誘導すると、「ここに座って」と指示を出した。
言われるまま腰掛けると、花は膝の上に滑り込むように座り、胸元に額を預けてきた。
「ね? ほら、あったかい」
……ああ、こんなんどう考えても離れられん。
俺には無理や。
──あの子は確実に巻き込まれるわ。
耳の奥に、絢香の言葉がこびりついて消えない。
だが、それでも。
たとえ誰に責められても、罵られても、この温もりを奪われたら、もう二度と呼吸さえできないと思った。
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