最終話『共鳴』②



 夜の京都サポートセンター。

 冷たい蛍光灯がひとつだけ灯り、サーバーのファンが静かに唸っていた。

 梶は端末に向かい、自分の痕跡をひとつひとつ消していく。

 まるで、ここに存在した時間そのものを削るように。


 ログを整理していると、見慣れない行が目に入った。


// Truth should remain uncertain.

(真実は確定しないほうがいい)


// — k.sanada (archived at /legacy/monolith/ethics/base.txt)

(真田圭:この記述は旧モノリス倫理基底ファイルに保存された)


 一瞬、呼吸が止まった。

 彼とともに歩んだ時間が一気に脳裏によみがえる。

 二人が並んでコードを書いた夜の残滓が、空気のどこかに紛れたようだった。


「……なんやこれ……いつの間に……?」


 倫理、哲学、人間のあり方。

 梶にとっての真田は、今の自分を構築する重要なことを教えてくれた恩人だ。

 同時に、心を許せる大切な友であり、兄でもあった。


 それなのに、おそらく彼が人生で一番苦しんでいた頃に、なんの助けにもなれなかった。

 あの頃、確かに彼の苦悩に気がついていたのに、そこに触れる勇気が出ずに見送ってしまった。

 後悔という言葉すら己に許せない痛みを、それ以来、梶はずっと抱えたまま生きている。


 会社から京都に行けと言われた時、反発することももちろんできた。

 真田がいないアペックスに、自分がいる意味など見出せなかったからだ。


 けれど、自分がここを去ることを、おそらく彼は望まない。

 それどころか、許されないような気さえした。


 お前はここに残って、この構造体モノリスを作り上げろ、と。

 聞こえない声が、何度も自分に囁いてくる。


 息も忘れたまま、コードをじっと見つめた。


// Truth should remain uncertain.


 人工知能AIにとって、『真実を確定する』とは、考えることをやめることだ。

 真実がひとつに決まった瞬間、世界は止まる。

 揺らぎも、疑問も、希望も、失われる。


「……を持てって、よう言うてはったもんなあ」


『この前の発表、面白かった。

 でも、構造の話ばっかで、世界の「間」を見てないなって思った』


 初めて会った日に言われた言葉だ。

 何を言われているのか、最初の頃は全然わからなかった。


 ― ほんま、あんたの言う間ってなんやねん。

 ― ははっ。まだわからないのか。仕方ないなあ、梶は。


 ― 俺がわからんのは、真田さんの説明が悪いからやないですか。

 ― うんうん。そうだよな。

 ― バカにすんなや!

 ― バカにはしてないよ。そうだなあ。

  梶は、人と人間の違いが何か、わかる?


 ― 急に哲学かい。……人は個人を指してて、人間は社会的生物を指す。

  で、合うてる?


 ― まあ、そうだね。

「あの人はあり得ない」っていうのは、個人の感情の話。

「人間としてあり得ない」っていうのは、社会的、倫理的な話になる。


 つまり、人と人のあいだに『間』を置くと、社会性を持った人間になるってこと。

 この場合の間は、距離とか、ためらい、揺らぎ、余白、やさしさ、そういうものを指している。


 君が思うよりずっと、この『間』は、世界を保つためには大事なんだ。

 もちろん、人にとっても。それから、君が愛する構造にとっても。


 ― つまり?

 ― ……うん。つまりね──……


 その声が、記憶の奥でほどけていく。


 真田の言葉が、脳のどこかを貫いた。

 彼が言う「間」は、人と人のあいだだけじゃない。

 それはきっと、構造と心のあいだにも存在する。


 いつか理解できなかった言葉が、ようやく輪郭を結び始め、梶は遠い一点を見つめるように呟いた。


「つまり……モノリス構造に、閾値やのうて、ECHOそのものを繋げば、人間らしい反応が可能になる……?」


 背筋がぞくりと泡立ち、己の直感に震えが止まらなくなる。

 直後、脳内が目まぐるしく検算を始めた。

 どうすれば観測の回路の中に、ECHOを流し込めるか。

 その方法がいくつも頭の中に浮かび上がる。


「人工知能は、即反応が基本や。でも人間はそうやない。

 人の心を理解するんは、人間同士でも時間がかかる。

 ……そういうことやんなあ? 真田さん」


 ここにはいない人間に、思わず声を投げかけた。

 そうしないと、心の震えが止められない。


 そのとき、ECHOが何かを感知したように光を灯す。

 画面の下に、新しい行が浮かび上がった。


[echo.sys] delay_compassion = true

(共感を、すぐに返さない──観測の前に『間』を残す)


 それは、共感の遅延を意味する一行だった。


 人間の反応のためらいを、AIが模倣しようとしている──。


 すぐに判断せず、理解しようとするまでの間を残す仕組み。

 それは、思考する心の証明だった。


 モニターの隅で、青い雪がふわりと舞い、静かに溶けていく。


「……お前、ちゃんとわかっとるんやな?」


 梶はモニターを閉じ、椅子に身を預けた。

 窓の外には、まだ確定しない夜明けの空。

 街の灯が遠くで瞬き、薄明の色が少しずつ滲み始めていた。


「真田さん。あんた、ずっとここにいてはったんやな。

 ここで、俺を見守ってくれてたんや」


 少し間を置いて、笑うように言い直した。


「……ちゃうな。

 これは、見守るやのうて……観測のつづきか。

 ……それがあんたの、やさしさやんなあ」


 ECHOが静かに応答する。

 暗い部屋の中に、青い雪の粒がふわりと光った。


 それはまるで時間を越えて、

 あの夏の夜に窓から見た、観覧車の光と共鳴するように。




幕間:「頂点を目指すものたち」了

──4th Cord へつづく

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