アペックスのCTO
声の方向へ振り返ると、そこに立っていたのは、数年前に別れた元彼の森下亮平だった。
わたしは音もなく立ち上がり、軽く頭を下げた。
「お久しぶりです。プロジェクトに参加する佐々木です。どうぞよろしくお願いします」
「……優秀な奴しか集まらないって聞いてたんだけど」
それはわたしへの嫌味なのか、それとも自分が精鋭側であることを暗に誇りたいだけなのか。
けれど、嫌味を言ってわたしの反応を楽しもうとするところは、全然変わっていないようだった。
「わたしは現場感覚を知っている総務職としての参加です。気に入らないなら、プロジェクトリーダーにご相談ください」
「……しばらく会わない間に、ずいぶん気が強くなったんだな。なに? 男でもできた?」
「森下さんは変わりませんね。セクハラで報告されたくないなら、それ以上は控えてくれると助かります」
……喧嘩がしたいわけじゃない。
ただ、ここで曖昧に笑えば、昔と同じ場所に戻ってしまう。
それだけはもう嫌だった。
わたしは、ここに仕事をしに来たのだから。
そのとき、扉が開いて数名のメンバーが一斉に中に入ってきた。
空気が少し動き、冬の光がテーブルの上でわずかに揺れる。
その中に、知っている顔を見つけた瞬間、全身の緊張がふっとほどけた。
「杉本さん! 杉本さんも参加されるんですか?」
眼鏡をかけたスーツ姿の男性がこちらを向き、少し驚いたように目を細めた。
「お、佐々木さん。こんな場所で会うなんて奇遇だね。元気だった?」
いつもの調子の、場の温度を一段下げてくれるような声。
知らない人ばかりの場所で、見知った顔に出会う安心感に、思わず息をつく。
「はい。知ってる方が参加されると、ほっとします」
「だよなあ。俺だって、こんな怖そうな場所、来たくなかったし」
肩をすくめて冗談めかす仕草が、会議室の張りつめた空気を一瞬だけ柔らかくしてくれた。
杉本さんは本店勤務の社内SEで、志穂さんの婚約者だ。
優秀かつ穏やかな人柄で、彼女ととてもお似合いの男性だった。
森下さんは、わたしと杉本さんの会話を数歩離れた位置で聞いていたが、そのまま気まずそうに離れていった。
彼が席に戻っていく背中を見送りながら、心の奥に、ほんのわずかな昔の痛みが波立った。
けれどそれは、今のわたしを揺らすほどの傷では、もうなかった。
「これ、座席順って決まってる?」
「全然わからなくて。とりあえず下座に座ろうかなって」
「じゃあ、俺、佐々木さんの隣もらっていい?」
「むしろ、ありがたいです」
杉本さんと他愛ない会話をしているあいだに、続々と席が埋まっていく。
といっても、総勢十五名にも満たないため、会議室の広さが、かえって浮いて感じられた。
席がほぼ埋まり、低い話し声がぽつぽつと漂い始めたころ。
太陽が翳ったのか、室内が急に暗く感じられた、そのとき。
静かにドアが開き、彼女は現れた。
背中までのストレートヘアは手入れが行き届き、艶めいている。
白いジャケットの縁取りが、直線のように乱れなく落ちていた。
──鏑木絢香。
なぜか、そこにいるだけで場の重力を変えるような存在感のある人。
ほんの数秒、誰も息をしていないように感じた。
「遅れてすみません。鏑木です」
落ち着いた、透き通った声。
それなのに、部屋の温度だけが、すっと一度下がったようだった。
彼女のヒールがカーペットを優しく踏むたび、空気の粒子が微かに揺れる。
……理由はわからないけれど、なんとなく、この人は今日、ここにいる気がしていた。
それなのに、いざ本人を目の前にすると、急に身震いをしてしまう。
彼女は、ひとつだけ空いている椅子には座らず、テーブルの前で立ち止まった。
「今日はお集まりいただき、ありがとうございます。プロジェクトマネージャーの鏑木です。皆さんには、プロジェクト成功のため、ご協力いただければと思います」
決して強い口調ではない。
それなのに、有無を言わさぬ彼女の圧に、周囲が息を呑む。
そのとき、一番端に座っていた年配の男性社員が、さっと手を挙げた。
「鏑木さんは監査室の方だと聞いていますが、今回あなたがプロマネになったのは、なぜですか?」
鏑木さんは面白そうに彼の顔を眺め、唇の端を上げて、軽く微笑んだ。
「リソース第二営業部からのご参加をありがとうございます。村田室長。
質問に答えるために、少しだけ昔話をすると……今回のプロジェクトが立ち上がるのは、実はこれが二度目なんです。
以前は、残念ながら頓挫してしまいました。だからこそ、今回は失敗できません。そのために、わたしが選ばれました。……ご理解いただけますか?」
「頓挫した理由は?」
「もちろん、機密です。ですが、上層部が本気でこのプロジェクトを進める意思があることは、間違いありません」
鏑木さんは室内を一瞥し、わたしと目が合ったところで、視線を留めた。
そして、嬉しそうに微笑む。
その笑顔に絡めとられ、首筋がぞわっとする。
「村田室長は、あなたが座っている椅子の価格をご存じでしょうか?」
