4th Cord:梶雪斗という人
音もなく忍び寄る影
十一月の最後の金曜日。
志穂さんの誘いを受けて、仕事帰りに汐留のイタリアンで食事をすることになった。
店内は、早くもクリスマスを意識した飾りつけがされていて、冬の始まりを感じる。
といっても派手なものではなく、ワイン色のリースと、小さな金のオーナメントが控えめに棚を彩っているだけだ。
BGMはクリスマスソングではなく、イタリア語の穏やかなバラードが流れていた。
街の喧騒とは別の時間が、ここだけふわりと漂っている。
「久しぶりに会ったら、なんか顔つきが変わったわね」
「……そうですか? 特に何も変わったことはないんですけど」
「うん、大人っぽくなった」
「えへへ。それなら嬉しいですけど」
赤ワインで軽く乾杯をして、志穂さんがオリーブを一口かじった。
「それで、彼氏とは順調なの?」
「そうですね。先週も、紅葉を見に京都に行ってきたんですよ」
「遠距離恋愛って大変じゃない? 相手が浮気してるとか、不安になったりしない?」
急な質問に、うまく返事が返せなかった。
「しないですよ」と取り繕うように答えたけれど、胸の奥に、ごく小さな不穏の痕が残っている。
それが不安なのか、戸惑いなのか、自分でも判断がつかなかった。
「……本当は、何かあったんでしょ? 元カノでも現れた?」
「ごふっ」
「ちょっと、大丈夫?」
「……っす、すみません……」
内心に触れられた途端、身体だけが先に反応した。
ナプキンで口元を拭いながら、どこかにワインの染みがついていないか確かめる。
頭の中に、先日の京都の夜が蘇る。
その人は、突然現れた。
音もなく忍び寄る影のように、わたしたちの日常の隙間にさらりと近づき、消えない足跡を残していった。
梶くんは、あの夜、インターホンを確かめて、ほとんど聞こえないような声で「嘘やろ」と呟き、ひどく苦い表情になった。
そんな彼の顔を見るのは、はじめてだった。
ざわざわと騒ぎ始める胸を押さえて、わたしは思わず、インターホンに映る映像をチラリと見た。
遠目にも、それが女性であることがわかる。
「ごめん、花ちゃん。ちょっと対応してくるから待っといて」
「あ、はい……」
梶くんは内ドアを閉めることなく玄関へ向かった。
いけないことだとわかりながら、わたしはドアの近くで、梶くんの様子をうかがった。
「……ひさしぶり。来ちゃった」
落ち着いた女性の声が、玄関のドアに静かに響く。
「……困ったときは来ていいって言ったの、あなたよね?」
その言葉を聞いたとき、思わず身体が前に出た。
梶くんから、女性の存在を感じたことはただの一度もない。
彼の口から唯一出た女性の名前は志津さんくらいで、サポートセンターにも親しくしている人はいないと言っていた。
このマンションにも、わたし以外、誰も訪れたことはないと言う。
それが真実かどうかなんて確かめようはないけれど、彼の性格を考えたら、嘘だとは思えない。
「鏑木さん」と、梶くんが呟くのが聞こえた。
ここからは、彼の背中しか見えないけれど、なんとなく動揺しているようにも感じる。
その女性が彼にとってどんな存在なのか知りたくて、更に一歩前に出た。
いつものわたしなら、きっとそうはしなかっただろう。
だけどいま、本能が告げている。
あの声の主は、なにかとても、危険な存在だと。
向こうからはギリギリ見えない壁際に身を潜め、様子をうかがう。
その女性は、声と同じく落ち着いた雰囲気の美人で、梶くんと同じくらいか、少し年上に見えた。
濡れた前髪の向こうで、彼女の瞳だけが鋭く光っている。
雨に濡れたコートを片手に持ちながらも、その立ち姿には乱れがまったくない。
肩の傾きも、視線の高さも、選ぶ言葉さえも、まるで計算されたように整っている。
そのとき、彼女の視線が、ゆっくりとわたしのほうへ流れてきた。
目が合った瞬間、胸の奥に冷たさが走る。
その微笑みには礼儀があって、けれど、やさしさはなくて、言葉の前にもう結果が提示されているように、逃げ場を失った気がした。
「……ああ。なるほど」
何かを納得するように、涼やかに告げる声。
今からでも姿を隠した方が良いと思うのに、なぜか、足が動かない。
「ごめんなさい。お邪魔だったかしら?」
その瞬間、背骨のどこかが、氷の指でなぞられたみたいに強ばる。
謝っているのに、真逆のことを告げられているようだった。
雨の匂いをまとっているのに、彼女の周りだけが湿気を寄せつけないような、きりっとした乾いた緊張がある。
こんな人が、梶くんの世界にいるんだ……。
理解ではなく、痛みに近い気づきだった。
その透明な怖さに、わたしは言葉を失った。
「ごめん。ちょお、この人と話してくるさかいに、少し出かけてええかな?」
「──え?」
不意に梶くんに声を掛けられ、言葉の意味はわかるのに、頭が理解を拒んだ。
……わたしの前ではできない話が、この人との間にあるということだ。
「すぐ終わるし、良かったら風呂でも入って待ってて」
その言葉は、わざと、わたしたちの関係を、彼女に強調しているようにも聞こえた。
つまり、梶くんらしくはない。
だけど、それが今の彼にできる、わたしへの精一杯の気遣いのようにも思えた。
「……わかりました。待ってますね」
二人はすぐに出て行って、梶くんはそれから、二十分もしないうちに帰ってきた。
『あの人は、鏑木絢香さんって名前で、前に仕事で少し関わったことがある人。せやけど、それ以外の付き合いは一切ないから、誤解せんといて』
わたしが話を聞く前に、彼ははっきりとそう言った。
だけど、それ以上のことを聞く余地は与えられなかった。
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