どこにも行っちゃ嫌だよ
駅からの帰り道は、もうほとんど覚えていなかった。
すべてが夢か何かのようにぼんやりとしている。
靴のかかとがアスファルトを叩く音だけが、現実と自分を繋いでいるようだった。
部屋の鍵を差し込んでドアを開ける。
電気はつけない。
そのまま、バッグを落とすように玄関に置いた。
リビングに足を踏み入れると、ようやく何かがほどけたように気が抜ける。
いろいろなことが一気に起こって、今日一日の出来事とは思えない。
それなのに、鏑木さんの言葉だけが、耳の奥にまだ刺さっている。
『あなた、何も知らないのね?』
息がつまり、膝から崩れ落ち、力なく床に両手をついた。
「ああああああっ…………」
喉の奥から叫び声とともに涙がせり上がってくる。
ただ叫ぶしかできなくて、聞いたこともないような自分の声が、鼓膜に反響する。
『彼には相応しくないわ』
──やめて。
『どんな災いが降りかかるか、わかったものじゃないわ』
壊そうとしないで。
『あなたが梶雪斗の恋人だからよ』
「だったら、なんなの……!」
ソファの上のクッションを手に取り、思い切り壁に向かって投げる。
悔しさなのか、怒りなのか、憎しみなのか、悲しみなのかも判別のつかない感情に、身体ごと支配される。
……どうして。
どうしてあんなことを、言えるんだろう。
喉の奥が勝手に震えた。
声を出したくなくて、唇を手の甲で押さえる。
そのまま息を吸った瞬間、大粒の涙が床にぽたぽたと滑り落ちていく。
梶くんの顔が浮かんだ。
笑う顔も、困った顔も、ぼんやりとした顔も、全部。
「……会いたいよ……梶くん……」
──お願い。誰も、わたしから彼を奪わないで。
言葉にならない声が空気を揺らす。
今日の鏑木さんの言葉を、全部笑い飛ばしてほしかった。
あんなの気にする必要なんかないって。
花ちゃんはよう頑張ったなって。
あのやさしい低い声で、そう言ってほしかった。
はっとして、コートのポケットに入れたままだったスマホを取り出す。
だけど、ECHOを開いても、画面は白く静かで、彼の声の痕跡ひとつ残っていない。
通話機能を押そうとしたけれど、今掛けても、きっと涙声にしかならない。
胸が痛くて、背中が丸くなる。
両腕で自分を抱きしめるようにして、ソファに沈み込んだ。
部屋は静かだった。
時計の秒針だけが、淡く響いている。
涙が落ちるたびに音がしそうで、余計に泣いてしまう。
顔を上げたくなくて、暗闇にそのまま溶けていく。
どれくらい泣いたのか、わからない。
泣き疲れた目の奥がじんじんと痛む。
涙が落ち着いてきたころ、玄関の方で、小さく、控えめなノックの音がした。
びくりと身体を起こし、音がした方をじっと見る。
コンコン。
鼓動が一瞬だけ止まって、こんなボロボロの夜なのに、淡い期待が胸の奥から湧いてくる。
おそるおそる扉に近づき、ドアスコープを覗いた。
「…………っ」
震える手で鍵を開け、ドアノブを回す。
勢いよく扉を開けると、そこには息を切らした梶さんが立っていた。
髪が少し乱れていて、肩でゆっくり呼吸している。
コートの襟には、外の冷たい風の匂いが残っている。
わたしを見た瞬間、ほんの一秒だけ目を見開き、そのあと──あの、知っているやさしい目になった。
おもわず靴も履かずに外に飛び出し、思い切り彼の胸に飛び込んだ。
「うわあああああん」
まるで子供のような泣き声で、みっともないとわかっていても止められなかった。
グスグスと泣きながら、一番伝えたい言葉を探す。
「……ど、どこにも……どこにも行っちゃ嫌だよ……」
あなたが誰で、何者かなんてどうでもいいから。
「……ずっとそばにいて」
背中に回された腕が、夜の冷気ごと、わたしの身体を強く抱きしめた。
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