触れたら崩れてしまいそう


 ……そんな出来事を反芻しながら、ワインを一口飲む。

 少しの苦みを舌で味わっていると、いたずらな顔をした志穂さんと目が合った。


「……なんですか?」

「もしかして、本当に元カノでも現れたの?」

「ち、違います。元カノでは全然ないんですけど……」


 あの人がいったい誰なのか、わたしにはよくわからない。

 梶くんと付き合い始めて、来月で一年になる。

 そのあいだ、交わしたたくさんの言葉と、過ごした時間の中で、わたしは既に気がついていた。


 梶くんには、何かわたしに言えないことがある。

 そしてそれは、間違いなく、彼の仕事に関わることなのだと。


 梶くんがわたしに嘘をついていると感じたことはない。

 だけど、仕事に関してだけは、彼はいつもふわっと流す。

 そういうときは空気を読んで、絶対に立ち入らないようにしてきた。

 それは気遣いではなく、彼との時間に、わたしの不安を持ち込みたくない──そんな、わたし自身の弱さだと思う。


 だけど、あの京都の夜に現れた鏑木さんという女性は、わたしと梶くんのあいだに横たわる、見えない隔たりを露わにする存在だった。

 気がついたら、無意識のうちに聞いていた。


「志穂さんは……もしかして、鏑木絢香さんって女性を知っていますか?」


 わたしと違い、広報の志穂さんは社内でも顔が広い。


「鏑木絢香? 知ってるも何も……逆に、花は彼女を知らないの?」

「え? そんなに有名な人なんですか?」


 志穂さんは赤ワインを揺らしながら、少し声を低くする。


「社内を渡り歩く内部監査の番人よ。

 権限管理・内部監査・情報統括……要するに、会社でやってはいけないことを全部、見つける側の人間。

 だから名前だけは、絶対に覚えておいたほうがいい」


 思わずごくりと喉を鳴らす。


「仕事は鬼のようにできるし、美人だし、今は但馬専務の側近として動いてるらしいから、正直迂闊に近づくのも怖いわね。

 彼女が『要らない』と判断したら、社内政治がひっくり返るって噂だし。

 非の打ち所がない、アペックスのミスパーフェクト」

「ミスパーフェクト……」


 通り名からして、もう怖い。

 そんな人が、あの日の夜、梶くんを訪ねてきた。

 理由がなんであれ、それは動かしようのない事実だ。


「それで、鏑木さんが花の彼氏の元カノってこと?」

「いえっ。それは違います。本人が違うって言ってたし」

「……悪いけど、それ、信じるの?」

「え?」


 眉間にしわを寄せる志穂さんに、心臓が嫌な音を立てる。


「だって、話の流れ的に、京都で鏑木さんに会ったってことでしょ?

 彼女みたいな合理主義を絵に描いたような人が、あなたの恋人に会いに、わざわざ京都に行くって、ちょっと信じられない。

 仕事だったら、相手を本社に呼び出すはずじゃない?」


 そう言われると、反論のしようがない。

 だけど、それでも思う。


「……なんで鏑木さんが会いに来たのかは、わからないけど、梶くんは嘘をつく人じゃないから……」


 言葉にすると、なんの信憑性もない。

 けれど、本心から出た言葉だ。


「だから……彼女ではない、と思う」

「……そっか。うん、花がそう言うなら、きっとそうなんでしょうね」

「もちろん、希望的観測っていうか、恋は盲目みたいなアレかもしれないんだけど」

「うんうん。良いのよ、それで。

 相手を疑うのは簡単だけど、信じることは難しいじゃない?

 でも、花はそれが当たり前にできてるから、きっと大丈夫」


 志穂さんの言葉に、ほっとするはずなのに、胸の奥に小さなざらつきが残った。

 触れたら崩れてしまいそうで、見ないふりをしているだけの不安。

 その正体には、まだ名前がつけられなかった。


「でもね、鏑木さんが、梶さんに関わろうとしているなら、それはそれで危険だってことは覚えておいてね」

「危険、ですか?」

「そう。恋愛関係じゃなくて仕事で関わるなら、きっと、あなたの恋人は、社内でも中枢に近い場所にいるはずだから」

「中枢……」


 そんな人がなぜ、ずっと京都にいるのだろう。

 わからないことが多すぎて、どう捉えていいのか判断に迷う。


「そこはね、人の評価も、力関係も、一瞬でひっくり返る世界よ。

 何があるかはわたしにもわからないけど……巻き込まれたら、普通の部署とは違う風が吹く。

 誰が昇格して、誰が消えて、誰が黙らされるか……」


 ──だから、花も気をつけなさい。


 ワインに酔ったわけではない。

 けれど、志穂さんの言葉を、わたしはどこか遠い世界のことのように聞いていた。

 いまはまだ、わかりたくなかった。

 その遠い世界に、梶くんが立っているということを。

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