第六話『夏の残響』③



 凍結が決まった翌日。

 本店ビルの九階、研究開発フロア奥の小さな打ち合わせ室。

 夕方の光がブラインドを透かして斜めに差し込み、机の上の書類に細い影を落としていた。

 冷房の風がゆるく吹き抜け、紙の端がかすかに震える。


 海堂は黙ったまま資料を閉じ、真田の顔を見た。

 その視線の鋭さは、昨日の会議室よりも、ずっと人間的だった。


「……残念だから、プロジェクトは一時凍結に入る」


 その言葉に、真田はため息をついて答えた。


「そうですか。それは──ちょうどいいですね」

「……ちょうどいい? どういう意味や」


 真田は少し困ったように笑った。

 ブラインドの隙間から入る光が、彼の頬の輪郭をやさしく照らす。


「標準語が崩れてますよ、海堂さん。

 ちょうどいいは、言葉のままの意味です。ずっと相談したかったんだ」


 真田は手元のペンを回し、ゆっくりと呼吸を整える。


「残念ですが……俺には、もうこれ以上、モノリスに人の心を伝えるルートが見えません。

 やれることは全部やった。

 あらゆる閃きを試した。

 それでも……モノリスは、今の俺には難題すぎるんです」

「冗談だろ?」

「いいえ。残念ながら」


 真田は苦く笑い、そして不意に目を上げた。


「だから、海堂さん。お願いがあります」


 海堂の眉がわずかに動く。


「お願い? 退職なんかさせんからな」

「違います。俺を、こっそりアメリカに逃してください」

「アメリカ!? なんのためにだ?」


 真田は、少しだけ目を伏せた。


「俺はね、梶の足枷にはなりたくないんですよ。

 あいつは、出会った時から、ずっと俺を対等だと思い込んでいる。

 実際には、あいつの方が、比べるまでもなく、すごい才能の持ち主なのに。

 でも、そのバイアスが……きっと、梶の可能性を矮小化する。

 あいつをもっと先へ行かせるためには、もう俺が邪魔なんです」


 その声は淡々としていたが、どこか祈るような響きがあった。


 海堂は何か言いかけたが、彼の雰囲気に圧されて黙る。

 真田の喉が、かすかに震えていた。


「……楽しかったなあ。

 覚えてますか? 海堂さん。

 関内のマンションで、観覧車を見ながら、たくさん話しましたよね。

 会社の未来とか、モノリスのこととか。どうでもいい雑談とか。

 人生で一番充実していた時間を上げろって、もしも誰かに言われたら、俺は迷わず、あの日々を選びます。

 あれは、ただの時間じゃなかった。

 正直、あの頃は忙し過ぎて、全然そうは思えなかったけど、今ならわかる。

 あれが、俺の人生で、最も有意義な、幸せな時間だったんだ」


 海堂は、思わず目を逸らした。

 窓の外には霞んだ街の輪郭、遠くに白く光る観覧車の影。


「それは……俺にとっても、それから梶にとっても、きっとそうやろ」

「ははっ。そうだといいんだけど……」


 真田は短く笑った。

 その目は、もう遠くを見ていた。

 まだ訪れていない未来を、まるで確信するように。


「だからこそ、俺は梶の元を去る。

 モノリス開発の最後のピースは、あいつが握っているはずだから」


 沈黙が落ちた。

 数秒後、海堂は深く息を吐いて言った。


「わかった……。

 海外研究員扱いにするか、それ以外にするか……ルートは今すぐ答えられないが、真田の意思を可能な限り尊重する」


 真田は小さく頭を下げた。


「俺が去る理由を、梶には絶対に言わないでください。

 あいつに、ひとつの引け目も感じさせたくないんです。

 俺のわがままだと、そう言って欲しい。……あいつは、きっと怒るだろうけど」


 海堂は俯いたまま、拳を握りしめた。

 自分よりも若い二人に、こんな苦しい思いをさせなくてはならない己の見通しの甘さと、不甲斐なさが、悔しくて仕方なかった。

 だからこそ、二人を全力で守る責務が、自分にはある。


「……そんなわけないやろ」

「え?」

「梶は、ただ……悲しむだけや。お前の不在を」


 真田は何も言わなかった。

 机の上のペンを置き、静かに立ち上がる。

 ドアの前で振り返り、柔らかく笑った。


「ありがとう、海堂さん」


 その言葉を最後に、彼は去った。


 残された海堂は、足下を見つめながら、ゆっくりと目を閉じる。

 冷房の風が止まり、部屋の空気が静止する。

 聞こえるのは、自分の鼓動だけだった。


「……バカだな、真田。

 大人にも……大人だからこそ、誰かと一緒に成長するって選択肢があると、ちゃうんか……」


 詭弁だとわかっていても、呟かずにはいられなかった。

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