第六話『夏の残響』③
◇
凍結が決まった翌日。
本店ビルの九階、研究開発フロア奥の小さな打ち合わせ室。
夕方の光がブラインドを透かして斜めに差し込み、机の上の書類に細い影を落としていた。
冷房の風がゆるく吹き抜け、紙の端がかすかに震える。
海堂は黙ったまま資料を閉じ、真田の顔を見た。
その視線の鋭さは、昨日の会議室よりも、ずっと人間的だった。
「……残念だから、プロジェクトは一時凍結に入る」
その言葉に、真田はため息をついて答えた。
「そうですか。それは──ちょうどいいですね」
「……ちょうどいい? どういう意味や」
真田は少し困ったように笑った。
ブラインドの隙間から入る光が、彼の頬の輪郭をやさしく照らす。
「標準語が崩れてますよ、海堂さん。
ちょうどいいは、言葉のままの意味です。ずっと相談したかったんだ」
真田は手元のペンを回し、ゆっくりと呼吸を整える。
「残念ですが……俺には、もうこれ以上、モノリスに人の心を伝えるルートが見えません。
やれることは全部やった。
あらゆる閃きを試した。
それでも……モノリスは、今の俺には難題すぎるんです」
「冗談だろ?」
「いいえ。残念ながら」
真田は苦く笑い、そして不意に目を上げた。
「だから、海堂さん。お願いがあります」
海堂の眉がわずかに動く。
「お願い? 退職なんかさせんからな」
「違います。俺を、こっそりアメリカに逃してください」
「アメリカ!? なんのためにだ?」
真田は、少しだけ目を伏せた。
「俺はね、梶の足枷にはなりたくないんですよ。
あいつは、出会った時から、ずっと俺を対等だと思い込んでいる。
実際には、あいつの方が、比べるまでもなく、すごい才能の持ち主なのに。
でも、そのバイアスが……きっと、梶の可能性を矮小化する。
あいつをもっと先へ行かせるためには、もう俺が邪魔なんです」
その声は淡々としていたが、どこか祈るような響きがあった。
海堂は何か言いかけたが、彼の雰囲気に圧されて黙る。
真田の喉が、かすかに震えていた。
「……楽しかったなあ。
覚えてますか? 海堂さん。
関内のマンションで、観覧車を見ながら、たくさん話しましたよね。
会社の未来とか、モノリスのこととか。どうでもいい雑談とか。
人生で一番充実していた時間を上げろって、もしも誰かに言われたら、俺は迷わず、あの日々を選びます。
あれは、ただの時間じゃなかった。
正直、あの頃は忙し過ぎて、全然そうは思えなかったけど、今ならわかる。
あれが、俺の人生で、最も有意義な、幸せな時間だったんだ」
海堂は、思わず目を逸らした。
窓の外には霞んだ街の輪郭、遠くに白く光る観覧車の影。
「それは……俺にとっても、それから梶にとっても、きっとそうやろ」
「ははっ。そうだといいんだけど……」
真田は短く笑った。
その目は、もう遠くを見ていた。
まだ訪れていない未来を、まるで確信するように。
「だからこそ、俺は梶の元を去る。
モノリス開発の最後のピースは、あいつが握っているはずだから」
沈黙が落ちた。
数秒後、海堂は深く息を吐いて言った。
「わかった……。
海外研究員扱いにするか、それ以外にするか……ルートは今すぐ答えられないが、真田の意思を可能な限り尊重する」
真田は小さく頭を下げた。
「俺が去る理由を、梶には絶対に言わないでください。
あいつに、ひとつの引け目も感じさせたくないんです。
俺のわがままだと、そう言って欲しい。……あいつは、きっと怒るだろうけど」
海堂は俯いたまま、拳を握りしめた。
自分よりも若い二人に、こんな苦しい思いをさせなくてはならない己の見通しの甘さと、不甲斐なさが、悔しくて仕方なかった。
だからこそ、二人を全力で守る責務が、自分にはある。
「……そんなわけないやろ」
「え?」
「梶は、ただ……悲しむだけや。お前の不在を」
真田は何も言わなかった。
机の上のペンを置き、静かに立ち上がる。
ドアの前で振り返り、柔らかく笑った。
「ありがとう、海堂さん」
その言葉を最後に、彼は去った。
残された海堂は、足下を見つめながら、ゆっくりと目を閉じる。
冷房の風が止まり、部屋の空気が静止する。
聞こえるのは、自分の鼓動だけだった。
「……バカだな、真田。
大人にも……大人だからこそ、誰かと一緒に成長するって選択肢があると、ちゃうんか……」
詭弁だとわかっていても、呟かずにはいられなかった。
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