「……は? 椅子って、この椅子? さあ……数万円もしないと思いますが……?」
「七十万円です」
ざわっと、空気が揺れる。
わたしは思わず、自分の座っている椅子を二度見した。
「もちろん、椅子そのものの値段ではありません。
アペックスが社員一人を採用するために投じている、平均コストのことです。
広告、人件費、採用工数、育成にかかるトレーニング……すべてを含めると、一人あたり約七十万円になります」
室内が、静まり返る。
「けれど、問題はそこではありません。
七十万円かけて迎え入れた人材が──間違った配置や、過度な負荷、適切でない評価によって、たった数年で辞めてしまうこと。
これはアペックスにとって、最も高い損失です」
ほんの少しだけ笑みを深めて、鏑木さんが続けた。
「今回のプロジェクトは、その損失をゼロに近づけるための、いわば会社の生命線です。
だからこそ失敗はできませんし、技術戦略室の室長であるわたしが、プロマネに立つ必要があるんです。……監査にいたのは、去年の話ですから」
完全に論破され、村田室長は口を閉じた。
「また、このプロジェクトには、我が社の
その言葉に、嫌な予感が背中を這い上がる。
室内は暖かいはずなのに、全身が一瞬で冷えた。
鏑木さんが端末を操作すると、会議室に置かれたモニターが、控えめに点灯する。
遅延した接続音がひとつ鳴り、画面に薄い青色の光が広がった。
ざらりとしたノイズ。
そのあと、大型画面に白い壁と、黒いパーカー姿の人影が映る。
「……ちょっと回線、悪いんやけど。聞こえてますか?」
心臓が、どくんと嫌な音を立てて跳ねた。
声も出ない。指先の温度が、すっと奪われる。
梶くんが……アペックスのCTO……。
彼女は、確かにそう言った。
聞き間違いでも、勘違いでもなく、それが彼の本当の顔。
血の気が下がっていくのを感じながら、わたしは画面から目を離すこともできず、無表情に佇む彼を見つめていた。
この一年近く、ずっと見つめてきたその顔が、まるで知らない男の人のように映る。
そんな考えごとをする場所ではないことは百も承知で、それでも息が詰まりそうで、苦しい。
「梶CTO、みなさんに一言いただけますか?」
鏑木さんの言葉に、彼は画面越しに軽く会釈し、無表情に言った。
「梶です。インフラ監修で参加します。……よろしくお願いします」
こちらの様子が、彼に見えているのかはわからない。
けれど、そのとき。
梶くんの視線が、わたしのところで、たしかに留まった。
ほんの五秒にも満たない、感情を悟らせない顔。
その静けさが、逆に胸をひどくざわつかせる。
目を見開いたまま、じっと彼を見つめた。
けれど梶くんは、表情を一切変えることなく、視線を別の場所へ移し、鏑木さんに呼びかけた。
「今日は顔合わせやと聞いてますが、特に質問がなければ、これで失礼してええですかね?」
「結構です。……来月からは会議にもご参加くださいね。皆さん、あなたをお待ちしていますから」
画面が暗転した瞬間、空気だけが、ぽつんと取り残されたような静けさが落ちた。
「うわぁ……あれが、アペックスのレジェンド……」
杉本さんが小声でそう漏らすのを聞いて、思わず彼の方を見る。
「……有名な方、なんですか?」
「うん。社内SEのあいだで、kajiって名前の影の技術者がいるって、たまに話題になってたんだよ。
そのIDで、基幹システムの修正履歴だけ妙にきれいになってたり、誰も触れないはずの部分が、深夜にだけ更新されてたりさ」
「……そう、なんですか……」
「顔は知らないけど、その影の人が、凡人じゃないくらい凄腕だってのは、みんな一致してる。
Smart Traceの初期構築にもkajiってIDが残ってたしね。開発者ログで、何度か見たことがある」
「ログに、名前……」
不意に、サポートセンターで何度か見かけた『kajiさん』のことを思い出した。
わたしが最初に彼の名前を強く印象に残したのも、あまりにも他の人より、仕事の処理が早かったからだ。
同じように、社内SEの人たちのあいだにも、自然と噂が広がっていたのだろうか。
「謎のkajiってユーザーが触った部分って、どれも実装が異様にきれいなんだよ。
正直、同じ社内にいるとは思ってなくてさ。
あれほどの技術があるなら、フリーでやっていけるだろうし」
Smart Traceのように、普段何気なく使っていた社内システムも、残業中にこっそり頼っていたツールも──
もしかしたら、全部、彼の手の跡だったのかもしれない。
胸の奥で、冷たいものと熱いものが、同時に流れ込む感覚がした。
「あー、やばいな。あとでみんなに自慢したい。……無理だけど」
杉本さんの興奮した様子に、適当に相づちを打ちながら、わたしは心の置き所を探す。
理由もわからないのに、泣き出しそうな自分が、そこにいたから。
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