梶雪斗という人

 会議は予定よりも少し長引き、気がつけば外の光が傾き始めていた。

 窓の外には冬特有の淡い金色がにじみ、会議室の白い壁にゆっくりと影を落としている。


「では、本日の顔合わせはここまでとします。皆さん、ありがとうございました」


 鏑木さんの声を合図に、椅子が一斉に引かれ、バインダーやノートPCを片付ける音が重なった。

 緊張の余韻がまだ薄く漂うなかで、誰もが足早に退室の準備を進めていく。


 杉本さんが「じゃあ、また」と軽く手を挙げて出ていき、森下さんも何か言いたげな視線を残しながら会議室を後にした。

 静かになった部屋には、プロジェクターの電子音と、通風口の低い駆動音だけが響いている。


 タブレットをケースに収納しながら、泣き出しそうな感情をなんとか押し込めようとした。

 一刻も早く家に帰り、一人になりたくてたまらない。

 退出しようとトートバッグを肩に掛け、立ち上がる、そのときだった。


「佐々木さん」


 背中の方から、靴底の音もなく、静かに呼ばれる。

 名前を呼ばれただけなのに、今にも刺されそうな怖さを感じ、足が竦んだ。


「少しだけ、いいかしら?」


 振り向くと、彼女はたしかに微笑んでいるのに、なぜか脳裏に小さな警鐘が鳴る。

 断るという選択肢は最初から存在しない空気だ。


「はい……、大丈夫です」


 目を見てそう答えると、鏑木さんはわたしの全身を値踏みするように視線を動かした。

 まるで、わたしの弱点がどこかを探すような瞳で。


「もしかして、今日は驚かせてしまった……?」

「……いえ、特には」


 息が、一瞬止まりそうになるのを、なんとか堪えた。

 この人が何をどこまで知っていて、梶くんとどんな関係なのかもわからない。

 だからこそ、迂闊な言葉を言わないように気をつけるべきだと思った。


「そう? ショックを受けたって顔に出ていたわ。とても、わかりやすかった」


 ……だめだ。

 何も答えていないのに、どんどん見透かされていく。

 会議室に残された夕日が柔らかい色を帯びているのに、鏑木さんの言葉だけが異様に冷たく感じる。


「……あなたも大変よね」

「え……?」

「梶くんのせいで、こんなプロジェクトのメンバーにまで選ばれて、困ったでしょう?」


 耳が聞こえなくなったかのように、彼女の唇の動きだけがやけに強調されて目に飛び込んでくる。

 言われている意味を理解するのに、しばらくかかった。


「……すみません。わたしがメンバーに選ばれた理由って……?」

「あら、知らなかった? それはもちろん、あなたが梶雪斗の恋人だからよ。

 上層部はね、すごく必死だったの。なんとしても彼を、この会社に縛り付けたくて」

「どう……して……?」


 彼が凄腕の技術者であることは、今日で充分に理解した。

 何より、ECHOのような見たこともないアプリを簡単に作ってしまう人だ。

 最初から、すごい人なんだってことは素人目にもわかっていた。

 だけど、こんな大企業で、恋人だからどうのなんて話が持ち上がることが、にわかには信じられない。


 けれど、鏑木さんはそこではじめて、眉をひそめ、ため息をついた。

 とてもがっかりした表情は、わたしをかわいそうな子だと思っていることが言葉以上に伝わってくる。


「……あなた、何も知らないのね?」


 その声の奥に、ほんのかすかな哀れみが滲んだ。

 馬鹿にされているというよりも、本気で気の毒に思っている、そういう顔だった。


「何も……って……?」

「彼はね、とても厄介な人なの。あんな人に関わったせいで、会社も、周囲も、そしてわたしも、みんな傷を負わされた。とんでもないリスク要因。

 ……だからね、佐々木花さん」


 急に名を呼ばれて、思わず身体がびくりと動いた。

 彼女は今までで一番きつい眼差しで、挑むようにわたしを見る。


「あなたのために言うけど、傷が浅いうちに、彼みたいな人とは別れた方が賢明よ。

 あんな厄介な人間のそばにいたら、どんな災いが降りかかるか、わかったものじゃないわ」


 全身の血が煮え立つみたいに熱くなって、生まれて初めて、人をなじりたい衝動に駆られた。

 それを必死に飲み込みながら、なんとか声を絞り出す。


「……そんなこと……言わないで……ください…………」

「あら、何か気に障った……?」

「梶……さんは、すごくやさしい人です。

 わ、災いなんて……そんなふうに言われるような人じゃありません」


 涙目で、彼女をきつく睨んだ。

 記憶の中の、やさしく微笑む彼の顔が汚されたみたいで嫌だった。


「だ、だから、そんなひどい言葉を、彼には絶対に言わないで……!」


 唇が震えて、ところどころうまく発語できない、みっともない反論だった。

 でも、ここだけは譲れない。


「じゃあ聞くけれど、あなたはいったい、彼の何を知っているの?」

「え……?」


 その一言だけで、全身がぎゅっと縮む。

 頭の中に、いろいろな表情の梶くんが思い浮かんだ。


 朝に飲む白湯の温度、眠れない夜に指先でわたしの髪を梳く癖。

 並んだときに見上げる横顔が、とてつもなくきれいなこと。


 ……だけど、それを口にしたって意味がない。

 鏑木さんが求めているのは、そんな甘い答えじゃない。


 会社での彼。

 背負ってきたもの。

 戦ってきた場所。

 わたしが踏み入れていない領域そのものを、問われている。


 喉の奥が痛いほど固まって、うまく息もできない。


「ねえ、教えて。梶雪斗という人を、どこまで理解しているのか。

 ……何も、聞かされていないんでしょう?」

「そ、それは……きっと、事情があるからで……」

「そうよ。彼にはいくつも事情がある。

 だからこそ──わたしはあなたに伝えているの」


 絢香さんの声は、氷みたいに静かだった。


「なにも知らないあなたでは、彼の重さには耐えられないわ。

 彼の隣に立つには、すべてを飲み込む力が要るの。

 それが、あなたにある?」


 反論する言葉が喉から出てこなくて、奥歯を噛みしめたまま、ただ哀れむようにわたしを見つめる彼女を見た。

 目が合うと、ふっと柔らかく微笑みを返され、余計に何も言えなくなる。


「ああ……言葉を間違えたわね。

 あなたみたいなやさしいお嬢さんにはね、彼の方が相応しくないのよ。

 誤解しないで。問題はすべて梶くんにあるの。

 あなたは、思いやりのあるとても素敵な女性だわ」


 夕日が一段と傾き、会議室の中で影の位置が変わった。

 長く伸びた鏑木さんの影が、わたしの足元近くまで触れている。


「……では、今日はこれで。お疲れさま、佐々木さん」


 そのまま踵を返し、音もなく去っていく。

 残された空気だけがじりじりと胸に残り、わたしは深く呼吸をしてから、ゆっくり会議室を後にした。

 鏑木さんのぞわりとした気配が、建物を出た後も、しばらく背中をまとわりついていた。

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