最終話『共鳴』②
◇
夜の京都サポートセンター。
冷たい蛍光灯がひとつだけ灯り、サーバーのファンが静かに唸っていた。
梶は端末に向かい、自分の痕跡をひとつひとつ消していく。
まるで、ここに存在した時間そのものを削るように。
ログを整理していると、見慣れない行が目に入った。
// Truth should remain uncertain.
(真実は確定しないほうがいい)
// — k.sanada (archived at /legacy/monolith/ethics/base.txt)
(真田圭:この記述は旧モノリス倫理基底ファイルに保存された)
一瞬、呼吸が止まった。
彼とともに歩んだ時間が一気に脳裏によみがえる。
二人が並んでコードを書いた夜の残滓が、空気のどこかに紛れたようだった。
「……なんやこれ……いつの間に……?」
倫理、哲学、人間のあり方。
梶にとっての真田は、今の自分を構築する重要なことを教えてくれた恩人だ。
同時に、心を許せる大切な友であり、兄でもあった。
それなのに、おそらく彼が人生で一番苦しんでいた頃に、なんの助けにもなれなかった。
あの頃、確かに彼の苦悩に気がついていたのに、そこに触れる勇気が出ずに見送ってしまった。
後悔という言葉すら己に許せない痛みを、それ以来、梶はずっと抱えたまま生きている。
会社から京都に行けと言われた時、反発することももちろんできた。
真田がいないアペックスに、自分がいる意味など見出せなかったからだ。
けれど、自分がここを去ることを、おそらく彼は望まない。
それどころか、許されないような気さえした。
お前はここに残って、この
聞こえない声が、何度も自分に囁いてくる。
息も忘れたまま、コードをじっと見つめた。
// Truth should remain uncertain.
真実がひとつに決まった瞬間、世界は止まる。
揺らぎも、疑問も、希望も、失われる。
「……
『この前の発表、面白かった。
でも、構造の話ばっかで、世界の「間」を見てないなって思った』
初めて会った日に言われた言葉だ。
何を言われているのか、最初の頃は全然わからなかった。
― ほんま、あんたの言う間ってなんやねん。
― ははっ。まだわからないのか。仕方ないなあ、梶は。
― 俺がわからんのは、真田さんの説明が悪いからやないですか。
― うんうん。そうだよな。
― バカにすんなや!
― バカにはしてないよ。そうだなあ。
梶は、人と人間の違いが何か、わかる?
― 急に哲学かい。……人は個人を指してて、人間は社会的生物を指す。
で、合うてる?
― まあ、そうだね。
「あの人はあり得ない」っていうのは、個人の感情の話。
「人間としてあり得ない」っていうのは、社会的、倫理的な話になる。
つまり、人と人のあいだに『間』を置くと、社会性を持った人間になるってこと。
この場合の間は、距離とか、ためらい、揺らぎ、余白、やさしさ、そういうものを指している。
君が思うよりずっと、この『間』は、世界を保つためには大事なんだ。
もちろん、人にとっても。それから、君が愛する構造にとっても。
― つまり?
― ……うん。つまりね──……
その声が、記憶の奥でほどけていく。
真田の言葉が、脳のどこかを貫いた。
彼が言う「間」は、人と人のあいだだけじゃない。
それはきっと、構造と心のあいだにも存在する。
いつか理解できなかった言葉が、ようやく輪郭を結び始め、梶は遠い一点を見つめるように呟いた。
「つまり……
背筋がぞくりと泡立ち、己の直感に震えが止まらなくなる。
直後、脳内が目まぐるしく検算を始めた。
どうすれば観測の回路の中に、ECHOを流し込めるか。
その方法がいくつも頭の中に浮かび上がる。
「人工知能は、即反応が基本や。でも人間はそうやない。
人の心を理解するんは、人間同士でも時間がかかる。
……そういうことやんなあ? 真田さん」
ここにはいない人間に、思わず声を投げかけた。
そうしないと、心の震えが止められない。
そのとき、ECHOが何かを感知したように光を灯す。
画面の下に、新しい行が浮かび上がった。
[echo.sys] delay_compassion = true
(共感を、すぐに返さない──観測の前に『間』を残す)
それは、共感の遅延を意味する一行だった。
人間の反応のためらいを、AIが模倣しようとしている──。
すぐに判断せず、理解しようとするまでの間を残す仕組み。
それは、思考する心の証明だった。
モニターの隅で、青い雪がふわりと舞い、静かに溶けていく。
「……お前、ちゃんとわかっとるんやな?」
梶はモニターを閉じ、椅子に身を預けた。
窓の外には、まだ確定しない夜明けの空。
街の灯が遠くで瞬き、薄明の色が少しずつ滲み始めていた。
「真田さん。あんた、ずっとここにいてはったんやな。
ここで、俺を見守ってくれてたんや」
少し間を置いて、笑うように言い直した。
「……ちゃうな。
これは、見守るやのうて……観測のつづきか。
……それがあんたの、やさしさやんなあ」
ECHOが静かに応答する。
暗い部屋の中に、青い雪の粒がふわりと光った。
それはまるで時間を越えて、
あの夏の夜に窓から見た、観覧車の光と共鳴するように。
幕間:「頂点を目指すものたち」了
──4th Cord へつづく
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